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夢一夜~幽明に咲く花~  作者: ZAKI
第2章
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(3)

 ひさしぶりの蓮爾の帰省に、父の剛造はすこぶる上機嫌だった。いつもは厳格、頑固を絵に描いたような仏頂面が、今日はかなりやわらいで、口数も多い。兄に勧めるついでに、自分の酒量も増えたから余計だろう。年に数度あるかないかの家族全員での夕食後も晩酌はつづき、その晩は結構遅い時間まで家族で飲み交わすこととなった。

 櫻李がシャワーを浴びて自室に戻り、ベッドに転がったのは深夜二時半をまわった時刻。家飲みと油断して、少し飲みすぎたと後悔するも後の祭りだった。


 ――今日の講義、何限からだったっけ……。


 かったるいので休んでしまおうかと思ったところで、前日にフラれたばかりだったことを思い出した。

 これで休めば、本人不在をいいことに、あらぬ噂が立てられることは間違いなかった。顔を出したところで、厚かましいだのなんだのと悪口のオンパレードになることは避けられないのだが、傷心のあまり休んだなどと言われても、それはそれでシャレにならない。

 というか、そもそもが、先方の切り出す別れ話の理由のことごとくがシャレにならないどころか、櫻李には意味不明のままだった。別段カマっぽいわけではなく同性にも興味はない。性的嗜好もごくノーマル。だけど、もう付き合えない。大好きだけど自信がなくなるから。

 いったい自分のなにが、彼女たちをして女性としての尊厳をそこまで傷つけているというのか……。

 考えたところで答えが出ないのはわかりきっているのだが、それでも考えずにはいられなかった。


 女が、女としての自分に自信が持てなくなる理由。まさかとは思うのだが、どう考えても、交際相手である自分と張り合った結果の敗北宣言に聞こえてしまう。


 なぜ。どのあたりが。どういうわけで張り合うことになるのかが、櫻李にはまったく理解できなかった。張り合うのは意地でも()でもなく、『女性らしさ』なのだ。理解不能にもほどがあった。

 なぜよりによって、付き合っている相手から毎度毎度ライバル視・・・・・されなければならないというのか。いっそこの機会に、経験豊富な兄にでも訊いてみれば理由がはっきりするかもしれない。そんなことを思った。


 兄は間違いなく自分などより遙かに経験豊富である。女性心理にも精通している。年の離れた弟のまえで格好をつけているというのはあるだろうが、実際、身内の贔屓目ひいきめを抜きにしても、蓮爾は昔からなんでもできる、優秀な男だった。

 運動、勉強ができるのはもちろんのこと、社交的で面倒見もよく、気配りもうまい。異性だけでなく同性にも好かれ、なにかの集まりやイベントごとの際には、大抵、蓮爾が輪の中心で皆を仕切って盛り上げているのがつねだった。

 年上、年下、同級生、他校生、おなじ学校を問わず、蓮爾の追っかけやファンは日常的に群がっており、家まで押しかけてくることも珍しくはなかった。そんな彼女たちの対応に、蓮爾が困っていた記憶はない。おそらく、持ちまえの人なつっこさと、分け隔てのない気さくな対応で、だれの恨みも買うことなく、角を立てずにうまくあしらっていたのだろう。おなじように騒がれていても、最終的に顰蹙を買って、恨みそねみの的となってしまう櫻李とはえらい違いである。天性の人たらしの(すべ)を伝授してもらいたいところだが、なにをおいても、まずは女たちの意味不明の理屈を解明することが先決である。


 別段交際相手など、いないならいないでいっこうにかまわないのだが、異口同音の別れの理由だけは、いい加減、あきらかにしておきたかった。

 女としての自分に自信がなくなっていく――はたして、そんな理由で断られる人間が自分以外にも一般的にいるものなのだろうか。


 アルコールがまわった半覚醒の状態で、グルグルと思考がめまぐるしく空回りするのが気持ち悪い。ストンと完全に意識が落ちてしまえば楽なのだが、今夜は摂取したアルコールが刺激となって、脳の一部を興奮させてしまっているらしかった。

 眠りたいのに眠れない。なにも考えたくないのに余計な思考が止まらない。

 大学に行きたくない。人と関わるのが億劫。


自棄(やけ)になってはいけんせんえ】


 だれかがなにか、言っている。知らないはずなのに、懐かしい声。

 やわらかくて艶のある、心地のいい女の、声――だれ……。



「うわあっ! なんだおまえっ!?」



 いきなり耳もとで聞こえた大音量の悲鳴に、思いきりよく鼓膜をひっぱたかれた。気持ちよく浮遊していた意識がガクンと落ちて、櫻李は思わず眉間の皺を深くする。

 飲みすぎで頭痛がしはじめている耳もとで騒がれるのは、非常によろしくない。そもそもなぜこんな間近で、しかもよりによって野太い男の声を聞かなければならないというのか。直前にぼんやり聞いていたのは、やわらかな女の声ではなかったか。

 そこまで思って、ふとひっかかりを感じた。


 自分はたしか、酔いつぶれて自室のベッドに転がっていたはずである。だが、この感覚はあきらかに布団に横になった状態ではない。というか、どうも不自然な恰好で、安定感の悪い、温度の高いなにかに乗っかっている気がする。そしてそれ以前に、いまの叫び声……。


「――って、おまっ、櫻李っ!?」


 もう一度耳もとで響いた声に、櫻李はハッと我に返った。と同時に、目に飛びこんできた相手を認識して喫驚きっきょうした。


「兄貴っ!?」


 兄同様、櫻李もまたひっくり返った叫声を発して、それからさらに、あらためて自分の置かれている現状に気づいて愕然とした。

 どういうわけか櫻李は、自分の部屋ではなく兄の部屋にいた。それだけならまだしも、あろうことか、ベッドで眠る兄に跨がって、その顔を見下ろしていた。

 ついでに言うなら、我に返る直前に上体を起こした記憶までうっすらとある。ということは、起き上がるまえは完全に兄に覆いかぶさっていたわけで、さらに言えば、その手はパジャマをはだけさせた兄の胸もとに……。


「うわあっっっ!! なんだこれっ!?」


 咄嗟に叫んで飛び退ずさった結果、櫻李はものの見事にベッドから転げ落ちる羽目になった。


「ってー……」


 フローリングの床に躰のあちこちを強打したその口から呻き声が漏れる。ベッドの上では、ゆっくりと起き上がった兄の蓮爾が胸もとをはだけさせたまま、呆れ顔で床に転がる弟を見下ろしていた。


「……まさかとは思うが櫻李、夜這いか?」

「なわけねえだろっ」


 言下に目一杯否定してみたものの、説得力は皆無である。これが夜這いでなくてなんだというのか。

 とちょうどそのとき、部屋のドアが荒々しく開け放たれた。


「うるせぇぞ小僧ども! こんな時間まで、なに騒いでやがるっ!!」


 不機嫌マックスで表情も口調も荒々しく現れたのは、鬼頭家の長女にして鬼頭塾師範代、姉の桃花ももかだった。


「あ、ごめん」


 ただでさえ姉弟(きょうだい)最強であるというのに、「こんな時間」と言ってる本人の肩に剥き身の木刀などをひっさげられた日には、格下どころか最下層の末弟の櫻李としては、平身低頭謝るしかない。父と姉さえいれば、この家には獰猛な番犬はもとより、ALS●KやSEC●Mなどのセキュリティ・システムはいっさい不要なのである。

 嫁入りまえの婦女子が、家の中で剥き身の木刀を振りまわすというのも如何なものかと思わなくはないが、到底口にできることではなかった。


 畏縮しまくる次弟とは裏腹に、桃花とは1歳しか違わない蓮爾はじつに慣れたもので、畏縮する様子もなく、荒武者のような形相の姉に深刻極まりない声と表情で話しかけた。


「桃花、大変だ」

「ああ?」

「俺の貞操がヤバイ」


 端的に告げられた内容に、さすがの女武者も一瞬虚を衝かれた様子で瞬きをした。


「なに? 俺のナニがヤバイって?」

「だから貞操。いや、『後ろ』はバージンだから、純潔と言ったほうが正しいかもしれないな」


 真面目な顔してなに言ってやがる、クソ兄貴――とは、心ならずも夜這いを仕掛けたことになってしまった櫻李の、心中精一杯の悪罵である。


「見ろ、このしどけないありさまを。俺がみずからはだけさせたんじゃなくて、寝てるあいだにやられたんだぞ?」

「……だれに」

「この場にいる人間でモモと俺を除いたら、残るはひとりしかあるまい」


 その言葉で、至極真顔の兄と、能面のような無表情の姉が同時にベッドサイドの床の上に向けられた。


「いや、ちがっ――」


 あわてて誤解を解こうとした加害者の言葉に、呆れかえった様子の姉の、深々とした溜息がかぶさった。


「あんたたち、兄弟仲が睦まじいのは結構だけどね、常識の範囲内でたわむれなって。父さんたちもとっくに寝てるんだし、あたしだって昼の稽古で疲れてるんだから。こんなんでいちいち叩き起こされたんじゃ、たまったもんじゃないわ」


 自分が手にしてる武器もいいかげん非常識であるということは、この際棚上げのようである。それどころか、兄弟でこの時間にこのスキンシップの取りかたはあきらかに常識の範囲外としか思えないのだが、姉の中ではそれすらも、ツッコミどころにすらならないらしかった。

 むろん、原因を作ったのは櫻李自身である。というか、自分はなぜ、実の兄に夜這いなどを仕掛けてしまったのかわからない。

 うっかり脳内で疑問を文章化したあとで、櫻李はあわててそれを打ち消した。


 違う! 夜這いじゃない。断じて違う。みずから思いっきり肯定してどうする。


 だがしかし、過失割合ゼロであることは間違いないはずなのだが、酔っぱらった挙げ句に寝ぼけてたとはいえ、いつのまにか自分の部屋からわざわざ移動して、兄のベッドで兄の身体に覆いかぶさり、パジャマの上衣を……。

 それ以上は、思考の中でも言葉にするのを脳が拒絶した。


「――俺、夢遊病?」


 おそるおそる尋ねたときには、姉はとっくの昔に自分の部屋に引き返したあとだった。


 誤解を解く機会を逸してしまった……。


 挫けそうになる心とともに、櫻李はへたりこみそうになる。そんな弟を、蓮爾はしどけない姿で無造作にはだけた胸もとをガリガリと掻きながら見下ろした。


「悪ィな、櫻李。兄ちゃん、いくらおまえが可愛くても、こういう、いろんな意味で禁断の想いは受け止めてやれねぇから」

「だから違うってっ!」


 いろんな意味で禁断の、とは、滑稽すぎるにもほどがある。

 内心でツッコみながらも、ひょっとして欲求不満なのでは、と焦りをおぼえずにはいられなかった。

 酔っぱらっていたのだからしょうがないと思うその反面で、自分でも説明のつかない、おぼろで奇妙な『感覚』が残っている気がして、櫻李はひどく落ち着かない気分になった。

 おぼえていないようでうっすらと残る意識の断片。耳に馴染んだようで、だれのものだったかまるで思い出すことのできない(なま)めかしい女の声。


 ――あれは、いったいなんだ……。


 兄の部屋を出た櫻李は、自室へと引き返した。

 静まりかえった薄暗い廊下を、足音を忍ばせてひっそりと進む。宵闇の中、心に残る不可解な余韻を手繰たぐりよせようと、櫻李は己の裡に意識を向けた。だがそれは、手を伸ばしたその瞬間に形を崩し、風になびく紫煙のように薄れて跡形もなく消失していった。


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