リシン
それから幾日かは無為に過ぎていった。
両親は結局マナカに何も言わず、食事の時顔を合わせても黙して語らなかった。最初はいつ、両親から狒々神様の嫁になることを伝えられるかと恐々としていが、いくら待っていても二人がそれを匂わすような事はなかった。ただ、あの日から3人は奥の部屋に集まって話をする事が増え、そのことをマナカに隠さないようになっていった。
自然、マナカは家に居づらくなり、今日も朝餉もそこそこに村の外れにある川へ向かう。産卵のために川に戻ってきた魚が獲れるこの時期は誰かしらが川に入って魚を獲ろうとしていた。その中にマナカの幼馴染の姿を見つけ、嬉しくなりながら川端の土手に座り込んだ。そんなマナカに気付いたのか、川の中から手を振られて、マナカも大きく振り返して答える。マナカにとっては妹以外で唯一の遊び相手だ。
それから、暫くは漁の様子をじっと眺めていた。川は所々深いところがあり、まだ成人していないマナカが入る事は許されていない。川の中の魚を獲る術を覚えれば、もしかしたらお山の中で生活出来るのではないか、とぼんやりと考えてみるが、今から教わった所で果たしてマナカに出来るようになるかどうか、分からなかった。
空は澄み切った青空で、白兎のような雲が一面に並んでいる様子がとてもかわいい。マナカは幼馴染が川から上がるまで空を眺めたり川を眺めたりして出来るだけ何も考えないように過ごしていた。
「こんな所でさぼってていいのか?マナカ」
太陽がゆるゆると登ってきた所で川から上がってきた幼馴染のリシンがマナカに声をかける。この時期の川の水は冬場程ではないにしても酷く冷たいはずだ。あまり長く入っていると、足に血が通わず危ないので川の中にあまり長居はできない。土手の向こうでは枯れ木を集めた薪で暖をとる村人たちの姿が見えた。
「うん、もう朝の仕事は終わってるから。チエブ獲れた?」
リシンの背には藤で編んだ漁用の籠が背負われて中でピチピチとした魚が跳ねる音がする。その音の様子から今日は沢山獲れたようだった。
「おう!今年のチエブは量が多くて型もいいって皆が言ってる。俺は今年初めて獲るからよくわからないけどな」
リシンは今年成人したばかりでマナカより一つ年上だった。
「ふうん、今年初めて漁のやり方を教わったんでしょう?そんなにすぐ獲れるようになるもんなの?」
「まあな…と言いたい所だが、実は一昨年から父ちゃに連れられて山の小さい川で練習してたからな。他の同い年の奴らは全然獲れないってぼやいてたから内緒にしろよ?」
リシンがあっさりと村の掟に背いていたことを告げたので、マナカは思わずぽかん、としてしまった。慌てて周りを見るが、幸いな事に辺りに人は居ない。
「ちょっと、…そんなこと言って大丈夫なの?年寄り組の耳に入ったらリシン達村八分にされちゃうよ」
なるべくひそひそと声を抑えてマナカが言えば、リシンは豪快に呵々と笑った。
「だから、内緒だと言ったろう。お前は口が硬いし何より家族の他に話すのは俺かヌタのババアだけじゃないか。お前が黙っていればバレる事はない」
黒い髪を手ぬぐいで乱暴に拭きながら、リシンはなんでもない事のように言った。川の水はリシンの腿あたりまで濡らしているので、上半身は比較的濡れていないが、やはり漁をすれば所々濡れるようで、籠を降ろしたリシンはそれを拭っていく。
マナカとしては信用してくれるのは嬉しいが、その理由がマナカの友人の少なさにあると言われ素直に喜べない。
「おい、背の方を拭いてくれるか」
リシンは、マナカに手拭いを放るとさっさと背中を向けて土手の草むらにどっかりと座り込んだ。
リシンは何をするのも豪快で自分本意だが、マナカは不思議とそれを不快に感じた事はない。マナカの返事など必要ないとでも言うような振る舞いだったが、マナカが本気で嫌がるような事は絶対にしないのだ。
いいように振り回されている感じもするが、リシンと話しているとその匙加減が心地良い。
「もう、向こうできちんと乾かしたほうが良いんじゃない?風邪を引いたらどうするの」
「そうしたらマナカが暖めに来てくれりゃいい。マナカがここに居るせいで俺は向こうに行かれんのだからな」
「なっ!」
マナカの頰にさっと朱が登り、何気なく背中に当てていた手が急に恥ずかしくなる。今年成人して若衆入りしてからリシンは時々このようにマナカをからかってくるようになった。恥ずかしくてマナカが黙るとリシンは口の端を持ち上げ、愉快そうにまた呵々と笑った。
揶揄われたことに少し腹を立て、やや乱暴にリシンの背を拭く。恥ずかしさを紛らわそうと、マナカはつい聞かないようにしていた事を聞いてしまった。
「リシンは春から若衆達の仕事を手伝ってるんでしょ?お山の行列にも加わるの?」
ぴたり、とリシンの笑い声が止まる。
マナカはしまった、と思ったが一度吐いた言葉を無かったことにはできない。消え入りそうなか細い声でごめんなさい…と呟いた。
「……お前の家に白羽の矢が刺さったことは村の若衆以上の者は皆知っている。自分の家のことだ。気になるのは仕方ないことだ。誰から聞いたかは聞かんが、どうせヌタのババアあたりだろ」
だが、他の者には言ってはならんぞ、とリシンは続けてからため息を吐いた。
「真若衆はクギモチには参加出来ない決まりだ。少なくとも5年以上年配の者達がクギモチをする。お前が妹を気にかけるのはわかるが、こればかりは力になれない」
「……やっぱり知ってたんだね。私が貰われっ子だって」
「若衆になってから、色んな事を年寄り組から教わるからな。でも全員が知ってる訳じゃない。秘密や掟を守れるようになったら自然と耳に入るようになってるんだ」
成人してから三、四年は真若衆と呼ばれその間に村の様々な仕事や掟について年配者から学ぶのだそうだ。今年若衆になったばかりなのに、リシンはとても村の色々な事に詳しい様子だった。マナカは不思議に思い、何故そんなに詳しいのかと問えば笑いながら思いがけない言葉が返ってくる。
「春の祭りで真若衆の筆下ろしがあってな。まあ、詳しい事は話さんが若衆の中には初心なやつもいるからそういった者に自信をつけさせたいんだろう。俺はお前を嫁にするつもりだから必要ないと言ったら、トネリの後家さんが聞いても無いのに一晩中べらべらと教えてくれたのさ」
マナカは今度こそ真っ赤になって俯いてしまった。筆下ろしやいきなり出てきたトネリの後家さんとかはよくわからないが、何となく凄く恥ずかしいことを言われたような気がするし、何よりいきなりお前を嫁にするつもりだと言われて平常心を保てるマナカではかった。
「なんだ、お前は俺以外の者には懐かんし、俺の事を憎からず思っていると思っていたが。まあどうせ、次の春に成人すればすぐに親父殿に許しを貰うつもりだ、諦めろ」
こちらを振り返ってリシンが追い打ちをかけると、マナカは居た堪れず顔を隠して蹲った。普段からかってくる言葉なぞ比較にならない文句にマナカは顔から湯気が出る程慌ててしまった。
「なななななんでそんなこといきなり言うのよ、リシンの阿呆!」
「こら!未来の亭主に向かって阿呆とはなんだ、阿呆とは」
「みみみらいのていしゅ?!」
がばり、と顔をあげると思いがけず近いところにリシンの顔がある。こうやって見ると、去年より大分頰が引き締まり、目元が鋭くなっていた。よく見知っていたはずの顔が急に知らない人のようで、リシンはこんな顔をしてたかしら、とついまんじりと見つめてしまっていた。
リシンは片眉をあげてマナカの様子を見ていたが、ふと思いついたようにマナカの肩に手を乗せ、さっと自身の唇をマナカのそれに寄せて触れ合わせる。
マナカは咄嗟に「きゃあ」と叫んでリシンの胸を押すが、その時にはリシンの手も唇も離れていて、満足そうなリシンの顔だけがそこにあった。
「なんだ、ねだられたかと思ってしてみれば」
「そそそんな訳ないでしょっ!」
「おお、怖い。それではさっさと退散するか」
マナカが慌てている間に、リシンは放り出された手拭いを拾ってさっさと立ち上がるともうチエブの入った籠を覗き込んでいる。そして次には未だに口をはくはくとさせているマナカの横にチエブを二匹放ってよこした。
「ここ最近親父殿を見ていないから、どうせチエブも獲れてないんだろう?今日は沢山獲れたからお裾分けだ」
言うが早いかもうリシンは歩き出していた。マナカはリシンの背中とチエブを交互に見て、慌てて立ち上がればリシンの背は既に遠かった。遠慮する間もないやり方に苦笑しながら大声で「ありがとうー!」と言えば、リシンは背を向けたまま手を挙げて答えてくれた。
秋の乾いた風が心地いいと感じたのは本当に久し振りのことだった。
※チエブ=鮭に似た魚