承前
ゆらゆらと橙色の炎がいくつも揺れていた。暗闇の中、降り積もった雪の白さと炎の対比が一層幻想的で、炎から逃げ惑う人、蹲り泣き叫ぶ人、家族を取り戻そうとする人の叫び声があっても、それはまるで夢のような光景だった。
村に近接する高台から眼下を見降ろしたマナカはその家々に灯った炎に思わず「綺麗…」と呟いていた。
まるで踊っているような炎一つ一つが、14年間住んでいた村を焼く炎であると、頭では分かっているのだがどこか現実味がない。人々の狂乱の声も年に一度の祭囃子のそれのように聞こえ、そこに見知った誰かの死が絡んでいるような切迫感を感じることができなかった。
どれくらいの時間だろうか、ぼうっとした虚ろな眼をふわふわとあちこちに向けていたが、彷徨わせた視線がふと嘗ての自分の家を捉える。隣家から飛び火してきた火の粉が屋根に移れば、家はものの数分で他と同様に一つの灯火となった。
「おお、おお!よくよく燃えているではないか」
ものも言わずその様子を眺めていたマナカの耳に喜色を孕んだ声が届く。
「この様な儚い有様でなんと生き汚いやつらよ」
低いがよく通る声はこの数日で耳に馴染んでしまった。マナカが村を出てから唯一のように聞いていた声。マナカに同意を求めるような声音だが、言外に人間供が、との侮蔑を感じ頷く事などできない。マナカもまた、確かにその儚い人間の一人であるのだから。
嘗ての家の前では父親と思しき人影が必死な様子で何事か叫んでいる。燃え盛る炎の中に戻ろうとしているのを母親や隣家の若衆に止められてもがいていた。
おそらく妹が中に残っているのだろう。無事に春を迎えるまで、村人達から隠すつもりだった。北向きの室の地下に掘ってあったムロにいて逃げ遅れているのかもしれない。それか炎が迫っていたとしても外に出る事が躊躇われたのかもしれない。
追いすがる母親も泣き叫んでいる。遂には止める人々を振り切って父親が中に入った所で盛大に柱が崩れ落ちた。屋根を支えていた梁諸共に炎が一層噴き上がる。最後には蹲る母親の慟哭だけが残された。
白い息をふうっと吐き出してマナカもその場に崩れ落ちる。なんと呆気ない幕切れだろう。彼らはたしかについこの間まで彼らは自分の家族であり、愛すべき人たちだったはずだ。その二人が、父と妹がたった今、死んだ。なのに、心は伽藍堂のように何も何も浮かんでこない。もしかしたら、とっくに私は人間ではなくなってしまったのかもしれない。
たった数日間でマナカの世界は真っ逆さまにひっくり返ってしまった。空を見上げても星など見えない。村を焼く炎の光の照り返しで、重たい雲がもたげてるだけだ。誰が罪を背負い、誰が罰を受けるのが正しいのか。ふと、本当に自分がここにいるのかわからなくなって、自分の存在を確認するように自分で自分の肩を抱いた。先程から舞いだした雪のせいで少し濡れて恐ろしく冷たかった。
突然マナカのすぐ横から「ウオオぉーーーーーーン…」と狼の遠吠えに似た、だが本質的には全く異なった鳴き声が唸った。その声に村の人々が一斉に山を仰ぎ、今夜の火災が自分達の行いの顛末であった事を知った。そして、今年の贄を用意したはずのマナカの家族が、約定を違え、してはならないことを行なった事を村中に知らしめたのだった。
一人蹲り泣き叫んでいた母親をあっという間に村人が囲み引きずり出す。母親は半狂乱で何事か叫びながらもがいていたが、やがてマナカの視界から消えていった。
「どこまでも愚かなもの供よ。自分達の神がすげ変わっていることにも気づかず、いつまでも愚かな約定を続ける」
くつくつと笑いながら心底可笑しそうに呟く神をマナカはゆっくりと振り返った。もうとうに恐怖はない。自分の命は既にこの異形の神に捧げられているのだ。今更惜しんで何になるだろう。
自分の身丈より二周りも大きな異形の神の眼を見ると、暗い眼球に金色の瞳が、嬉しそうに細められる。
間をおかず白銀に光る見事な髪がマナカを優しく掴んだ。
「故郷を燃やされ、帰る場所を奪われて尚、涙はでてこないか、あな口惜しや口惜しや」
異形の神は言葉とは裏腹に、とても愉快そうに村を一瞥すると、マナカを振り返り、言った。
「さあ、帰るぞ、我妻。我らの住処へ」
マナカは抵抗もせず、自らを包む白銀の髪の毛をぐっと握りしめた。
それに重ねて機嫌を良くした神は、自身の髪の毛で引き寄せたマナカを手の中に閉じ込め抱き上げると一気に跳躍する。
張り詰めていた緊張の糸がふと切れたようにマナカは感じた。神の腕の中が心地いいなんて、なんだか自分が滑稽だった。急に意識が深く落ちていくのを感じながらふと、今夜こそ自分が食べられる番かもしれない、と思った。