(2)
『あの鬼ザルに妖艶さが増した』
巷で流れ出したという碌でもない噂。
これまで流されてきた噂も充分碌なものではなかったが、今回のそれは、その碌でもなさの中でも群を抜く、極めつきもいいレベルのものだった。
耳にした瞬間、とうの櫻李も、あまりのバカバカしさに失笑しか漏れなかったくらいである。だが、その一方でまた、その噂がなんらかのかたちで作用していることを示すように、身辺に劇的な変化が生じたことも事実だった。
それまでひっきりなしだった異性からのアプローチが、その少しまえあたりからピタリと止んだのである。
まさかとは思うが、いきなりモテ期終了?
かつてない状況に戸惑いはしたものの、悲観するほど異性への執着もなければ、恋愛に対する幻想も抱いていない。モテる自分に酔えるほど、おめでたい性分でもなかった。むしろ、交際相手に余計な気を遣う必要がなくなったことのほうが、よほど気楽で、自由を満喫できるのがありがたいくらいである。と同時におぼえるのが、良心の呵責。これまで付き合ってきたカノジョたちに割り振ってきた、『虫除け』的役割があきらかになってしまい、なにやら申し訳ない気持ちになった。
負け惜しみでもなんでもなく、周りが思っているほど異性交遊に貪欲なわけでもがっついているわけでもないので、いっそこのまま放置しておいてもらえるならば、いろんな意味でありがたくも万々歳――
「おいおい櫻李、おまえ大丈夫かよ!」
2限からの講義を受けるため、大学の正門をくぐったところでいきなり背後から肩を組まれ、乱暴に揺さぶられた。顧みれば、おなじくたったいま登校したらしい数少ない友人のひとり、御劔斗真がニヤニヤとしたヒトの悪い笑みを浮かべていた。
目、鼻、口。顔のパーツそれぞれが無駄に主張しており、男前と個性的の中間に位置する貌立ちをしている。だが、濃い顔に反して性格はさっぱりしているので、数少ない、というより、大学では唯一、櫻李が気の置けない存在として付き合っている悪友だった。
「なんだよ、大丈夫って。べつにどこもなんもないけど」
組まれた腕を振りほどいて、勢いよく飛びつかれた首の痛みを表情で抗議したにもかかわらず、斗真はそれを、あっさり受け流して調子よく受け応えた。
「とかなんとか言っちゃって。最近絶不調って、もっぱらの噂じゃないの」
斗真の目つきに思わせぶりな色が浮かぶ。同時に、好奇の色もありありとして、おもしろがっていることを隠そうともしなかった。
「絶不調の意味がわかんねえ。見てのとおり、いたってピンピンしてるけど?」
「いやいやいや、俺に誤魔化しやはったりは通用しねえよ? 人気者の櫻李くん」
またしても乱暴にバシバシと肩を叩かれて、櫻李は今度こそ思いきり邪険にその手を振り払った。
「だから、さっきから痛いっての! なんも誤魔化してねえだろ。見たまんまの絶好調だよ!」
「そうは見えないから話題になってんだろぉ。俺にまで隠しごとすんなよ。全部お見通しなんだからよ」
「話題になってんのはいつものことだろ。っつうか、全部お見通しなら、わざわざ俺に確認とる必要もないだろ? なんのことかさっぱりだけど」
「いやいや、ご謙遜」
謙遜など、はじめからこれっぽっちもしていないのだが、ひとり盛り上がる悪友にとっては、そんなことはどうでもいいようだった。
「こういうのはやっぱ、直接本人の口から聞いておかないとさ」
めげずにふたたびなれなれしく肩を組んできた斗真は、真横から櫻李の顔を覗きこんでニタリと笑った。
「で? だれよ?」
「だれって?」
「だから相手」
「だから――って、だからいったい、なんの話だよ」
「決まってんだろ。おまえが患ってる原因の相手だよ」
「患ってる? なにを?」
「だから、こーこ!」
答えながら、斗真は自分の胸をこれ見よがしに叩いてみせた。
「胸? ……結核?」
「ちっげーよ! ってか、古っ! いつの時代の話だよっ」
思いっきりつっこんでから、あらためて正解を口にした。
「ハートだよハート。こ、こ、ろ! ようするにアレだよ、おまえ。恋煩いってヤツ」
「はぁあ?」
自分でも思いがけないほどマヌケな声が出た。
なに? 俺がいったいなんだって?
あまりに想定外の内容すぎて、とうとう思考が追いつかなくなった。だが、櫻李のそんな様子にもかまわず、斗真はさらに、たたみかけてきた。
「で? だれ? こないだ別れた仏文科のコじゃないよな? もちろん、それ以前のオンナたちでもないだろ? おまえをそこまで思いつめさせるなんて、いったいどんな相手なんだよ。とぼけてないで白状しろっ、この色男!」
「ちょっ、待てっ!」
思わず本気で押しとどめて、迫りくる悪友に待ったをかけた。
「言ってる意味が全然わかんねえ。なんの話だよ、それ。俺が恋煩いって、初耳だぞ?」
訊き返した途端、斗真はギョロ目をパチクリとさせた。
「俺にもちゃんとわかるように話せ。つまり、いま現在、俺に関してそういう噂が流れてるってことなんだな? 俺がだれかに片想い中だって」
「あ、うん。だって、実際そうなんだろ?」
……違うのか?
さっきまでの勢いはどこへやら、斗真はたちまち声のトーンを落として自信がなさそうに目を泳がせた。違うもなにもない。櫻李はがっくりと肩を落とした。たったいま、ひさしぶりの自由を謳歌している現状に晴れ晴れした気分を味わっていたばかりだというのに、一気にすべてが台無しになった。
恋? 俺が? それも一方通行の?
頭痛をおぼえるその一方で、なぜだれも近寄ってこなくなったのか、ようやくわかった気がした。ようするにアレである。櫻李自身、自分ではそんなつもりはまったくなかったものの、傍から見るとだいぶ思いつめた、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた、と。
むろん、敬遠されること自体は全然かまわなかった。この先もずっと遠巻きにしてもらえるならば、むしろ誤解されたままでもいいくらいである。だがしかし。
「なんでそんな話になった?」
問題はそこだった。
いったいなにをもって『恋煩い』と周囲が誤解する事態になったのか、そこのところを噂の渦中に置かれている自分にも聞かせてもらいたかった。ひょっとして、ひさびさに味わう解放感に、ちょっとばかり浮かれすぎていたのだろうか。しかし、それならば気安さこそ増して然るべきであり、遠巻きにされる理由とはなんら結びつかない。
遠巻き。碌でもない噂……。
なんだか非常に、とてつもなくイヤな予感がしてきたところで――
「色っぽい」
耳もとで発せられた思わせぶりな囁きに、全身が総毛立った。
反射的に耳を押さえて飛び退いた櫻李を、斗真は無表情でじっと視つめた。そして、ややあってから小さく息をついて肩を竦めた。
「って、もっぱらの噂だぜ。最近のおまえ」
「バッ、バカ言うな! そんなわけあるかっ!」
「ま、本人の主張はともかくとしてさ」
顔を真っ赤にする噂多き友の反応を見て、斗真は外人よろしく、軽く両手をひろげてオーバージェスチャーで苦笑してみせた。
「実際、ときどき妙に艶めいた雰囲気になるのはたしかだぜ?」
「俺が?」
「さっきから、おまえの話しかしてねえだろ」
「それで恋煩い?」
「そ。思いつめた雰囲気と、こう、どことなく色っぽい仕種がさ」
「そりゃ女の場合だろっ? なんで俺が色恋ひとつで思いつめたり色気が増したりしなきゃなんないんだよっ!」
「ま、日頃の行いの問題なんじゃねえの?」
斗真はあくまで他人事といった風情でせせら笑った。
「いままでがいままでだから、全部そっちに話がいっちまうんだろ」
そんなバカな……。
まあ、なんということでしょう!――某居宅大改造番組のナレーションが脳内で再生されつつ愕然とするその反面で、どうにも否定しきれないものがあったこともまた、たしかだった。
仕種や雰囲気。
日頃の行いといっても、別段、噂される本人は不誠実のかぎりを尽くしているわけではないので、理不尽このうえないことに違いはないのだが、それにしたって、である。
「……なあ、斗真」
先程から脳裡に浮かんでいるのは、別れぎわに女たちが残していく決まり文句。
『櫻李といると、女としての自分にどんどん自信がなくなっていくんだもん!』
気がつけば櫻李は、今度は自分から斗真に躙り寄っていた。
「な、なんだよ。怒ったのか?」
顔色が変わったその様子を見て、さすがの悪友も及び腰になった。だが、櫻李はかまわず間合いを詰め、先日継母に投げかけたおなじ問いを再度口にした。
「俺って、カマっぽい?」
「はっ!?」
この質問はさすがに想定外だったのか、斗真は思いのほか素直なリアクションで素っ頓狂な声をあげた。そして、ポカンとしたまま、しばし瞬きを繰り返す。その後、ややあってから指を突き出して櫻李をさしたかと思いきや――
「ぶあ~っははははははっっっ!!」
周りにいた連中がギョッとして振り返るほどの声で大爆笑を炸裂させた。
「お、おまっ……おま…がっ、カッカッ、カマッ――カマ……ッ」
「……落ち着け」
周囲からの冷たい視線がいたたまれず、櫻李は低い声で斗真を窘めた。
この反応を見れば、ここ最近、胸裡で抱きかけていた己に対する疑惑が杞憂だったとわかる。その点ではかなりホッとしたはずなのだが、やはりどうにも釈然としない。
「なになに? まさかとは思うけど、ついに二丁目あたりでスカウトされちゃったっ!? お兄さん、随分男前だけど、それだけの美貌なら充分うちでもやっていけるわよん。うちのナンバーワン目指してみない? なんちゃってっ!」
勝手に妄想を膨らませて、斗真はひとり盛り上がる。
櫻李はもやもやとした気分を抱えたまま、なおも身体をふたつ折りにして笑い転げる斗真を置き去りにして、その場をあとにした。