(3)
実母は幼少の時分に病没しており、それからしばらくの後に後妻におさまった父親の再婚相手は現在38歳。姉、兄、自分と3つもコブのくっついた、普通なら敬遠してもおかしくない二十も年上の頑固親父の許に、よくぞ嫁いでくれたと、いまだに感心する奇特な人である。
実年齢の若さに加えて外見もさらに若々しく、ついでに言えば、来年三十路に突入する実姉と9歳も離れていない。そのため、継母というよりは、お姉さん的感覚のほうが強かった。
「あ、ただいま。なんか、思ったとお――じゃなくて、思ったより早く用事が済んだんで」
「ふ~ん、そうなんだ。ね、それじゃ今日、このあとまた出掛ける予定とかある?」
「いまんとこないよ。なんで? あ、もしかして菊姫の迎え?」
「うううん。そうじゃないの。あの子のお迎えはあたしが行くからいいんだけど、さっき、蓮爾さんから連絡があってね、今夜はひさしぶりに実家に戻ってきて、一泊していくんですって」
思いがけない言葉に驚いた。
「兄貴が?」
「そうなの。珍しいでしょ? だからたまには、家族全員そろってのお夕飯になったらいいなって思ったの。予定入れないで、空けておいてくれる?」
長兄の蓮爾は航空自衛隊所属、現役バリバリのパイロットである。防衛大を出て幹部候補生として入隊後、順調に昇進を重ね、現在は二尉だったか一尉だったか、ともかく戦闘機乗りとして日々、音速のスピードで大空を滑空していた。くわしくは知らないが、防衛大出身の戦闘機パイロットというのは非常に稀なケースであるらしい。
高校卒業と同時に大学の寮に入り、その後は訓練やら赴任先に応じて地方を転々とした兄も、戦闘機パイロットとしての配属先が決まったいま現在は、所属基地最寄りのマンションで気儘な独り暮らし中。おなじ関東圏内でも、実家から職場まで、東京を挟んで電車移動込みで二時間近くかかるため、普段はオフの日でも面倒がって滅多に顔を見せに戻ってくることはなかった。
「へえ、たしかにめずらし。なんかあったかな?」
「そういうんでもないみたい。ひさしぶりに豆乳の担々鍋が食べたいってリクエストされちゃった」
菊乃の言葉に櫻李はなるほどと頷いた。豆乳担々鍋は彼女の得意料理である。プロ顔負けの継母の絶品手料理が恋しくなった、ということだろう。
「兄貴帰ってくるんじゃ、親父、喜んだんじゃない?」
「それがまだ知らないのよ。お弟子さんたちのお稽古中だから」
「ああ、そうなんだ」
言われてみれば、奥のほうで複数の掛け声が威勢よく聞こえている。
『鬼頭塾』
鬼頭家の門には、一枚板に墨痕あざやかな3文字の記された看板が、表札以上の存在感を放って堂々と掲げられている。父と姉が師範を務める極真空手『鬼神道場』と居合道『無双鬼神流』の双方を合わせた道場である。
鬼頭家では、本来跡取りであってしかるべき長男、次男がからきしアテにならないため、長女であり長子でもある姉の桃花が『鬼頭塾』の跡取りとして立派にその役割を果たしていた。
ちなみにいまは若奥さま然と、おっとりのんびり主婦業に専念している継母の菊乃も、居合の有段者である。
結婚前の職歴が婦警という彼女は、警察の術課訓練の延長で居合にも興味を持つようになり、より専門的な技術習得のため、個人的に鬼頭塾の門下生として鍛錬に励むうち、いつのまにかおかしな流れとなって、父剛造に弟子入りではなく嫁入りをしてしまった、という次第であった。
奇特、というよりは、むしろ気の毒な人かもしれない、などと櫻李は思うのだが、本人はいたって幸せそうにしているのでいまのところ問題はないのだろう。
「菊乃さん、ヒメの迎え、俺行ってくるよ。今日どこ?」
「え? いいのよ、そんな」
「いいって、どうせ暇だし。菊乃さん、夕飯の買い出しあるだろ? なんだったら分担して、豆乳とか白菜とか、重いやつは菊姫拾った帰りに俺が買ってきてもいいけど」
義理の息子の提案に、菊乃は「そぉお?」と立てた竹箒を胸のまえで握りしめて小首をかしげた。
「それじゃ、お言葉に甘えてお願いしちゃおうかな」
「いいよ」
頷くと、年若い継母はすかさず、
「櫻李くんて優しいから好き!」
と、極上の笑みに恐れ知らずの殺し文句を添えて義理の息子をドキッとさせた。
「今日はあの子、二丁目の小向さんのお宅でお習字ならってるの。もうまもなく終わると思うわ」
「了解。じゃ、このまま行ってくる。買い物は?」
「たしか踏切向こうのスーパーで今日特売だったと思うから、豆乳だけお願いできる? 白菜はまだ充分家にあるから大丈夫」
お願いね、と甘え上手の人妻に優しく送り出されて、櫻李は来た道をとって返した。
両サイドに白い玉砂利が敷きつめられた和風庭園の中央、玄関からまっすぐに伸びた御影石の連なる敷石を踏んで、寺院の入り口を思わせる仰々しい造りの門に向かう。そして、ふと心づいたように途中で足を止めて振り返った。
「菊乃さん、訊いてもいい?」
「うん、なに? 豆乳だったら無調整のほうでいいわよ?」
「あ、うん。いや、そうじゃなくてさ。それはいいんだけど、なんていうかその……俺ってもしかして――女っぽい?」
突拍子もない質問に、菊乃は大きな瞳をパチクリさせた。天然の長い睫毛が、その動きでバサッと音を立てそうだった。
「え? それって、いまみたいに優しい気配りができるっていう部分が女性的かどうかってこと?」
「いや、そうじゃなくて。なんていうか、日頃から、言動とかちょっとした仕種なんかがカマッぽいっていうか、ナヨッとした印象がある、みたいな」
黒目がちの大きな目をさらに大きく瞠った菊乃は、直後にコロコロと笑い出した。
「え~、ないわよぉ、そんなの。たしかに櫻李くん、アイドルっぽい整った貌立ちしてるけど、それだって女性っぽい綺麗さではないわよ? もちろん話しかただって仕種だって全然。だいたい櫻李くんが女性っぽかったら、蓮爾さんだって女性っぽいってことになるじゃない。ご近所でも評判のイケメン兄弟なんだから」
「いやまあ……」
櫻李は曖昧な口調で言葉を濁した。
言われてみれば、たしかにそのとおりである。自分の容姿云々についてはこの際どうでもいいとして、兄の蓮爾に関して言うならば、まったくもって、あれを基準に女性が自分の女らしさについて戦意や自信を喪失するなど、まずあり得ないことだった。むしろ、その『女』を武器に猛烈アピールして言い寄られるタイプだったからである。
しかし、だとするとなぜ……。
「どうしたの、突然。学校で、だれかになにか言われた?」
不思議そうに訊かれて返答に窮し、櫻李は結局、適当に笑って誤魔化した。
「なんでもない。ちょっとね」
そして、いってきますと挨拶をしてふたたび踵を返し、異母妹の迎えに出発した。
大学でだれかになにかを言われているのは、いつものことである。
釈然としない気分のまま、門を通り抜ける。そのとき耳もとで、不意に『なにか』が忍び笑いを漏らしたような奇妙な感覚が、一瞬だけ、微風のように吹き抜けていった。そんな気がした。