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虚無への黙祷(R)  作者: 芝田 弦也
22/27

21曲

 改めて自分の身体を観察しようと手を地面から離した時に気がついた。納豆みたいに粘り気のあるべたついた何かが手元に付着しているのか、気持ち悪い感触が残っている。

 掌を確認すると白い粘液がべったりとくっついており、地面から引き剥がされた事により無数の糸が行き場を失って中を舞うように揺らめていた。

 気持ち悪いんだけどこれ。なにこれ? もしかしてこれも緩衝材のような役目を果たしたおかげで衝撃を吸収したとか?

『立てるか?』

 右手を差しだされたけど、こんな手で握っていいのかと逡巡していた。

『立てそうにもないか?』

『そういうわけじゃ……』

 私が言い終わる前よりも早く手を繋いできた薫。

 ねたついた付着物で塗れている筈なのに嫌な顔を一つもせず、強く握ってくれた。

『……ありがとう』

 薫に引っ張られて立ち上がってみたら、私が横になっていた地面は人の輪郭を象るように白い粘液で覆わていた。

『これなに?』

『今はそれどころじゃない。前、見えるか?』

 ついさっきまで私たちに銃口を向けていたであろう兵士達は、先ほどの何かに巻き込まれたのか地面に横たわるように転がっているのが見て取れた。戦闘服が破れて所々から赤黒い血を流している者。四肢が吹き飛んで人の形を無くした者。皮膚まで削げ落ちて黒炭のようになった者。地面は人が流した赤黒い液体で染まっており、血生臭い匂いが鼻腔を刺激する。

『ぅっ……』

『下は見るな。前だ前』

 落ちていた目線を上げてみると、装甲車の中に入っていた兵士達が外の様子を窺う為に降りてきているのが確認できた。

『もう少しだけ無理しろ』

 私が返事をするよりも早く、繋いだままの手を引っ張るように走り出した。

『全速力で走れ』

『分かってます!』

 何度目になるかわからないくらいに走っている気がするけど、身の危険を感じるとそれでも力が出るんだね。辛いとか苦しいとか通り越して、生きる為だけに動いている気がする。

 目の前を走っている薫の背中を見ると、衣服が破けて背中から血を垂れ流しているではないか。

『あの、背中痛くないですか? 血出てます』

『そんなのいいから気にせず走れ!』

 さっきの爆発から自分の身を呈してまで、私を守ってくれたんだ……だからこんな事に。

 私に対するあたりや口が物凄く悪いから、嫌な人だなって思っていたのに。言葉でなくて行動で示されるとどう接していいのか分からなくなる。)私がいかに小さい人間なのかを思い知らされる。

『助けてくれて、ありがとうございました』

 薫は真顔で後ろを振り返って私の顔を眺めてきたかと思ったら、興味を無くしたように前に向き直った。

『あいつもお前みたいに純粋だったらな』

『え? あいつって?』

『もういない奴の事だ』

『何かあったんですか?』

『忘れてくれ。走りながら喋ると息苦しいな』

 壊れてしまったガスマスクを着けたままだからか、荒い息遣いを何度も繰り返している。

『もう、これも意味ないしな』

 淡々とした口調だったけど、感情を押し殺すのに努めて言っているのか、声が僅かに震えていたのが分かった。勘違いかもしれないし、そうだったとしても私にできる事はなにもないから黙っていた。

 薫は空いている手で、壊れたガスマスクを地面に放り投げるように剥ぎ取った。

 何も装着していないその横顔は端正で整っていたけど、唇を噛むようにしていたのが不釣り合いで、素のままで空気を吸うのがよっぽど嫌なのが見て取れた。

 こんなとき、何て声を掛ければいいんだろう……。


 後ろから追いかけてくる足音や怒声や発砲音などが全く聞こえないから、後ろを確認してみたら兵士達は追ってきてないのか姿は一切見えなかった。

『歩いても、大丈夫そうです』

 私の掛け声で再び後ろを振り返った薫。

 一瞬だけ目が合い、辺りを確認するように目が忙しそうに動き回っている。

『……いないな』

 後方の安全を確認してもなお、走るスピードを緩めることなく駆けていく。

 嘘でしょ? もう限界だから休みたいってのに。

 残る力を振り絞って、必死になってスピードを落とさないように努めていた。


 無我夢中で走ってたどり着いた、住宅地が密集している閑静な場所。

 目と鼻の先に私の自宅があるのが見える距離まで来ていた。

『息しないようにするの、無理があるな』

 腰に両手をついて大きく深呼吸を繰り返している薫。

 その傍らで私は軽いめまいを覚えながら、倒れ込まないようになんとか自制していた。

『私の家すぐそこなので、少し休んでいきませんか?』

『いい。そんな暇ないだろう』

『私じゃなくて、あなたがです』

 二度も窮地から救ってくれたのに何もせずにはいられない。

 見ているこっちが痛くなる薫の背中の傷跡が気になって仕方ないから。

『少しだけでいいので、手当てさせてください』

『いいって』

 強情な性格なのか首を縦にふる動作を知らないようなので、今度は私が薫の手を引っ張っていくことに決めた。

『離せって』

『家に入ったら離しますよ』

 この場に似つかわしくないかもしれない笑顔を作って、気丈に振る舞ってみせた。

 幾許かの余裕を見せることができたのか、薫は愚痴を零していたけどつられて歩いてくれた。

 顔を見ると、口の端がほんの少しつり上がっていたので満更でもないのかも。

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