1-7 閾値と分岐点
「ん?あなた大丈夫?冷房効きすぎかしら」
「いえ、大丈夫です・・・対処法とか今後の予想とかはありますかね?」
「んん~~、対処法、ねェ・・・飛沫感染ならあまり出歩かずにマスクつけて塩素系で手指の消毒をしっかりやっとくしか無いんじゃないかしら?ま、一般的よね」
「はぁ、まあ、そうですよね。もしくはクリーンルームにでも引き篭もるか・・・」
「あら、案外それも悪くないかもしれないわよ?―――――さすがに長く生きていると、分かることもあってねェ」
教授は窓の外へと視線を向ける。男は話に集中していたが、閉められた窓から漏れる怒号に気がつくと窓際まで歩いて様子を見る。
教授の研究室は最上階の最も端に位置していた、このような場所が用意されていると言うのは大学側からも冷遇されているということを暗に示していたが教授本人は静かな場所で研究が出来ると喜んでいた。
見下ろした先の大学のメインストリート、男は目を見開く。そこから見えるのは数人に取り押さえられている若い男、そして頭部から大量に出血して仰向けに倒れている若い女の姿・・・女の頭部からはピンク色の、見えてはいけないような塊がはみ出ているようにも思えた。救急救命を行おうとする人の姿も見えないとなると、余程の力と容赦の無さで縁石にでも叩き付けられたのだろうか。
その赤、そしてピンクから男は目を離せなかった。多少の心拍数の向上、発汗、そして興奮、不快感は無くどこか惹かれるものを感じながらも葛藤する男の背中に声が投げかけられる。
「閾値というのはあるわよね、ONとOFFのスイッチの条件、生物の体内でも細胞内でよくあることよ。」
「・・・突き詰めればどんな現象にもそれが起こる為のトリガーがあるんでしょうが・・・」
「そろそろだと思うのよね、ソレ。貴方もそろそろ早く帰ったほうがいいんじゃないかしら?」
「帰る、ですか。まあ、家はありますが・・・」
「あら、ごめんなさいね、そういえば喪中だったかしら。そうね・・・それならしょうがないわね、テクニカルとしてならしばらく置いてあげてもいいわよ?部屋は余っているし、雑用もたまっているし」
男は少し考えた。特段持ちだすべき貴重品のようなものは無かったし、仏壇と位牌に関しては少し気にかかるところもあったが男は親の冥福を祈る心はあっても宗教に関しては気にするところも無かった。そして、何よりも妖怪じみた老教授の言葉が気に掛かった―――――ここが何かの分岐点になる、理由も無くそのような気がした。
「・・・すいません、ではしばらくお世話になります。」
「ええ、談話室には昔どおりに寝袋があるから適当に使って頂戴。じゃあ、早速だけど洗い物が溜まっているし、細菌の系代と、大腸菌のホモジナイズに・・・」
男は早速、自らの勘を早速呪いたくなった。