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夢一夜~幽明に咲く花~  作者: ZAKI
エピローグ
40/40

(2)

 極度のあがり症の乃慧瑠は、本命の試験を目前に、緊張状態が極限まで達していた。会場にたどり着くまえに廊下で動けなくなっていたところに声をかけられ、医務室まで連れていってもらったものの、心の中ではもう完全にダメだと泣きが入っていた。こんな状態で試験に臨んだところで、問題が頭に入るわけがない。逃げ出してしまいたい気持ちに負けそうになりながら長いことグズグズと葛藤し、それでもなんとか重い腰を上げたとき、自分に声をかけ、医務室まで連れてきてくれた人物が思いがけず様子を見に来てくれた。


「先輩、そのあとどうしたか、おぼえてますか?」


 訊かれて、櫻李は逆に、「俺? なんかした?」と訊き返してしまった。そんな櫻李を見て、茉莉花は嬉しそうに口許を綻ばせた。


「先輩、握手してくれたんです」

「握手?」

「はい。自分の名前には『櫻』の字が入ってるから、きっと春には、『桜が咲く』よって」


 言われてみれば、会場前での別れぎわ、たしかにそんなことを言ったような気がする。

 試験開始間際に近い時間帯で、受験生はほぼ、それぞれの会場内に入室しており、廊下はまばらにしか人がいない状態だった。医務室で受験票を差し出したときに慄えていた手は、ほんの一瞬触れた指先が氷のように冷えきって、その緊張の度合いを物語っていた。案内した会場のまえで振り返ったとき、人気のない廊下の様子が、さらに彼女の緊張を強めたことは、その表情を見れば一目瞭然だった。試験本番を目前に控えたいま、だれも他人のことになど注意を払っていない。だが、そこからギリギリの時間で大勢がひしめく会場内へと入って行くには、おそらく拷問のような気分を味わうことだろう。そんなふうに思ったことを思い出した。

 中に入れば、会場内の担当者が彼女を席まで案内してくれる。櫻李の役目はそこまでだったが、少しでも試験前の緊張をほぐしてやれたら、そんな意識が働いたことは間違いなかった。



「先輩、それから『合格のお守り』って、のど飴もくれたんです」

「……それだけで?」


 たったそれだけのことで、極度のあがり症だというこの後輩は、あんな公衆の面前で、男の自分でも滅多なことでは出せないような勇気を振り絞ったというのか。


「あたし、先輩から元気もらえました。握手してもらって、言葉と飴と、両方のお守りももらって。そしたら、パニックになってた気持ちが一気に落ち着いて、本番で実力を出しきることができたんです」

「役に立てたならよかった」

「はい。絶対、先輩のいる大学に入って、お礼を言おうって決めてました」

「もしかして、入学してから結構探した?」


 尋ねた櫻李に、乃慧瑠は「いいえ」と即答した。


「すぐにわかりました。とっても有名だったから」

「あ~……」


 なんというか、返す言葉もないといったところである。


「けど、だったらなんで? あんだけ悪しざまに言われてるの聞いたら、嫌になるんじゃない? 幻滅しなかった?」

「噂なんて信じません。自分が実際に会った先輩の姿が真実で、そのときに抱いた印象以上に正しい情報なんてありませんから」

「随分、信用してくれたんだね」


 櫻李の言葉に、乃慧瑠はニッコリとした。


「っていうか、ごめん。そんな真剣に想って勇気出してくれたのに、いい返事できなくて。いや、この場合はむしろ、そのほうが誠実ではあるんだけど……」


 申し訳なく思いつつ謝罪を口にする櫻李に、乃慧瑠はすっきりとした笑顔を見せた。


「いいえ、はっきり言ってもらえて、かえってよかったです。……あの、先輩」

「ん?」

「これから構内で見かけたときに、声かけてもいいですか?」

「ああ、もちろんかまわないけど」

「ありがとうございます! あの、ときどきでいいので、またお話しさせてください」

「うん。いいよ」


 櫻李に向かって深々と頭を下げた江川乃慧瑠は、晴れ晴れとした表情で空き教室を出て行った。しばしその後ろ姿を見送った櫻李は、ホッと息をつく。時間を確認すると、次の講義まであまり間がない。櫻李も早々に、移動しなければならなかった。そんな櫻李に、声をかける者があった。



『ぬしには天性の(たら)しこみの素質があるようでありんすな』


 言われた途端、櫻李は失礼な、と不満顔を浮かべた。ポケットからスマホを取り出して、耳に当てながら空き教室を出て次の教室へと向かう。


「俺のどこにそんな素質があるんだよ」


 通話中のふりで、櫻李は夜桜の声に答えた。


『好いた男にあねいな優しさを見せられれば、おなごの心など、イチコロでありんすえ』

「必要もないのに傷つけることないだろ。べつに気をもたせたわけじゃない」

『不実に終始しておりんした来し方を思えば、ぬしもだいぶ、大人になりいしたな』

「……皮肉はいいって」

『皮肉ではありんせん。女郎でもありんせんに、誠のない惚れた腫れたは褒められたことではおっせんしたえ』


 痛いところを突かれて、櫻李はぐっと詰まった。


『そねいな不実は、色の(さと)の中だけで充分だんす』


 夜桜の発したひと言に、櫻李は押し黙った。


苦界(くがい)』と呼ばれるほど苛酷な世界で生きた夜桜の言葉には、充分すぎるほどの重みがあった。己のこれまでの所行を振り返れば、忸怩じくじたる思いを抱かずにいられない。

 ふと見ると、前方から歩いてくる禅の姿があった。耳に当てていたスマホを下ろし、近づいて声をかけようとしたところで、


「サクラさん、なにかあった?」


 禅のほうから、そう声をかけてきた。


「え? いや、べつに」

「そう?」

「うん。なんで?」

「あ、うううん。なんでもないならそれでいいんだけど、なんか、難しい顔してる気がしたから」

「いや、全然。なんでもないよ」

「そう。ならいいけど」


 うん、と頷こうとした途端、


『櫻李は男の誠意を示したところでありんす』

「え?」


 櫻李がギョッとすると同時に禅が声をあげた。まさか、と思ったが、禅のいまの反応は、間違いなく夜桜の声が聞こえている。


「え、い、いまの、ひょっとして聞こえ、た?」

「夜桜さん、だよね?」

『わちきが直接禅どのに話しかけたのでありんすから、聞こえるのは当然ざます』


 櫻李は片手で両目を覆い、天を仰いだ。


『安心しなんし。直接声をかけたからといって、皆が皆、わちきの声を聞き取れるわけではおっせん。禅どのは特別ざます』

「あ~、いや、うん……」


 得意げに言われても困る。ふたりのやりとりをキョトンと聞いていた禅は、ゆっくりと瞬きをした。


「ところで、男の誠意って?」


 不思議そうに訊かれて、櫻李はギクリとした。夜桜にこれ以上余計なことを吹きこまれてはたまったものではない。


「いや、べつになにも。ごめん、次の講義はじまるから、また今度」

「あ、うん」

「連絡する。よかったら、そのうちまた食事でも。今度は兄貴抜きで」


 禅が返事をするまえに、櫻李はあわただしくその場から立ち去った。

 ひょっとして、後輩の女の子から告白されたという話だろうか。

 その後ろ姿を見送りながら禅は首をかしげたが、櫻李自身は、まさか禅にまで伝わるほどの勢いで、つい先程の話がすでに構内中にひろまっているなど思いもしない。


「おまえ、余計なこと言うなって!」


 足早に移動しながら、櫻李は小声でそう口にしたが、咎められたほうはどこ吹く風といったところである。


『わちきとしたことが、とんだ野暮でありんしたなあ』


 ふくりとした笑いを滲ませる。櫻李はそんな夜桜の反応に、小さく嘆息してかぶりを振った。

 櫻李の裡で、夜桜はひそかに艶やかな笑みを深くする。



 生きてては苦界、死しては浄閑寺――


 苦しみの中で歯を食いしばり、生命あるかぎり咲き誇ろうと、己の張りと意気地だけを頼りに昂然と頭を反らした日々はすでに彼方に消えた。

 自分がなぜ、こんなかたちで転生後の櫻李の中に魂を甦らせることになったのか、夜桜にはわからない。だが、己がかつて生きた場所とは異なるこの世界で、時代を超え、性別を超えて新たに花開いた生命の生きざまを、見届けるのも悪くはないと思った。



 ――櫻李、生きなんし。精一杯あざやかに、美しく。



 夜桜は胸の裡で囁きかける。

 その生命あるかぎり、数多の奇蹟を掴んで、この世で輝ける歓びを謳歌していけ、と。


 儚き生も、生きざま次第。


 どうせ散りゆく夢ならば、大輪の花、咲かせんしょう――




 櫻李、ぬしの生は、まだ花開きはじめたところですえ。




   ~了~ 


最後までおつき合いいただきましてありがとうございました。

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