第1話 旅立ち
※前作『終末に抗ってみよう。』 https://ncode.syosetu.com/n7881dv/のネタバレを含みますが、これだけを読んでもお楽しみいただけるように書こうと思っています。
薄暗い洞窟のなかで、硬い物がぶつかる音が響く。妙に反響したその音に耳を澄ませ、少年は何度か頷いた。
「……誕生日おめでとう、俺」
もらったナイフを手元でくるくると回し、腰のホルダーに収める。「まだ体もできていないから」という言葉とともに渡されたそのナイフは、この森で生き延びるなかで何度も役に立ってくれた。
「もうこの森に暮らし始めて5年か……」
少年が住処にしている洞窟の壁には、無数の傷跡がついていた。所せましと刻まれたその傷は、少年が一日過ごすごとにつけていた目印だ。
「生き延びたよ、リーリルさん……」
自分を訪ねて来てくれた女性のことを思い出し、少年はそっと壁を撫でた。学院で教師をしているリーリルと名乗った女性は、少年をいとも簡単に返り討ちにするほどの実力者だった。聞けば、学院で剣術を教えているという。
「名残惜しいけど、行こう」
洞窟の奥から、重たいものを引きずるような低音が響く。やがて爛々と黄色い目を光らせて現れたのは、二つの頭を持つ獅子。それぞれが独自の思考を持ちながらも、連携した攻撃を仕掛けてくる、【双頭の獣王】と呼ばれる魔獣だ。
「ガズ、ゼダ」
少年が呼びかけると、二つの頭が同時に唸る。口元から覗く牙は太く鋭く、獲物を狩るための武器であることがわかる。ゼダと呼ばれた右側の頭は、牙が1本しかなく、ガズと呼ばれた左側の頭は、右目がある場所に傷跡があり、視力を失っていた。
「俺は行くよ。元気で暮らせよ」
喉を鳴らして近寄ってくる【双頭の獣王】――大の大人が10人いても薙ぎ払われる魔獣に、少年は恐れる様子もなく近づき、抱きしめた。血と汗と、獣の匂いが少年を包み込む。
「ん?」
鼻先で頭を小突かれ、少年が視線をあげる。すると、ガズが一声吠えた。少年の首元に潜り込んでいた蛇が、スルスルと登り、少年の頭にとぐろを巻く。
「俺は大丈夫だよ……アーズもいるし、途中まではロラーンに連れて行ってもらうし。心配するなって。なっ、アーズ」
名前を呼ばれた蛇は眠そうに頭をもたげて、ガズとゼダに向けて大きくあくびをして見せた。心配性なガズとゼダ、寝坊助のアーズ、気難しいロラーン……それぞれが少年とともにこの森を生き抜いてきた仲間たちだ。
ある意味いつも通りのアーズの様子に安心したのか、それとも気が抜けたのか、ここ最近ずっと心配そうだったガズとゼダも落ち着いたように腰を下ろした。かすかに朝日が差し込んでいた洞窟の入り口から、羽ばたきの音が聞こえる。
「ロラーンが来たみたいだ。行ってくるよ」
少年は小さな鞄を持ち、棚に置いてあったネックレスを手に取る。巨大な牙にこと細かに模様が掘られているそれは、少年の大切なお守りだった。少しだけそれを眺めて、何かを思い出すように佇んでいた少年だったが、洞窟の入り口から鳴き声が聞こえてきたので慌てて走る。
「今いくよロラーン! じゃあ、ガズ、ゼダ、また戻ってくるから! 行ってくる!」
返答は力強い咆哮だった。2つの口から放たれる、勇猛な、それでいて別れを悲しむ哀切の二重奏。その咆哮は洞窟で反響し、増幅され、森に広がっていく。
ガズとゼダからの、『行ってこい』というメッセージ。
少年にとって、最高の贈り物だった。
「……うん。ありがとう!」
少年が走るのに合わせて、うたたねをしていたアーズが慌てて首元に滑り込む。少年について行きたがった者は数多くいたが、何十回にも及ぶ会議の末、能力面や隠密性を考慮してアーズが選ばれた。眠るのが好きな彼が、その会議中は一睡もしなかったことはこの森では有名な話だ。少年は知らないが。
「よろしく、ロラーン!」
陽光を浴びて輝く体を叩き、少年はロラーンに笑いかける。彼女は感情を感じさせない瞳で少年を一瞥すると、大きく翼を広げて走り出した。少年は笑顔のまま、その後ろを走る。やがて木が切り倒されて開けている場所に出た。
その瞬間、ロラーンがわずかにスピードを緩め、少年が跳躍する。ロラーンは、背中に軽い衝撃――だが、絶対に落とせない重み――が加わったのを感じて、翼を打つ。
足元から噴き上がった風に圧され、ロラーンと少年は勢いよく空中に飛び立った。
【千影の怪鳥】。本来は山などの高所に住み、鈎爪で獲物を浚う魔獣だ。背に人を乗せたロラーンは、再度大きく翼を動かした。大気中に漂う魔力を吸い込み、羽根に行き渡らせることで風を生み出す。
「さあ――」
方向を指示しようとした少年の声が、膨大な音にかき消された。背後から聞こえてきたその声に、少年は思わず振り返る。
森が揺れていた。
少年が育った森に棲む魔獣たちが、少年の旅立ちを祝福していた。先ほどのガズとゼダの咆哮が合図だったのだ。空を飛び立ち、森を去る少年に向けて、魔獣たちの祝福の咆哮が響き渡る。
首元から這い出してきたアーズが、不思議そうに首を傾げ、少年の頬を舐めとる。
「――ありがと、アーズ。ありがとう、みんな」
少年は袖で無理やり目元を擦り、太陽の位置を確認し、ロラーンに伝える。
「太陽を背にして……で、もうちょっとこっち……っと!」
少年の指示に従って、進路を変更するロラーン。風が少年の体を打つ。少し肌寒く感じながらも、少年の視線はまっすぐ前を向いていた。左手が無意識に首元に行き、牙のネックレスを握りしめる。
(いよいよだ……学院都市クゼース)
空を行くという移動手段は非常に効率がいいはずだ。くわえて、ロラーンは人の気配に敏感で、地表を歩く生物に対する観察眼は鋭い。方角は、かつて少年の元を訪れた『リーリル』という女性が教えてくれていた。
(人がいっぱいいるらしいし、楽しみだな……不安もあるけど)
5年前に交わした約束。リーリルが会いに来てくれたように、今度は少年からリーリルに会いに行くという約束だ。
あの村の生き残りとして。そして、ともに生きてきた仲間たちとともに。
――少年は空を征く。
少年の名はティーク。
開拓村ガームの唯一の生き残りにして、魔獣と心を通わす者。
新たな物語が――
「――ここに開幕、と……」
その男は空を飛ぶロラーンの姿を正確に捉えていた。左手には巨大な革張りの本を持っているが、そこに記された文字はインクで書かれたものではない。男の細い右腕から滴る血液が、その本に文字を描いているのだ。
「さて」
男は呟き、巨大な本を閉じた。今まで本に隠れていた左腕が露わになるが、もし人がその姿を見ていれば目を剥いただろう。
細く鋭く尖った右腕、巨腕と言うべきサイズまで肥大化している左腕。なんともアンバランスな存在が、ティークとロラーンを見つめていた。
「もう“語り部”である私の出番ですか……人間というのは、全く。生き急ぐものです」
ふむ、とあごに手を添えた男は首を傾げる。
「しかし、この感触……懐かしいような。それでいて、全然別物のような。『突然変異』……とでも言うのでしょうか。あるいは、あれも一種の『魔人』なのか……」
閉じられた本が、光の粒子になって空中に消えていく。“語り部”である彼は、世界に何が起きたかをその本に書き記すことで知ることができる。もっとも知りたいことを知れるというわけでもなく、その本に記されることは、『世界』に関わることのみ。
「面白い縁の繋がりですねぇ」
――つまり。ティークという少年の旅立ちは、世界に――良きにしろ悪しきにしろ――何らかの影響を及ぼすのだ。間違いなく。
「人類もあっさり滅びるかと思いきや。なかなか粘りますし……また、面白いものが見れるといいのですが」
彼の名は“語り部”シギー。世界とともに存在し、世界を語る者。