1曲
(動け、動け、動け!)
未知なる生き物を目の当たりにし、平常心を失いかけつつある状況下でも何とか理性を保とうと、心の中で叫ぶが身体は鉛のように重く、岩のように硬く動くことすらままならない。
目だけはキノコの様な生物をしっかりと捉えて、この非現実的な状況から目を背けたくても逸らすことすらできない。地面を擦りながら動いているのか一歩、また一歩とぜん動で緩やかに近づいてくる。
近づくにつれ詳細に見えてくる姿はエリンギみたいな見た目で、その表面は黴のような白い綿状の物が無数にまとわりついて、全身を覆うように這っていた。
『あ……あ、あ。あ、あ……』
誰かに助けを乞おうと思ったのに、思うように声が出ない。
友達が一緒にいれば、まだこの状況は違ったものになっていたかな。
もしかしたら、時間帯すらずれていてこんな物にすら出会ってなど居なかったのではないかな。
逃避や妄想が渦巻いてきて、頭の中がぐちゃぐちゃと混沌に満ちていく。
思考の渦に溺れて雁字搦めになっていくのを紐解いた誰かの声。
『危ないから、後ろに下がってろ』
声の聞こえた方に目をやると、目元には競泳選手が付けるようなゴーグルがあり、口と鼻の辺りを一体的に覆うガスマスクを取り付け、同じ学校の制服を着た男子がスプレー缶に何か小細工したような物を持って現れた。
『う、っごけな、いん…だ』
さっきよりはまともに声を発せれるようになったみたい。
『ちっ。しゃーないな』
露骨な舌打ちをした後、私の前に躍り出てスプレー缶を異形の生物に向けて構えているようだ。
『なに、してるの?』
『あ? 黙ってろ』
背中越しからでも、何とも言いようのない彼の怒りが伝わってくる。
固唾を飲んで見守っていたら、銃口みたいなノズルの先端から真っ赤な炎が延々と吹き出てきているのだろうか、異形の生物を瞬く間に炎が包み込んでいく。
見る間に真紅な炎を纏い、激しく身悶え出す異形の生物。
炎を振り払うように身体を振り回し、その度に肉片が剥がれ落ちて小さな炎が地面に出来上がっていく。明確な意思でもあるのか、一歩また一歩と明確を意思をもっているのかこちらに向かって歩くのを止めようとはしない。
異形の生物と対峙していた彼は突然振り向いて、私の横を通り過ぎたかと思ったら、右腕を強引に引っ張ってくれた。釣られて足が動けるようになって、さっきいた場所より何歩か後退することができたから助かった。
『動けないとか笑えないんだけど』
ゴーグル越しでもはっきりと見て取れる、彼の冷めきった目が私の心を射るように突き刺さった。少し怖かったけど、この状況下と比べれば断然心強いし頼もしいから仕方ない。
『……ごめん』
条件反射的に謝罪の言葉が出てきてしまったけど、彼は意に介してないのか何の反応も見せない。
異形の生物の歩みは次第に鈍くなり動きが止まったかと思うと、地面に倒れ伏して黒ずみの塊に成り果て、離れていても明確に分かる何かが腐ったような匂いと、鼻にツンとくる刺激臭を辺りに立ち込めさせていた。
『無理だとは思うけど、嗅がないようにしときな』
更に腕を引っ張られて、匂いが漂っている付近から離れさせてくれたから、口は悪いけど根は優しい人なのかな。
『……今の、なに?』
『さぁ、な』
お喋りは終わりと言いたげにぶっきらぼうに発して、歩み始めた彼。
『ま、まって!』
安心したからか、今度は足が震え出してきて力が入らなくなってきた。
重力に逆らうことが出来なく、すとんと地べたに座り込んで、遠ざかっていく彼の後ろ姿をただ呆然と眺めることしか出来なかった。