(1)
自宅で子供たちに習字を教えている小向さん宅まで徒歩5分。
プラッと歩いて到着したタイミングで、ちょうど子供たちの何人かがワイワイと賑やかに玄関先からおもてに出て来た。習字教室用に増築した側の副玄関のほうである。
開け放たれた門を通り抜けたところで、その副玄関から出て来た彼らと目が合った。すると、なかのひとりが途端に「あ!」と声をあげて引き戸の向こうを振り返り、でっかい声で呼ばわった。
「ヒメちゃん、お迎え~っ! カッコイイお兄ちゃん来てるよっ!」
直後に教室の窓がガラッと全開になり、屋内にいた子供たちがいっせいにワラワラと顔を出して鈴なり状態に。
むろん、けなされるよりは褒められるほうがいいに決まっているし、好意的に見られるに越したことはない。だが、だからといって小学生に騒がれても少しも嬉しくはなかった。
殆ど珍獣扱いで注目されて反応に困っているところへ、群がるちびっ子たちを掻き分けて、妹の菊姫が満面の笑顔で飛び出してきた。
「サクラちゃん!」
身軽く駆けてきて両腕をひろげ、腰まわりにピョンと飛びつく。その妹を抱きとめたところで、全開になっている窓の向こうから、鈴なりになっている子供たちをどかしつつ小向夫人が顔を覗かせた。櫻李はそれへ向かって頭を下げた。
「あ、こんにちは。妹がいつもお世話になってます」
「あらまぁ、櫻李くん! すっかり立派になっちゃって。お迎えご苦労さま」
腰まわりにかじりついている妹をはがして向きを変えさせる。頭に手を添えて軽く促すと、菊姫は自分からペコリと頭を下げて元気よく挨拶をした。
「先生、ありがとうございました! さようなら!」
「はい、さようなら。菊ちゃん、今日は優しいお兄ちゃんがお迎えでよかったわねえ。気をつけてお帰りなさい」
「はぁい!」
菊姫は、小向夫人の周辺に群がっている友達にも笑顔でバイバイと手を振った。途端にいっせいに返ってくる、元気いっぱいの応答。
大袈裟すぎて近所迷惑が心配になるほど盛大な見送りを受けつつ、櫻李は菊姫を連れて習字教室をあとにした。菊姫の手にあった習字道具入りのバッグを櫻李が持ってやると、すかさず手を繋いだ異母妹は、嬉しそうな顔で見上げてきた。
「珍しいね、サクラちゃんがお迎えに来てくれるなんて」
「ん~、まあ、ちょうど暇だったから」
「明日、また学校で大騒ぎだよ。ヒメのお兄ちゃんはカッコイイって、いっつも話題だからさ」
「へぇ、そう」
俺の学校でもつねに話題だよ、と内心で思いつつ、せめて妹の学校でくらい悪評がナリをひそめていてくれることを祈るばかりだった。
「それよりヒメ、今日、兄貴帰ってくるってよ」
言った途端、菊姫は目を輝かせた。
「ほんと? レン兄ちゃま、帰ってくるの?」
「そ。ママお手製の豆乳坦々鍋が食いたいんだってさ。だからこの足で、駅向こうのスーパーまで遠征な。ママに頼まれた無調整豆乳、どれがいいか選んで」
「アイアイサー!」
兄と手を繋いだまま、菊姫ははしゃいだように足取りを弾ませた。母親譲りの大きな目が、キラキラと嬉しそうに輝いていた。
「レン兄ちゃま、ひさしぶりだねぇ。何ヶ月ぶりかなぁ。どうせなら、ヒメが学校休みのときに帰ってきてくれたらいいのにねぇ。明日学校行ってるあいだにまた帰っちゃうなんて、つまんない」
「いっつも気まぐれで唐突だからな」
応えながら、櫻李はまえまえから疑問に思っていたことを妹に尋ねた。
「なあヒメ、おまえ、なんで兄貴は『お兄ちゃま』で、俺は『サクラちゃん』なの?」
「だって、なんか呼びやすいんだもん」
「けど、モモ姉のことも『お姉ちゃま』だよな? だったら、あっちのほうがよっぽど呼びやすくない? 『モモちゃん』とかさ」
「いいの! モモ姉ちゃまはモモ姉ちゃまなの! レン兄ちゃまもお兄ちゃまなの! そんでサクラちゃんはサクラちゃんなのっ!」
なにやら非常な格差を感じるのは気のせいだろうか……。
思いはしたが、小学生の妹相手にムキになるのも大人気ない。しかたがないので櫻李のほうが折れて、理不尽な主張を受け容れることにした。
「だって、『お姉ちゃま』はモモ姉ちゃまひとりだけど、『お兄ちゃま』はレン兄ちゃまとサクラちゃん、ふたりいるでしょ? ふたりとも『お兄ちゃま』だと、まぎらわしいんだもん」
さすがに自分でも一方的だと思ったのか、菊姫は言い訳めいた口調で説明を付け足した。だが、兄の蓮爾は普段殆ど家にいないし、以前はたしかに櫻李自身も『お兄ちゃま』に分類されていた。菊姫が櫻李を『サクラちゃん』と呼び出したのは、ここ最近のことだった気がする。
なんか、きっかけでもあったかな。
考えはしてみたものの、すぐにこれといって思いつくことはなにもなかった。兄弟を名前で呼んでいる友達が周りにいるとか、おそらくはそんなところだろう。
「ねえ、サクラちゃん」
「ん?」
「あのね、ヒメはいつだってサクラちゃんの味方だからね。だから、見る目のないお姉さんたちのことは気にしちゃダメだよ」
あまりに思いがけない言葉にギョッとして、櫻李は射竦められたようにその場に立ち止まった。
黙って傍らの妹を見下ろすと、菊姫も至極真面目な顔で見上げてくる。そして、無言で頷いた。
「おまえ、なにそれ……」
年端もいかない妹相手に激しい動揺をおぼえ、櫻李は無意識のうちに繋いでないほうの手で自分の顔を撫でていた。まさかとは思うが、『ついさっき、またフラれました』なんて顔に書いてあるのでは、などと余計な勘ぐりまでしてしまう。だが、菊姫は唐突に発した謎の言葉同様、やはり唐突にいつもの調子に戻って兄の手を引き、ふたたび元気に歩き出した。
「あ、おい! ヒメ! いまのどういう……」
「わかんない。でもなんか、急に言いたくなっちゃっただけ」
「俺、おまえになんか言ったっけ?」
「なにかって、なにを?」
「いや、だから最近大学で友達とどうした、みたいな感じで」
「うううん。なんにも聞いてないよ?」
「じゃ、態度、なんかおかしかったか?」
「え? うううん、それも普通だよ。いつもどおりのサクラちゃんで、いつもどおりカッコイイ」
「さっきのあれ、まさか見てたわけじゃないよな?」
「さっきのあれ、って?」
「いや、べつになんでも……。っていうか、じゃなんで……」
「わかんない。なんかサクラちゃん見てたら、急に言いたくなっちゃっただけ。お姉さんたちって、だれのこと?」
逆にキョトンとした顔で訊き返される。
いやいやいやいや、それはおまえが言ったことだから!
内心でつっこみつつ、櫻李は小さく息をついた。
菊姫にはときどき、こういうやけに鋭い瞬間があった。本人もいまいち自分の言ったことを理解してないことが多く、大抵は子供のそら言として流されてしまうのだが、こんなふうに一概に妄言とは言いきれない部分もある。そのため、ときどき不意打ちでギョッとさせられるのである。
とはいえ、いつもどおり学校に行って、習字教室にまで通っていた妹が、つい1、2時間前、都内で兄の身に起こった出来事を知るはずもないのは疑うべくもない。本当にふと、思いついたことを口にしただけなのだろう。それはそれで怖い気もするのだが。
気を取りなおして櫻李もまた歩き出すと、菊姫は邪気のない様子で長身の兄を振り仰ぎ、ニコリと笑った。