(1)
午前中の講義を終えてキャンパス内を移動していた櫻李は、ふと中庭に目をやって、ひとつのベンチに目を留めた。
いい具合に庁舎の壁が影を作るその場所で、鈴原禅が独り、サンドイッチをつまみながら読書をしていた。庁舎わきの自販機で無糖の紅茶とブラックコーヒーを購入した櫻李は、そのまま禅の許へ向かった。
「少し、邪魔してもいい?」
傍らに立って控えめに声をかけると、禅は顔を上げ、櫻李と認めて、ああ、といった様子で頷いた。
読みかけの本を閉じ、横に置いていた鞄を膝の上に載せて空いたスペースをどうぞと示す。
「悪いね、せっかくの読書中に」
「うううん、大丈夫」
よかったらこれ、と差し出したペットボトルの紅茶を、禅は礼を言って受け取った。
「お兄さん、その後どう?」
「うん、おかげさまで、職場も含めてすっかり落ち着いたって」
「そう、よかった」
「その反面、また以前みたいに実家から足が遠のいたんで、それはそれで家族は物足りないみたいだけどね」
言って、櫻李は笑った。
エリミネート必至。悲愴なまでの焦りをみせていた蓮爾は、あれ以降、ピタリと実家通いをすることはなくなった。防衛大出身の稀少な戦闘機乗りということもあって、蓮爾の場合、他の勤務との兼ね合いもあり、飛行時間が日頃から不足しがちなのだという。決められている最低飛行時間をクリアするため、非番の日を使って埋め合わせをすることも少なくはないのだとか。それが、ここしばらくのあいだ、埋め合わせどころの話ではなくなっていた。家族のまえで蓮爾がそれを吐露することはなかったが、相当厳しい状況に追いこまれていたのである。
正直、蓮爾が滅多に帰省することもなく連絡もよこさないのは、女性関係を中心とするプライベートが忙しいからなのだと思っていた。
『おまえね、社会人ナメんなよ』
櫻李が抱いていた誤った認識に、蓮爾はそう言って、手の甲で軽く櫻李の頭を小突いた。兄に対する失礼な認識をあらためるとともに、素直に謝罪したことは言うまでもない。
ともあれ、これでまた、当分のあいだ蓮爾が帰省することはないだろう。そんな余裕が持てるようになるのは、果たして何ヶ月先のことか。
櫻李はあらためて、禅に向きなおった。
「いろいろありがとう。助かったよ。兄貴からもよろしくって」
櫻李の心からの謝意に、禅はかぶりを振った。
「わたしはべつに。ほんの少し、できる範囲で手伝いをしただけだから。実際に解決に導いたのは、サクラさんと夜桜さんだよ」
「いや、それこそ俺はなんにも」
櫻李はそう言って苦笑した。
「鈴原さんがいてくれなかったら、完璧お手上げだった」
「役に立てたなら、よかった」
「うん」
笑顔で応えた櫻李に、禅もわずかに目もとをなごませた。
「ところで鈴原さん、酒飲める?」
「え?」
「いや、兄貴がこないだのお礼に、よかったら今度ぜひ食事でもって。ま、お礼は口実で、ただたんに、鈴原さんともう少しつっこんだ話がしてみたいだけじゃないかな。かなり強烈な体験だったみたいだから」
「まあ、普通は一生のうちでも、ああいう体験をする人って稀だよね」
「そうそう、兄貴なんて超現実主義者だからさ。脳天をガツンとぶん殴られたみたいな衝撃だったみたいで。ああいう場面でも、終始沈着冷静だった鈴原さんにも、おなじくらい衝撃を受けて興味が湧いたらしい」
櫻李の言葉を聞いて、禅は苦笑を漏らした。
「わたしは人より、そういう経験が多いぶん、慣れてただけだよ」
「そのへんのことを、鈴原さんの口からいろいろ聞いてみたいってことらしいんだよね。イヤだったら断ってくれて全然かまわないんだけど、羽振りのいい独身男だから、俺たち学生と違ってそこそこ贅沢なもん奢ってもらえるよ? でもって、兄貴の誘いは基本、飲み前提だからさ。そういう理由でさっきの『飲める?』っていう質問」
なるほどと頷いた禅は、生真面目な表情で口を開いた。
「あんまり得意なほうではないけど、付き合う程度なら」
「気が進まないとか、断りづらいとかはない?」
「全然。サクラさんのお兄さん、航空自衛隊のパイロットなんだよね? わたしもいろいろ、そういう話聞いてみたい。こないだは、それどころじゃなかったから」
禅の意外な言葉に、櫻李は目を瞠った。
「鈴原さん、ひょっとして卒業後は自衛官希望?」
「うううん、違うけど。そういう専門職の人の仕事内容って、普段日常で接する機会が殆どないから、興味あるかも」
自分の能力や体験の稀少さは完全に度外視しているところがいかにも禅らしい。思って、櫻李は笑みを漏らした。
「? なんか変?」
「ああ、いや、変じゃないよ。わかった、兄貴に言っておく。決まったら連絡するから」
「うん、楽しみにしてる」
「楽しみにしてるのは、たぶん向こうじゃないかな。根掘り葉掘り、すげえいろいろつっこんで訊いてくると思うけど、適当にあしらっちゃっていいから」
笑って応じた櫻李を、禅はふとあらたまった表情で顧みた。
「サクラさんは、大丈夫?」
「ん? なにが?」
「夜桜さんのこと」
やや遠慮がちに訊かれて、櫻李は途端に複雑な心境になるとともに、「あ~、うん」と曖昧に応じた。
正直、禅が櫻李の中に見いだしている『能力』の有無については、いまだにかなり懐疑的な部分がある。あのとき自分がなにかをしたという自覚はまったくなかったし、その後もとくに、これといって特別ななにかを感じることもなく過ごしている。だが、己の裡に、完全に別個の人間が存在していることだけは認めざるを得なかった。
小学校に上がるまえに母が病没していることもあり、そういった、幼いころの喪失体験がなんらかの影響を及ぼしているのかとも思ったが、どうも、そういうことでもないようである。蓮爾の部屋での同調体験を機に、櫻李は少しずつ夜桜の存在を認めるようになっていた。すると夜桜のほうでもまた、それに伴って己の存在を隠さなくなってきたのである。
「兄貴が経験してたのって、こういうことなんかなって、なんとなくわかるようになってきた感じ、かな」
「え?」
「なんか最近、普通に話しかけてくるんだよね。そんなしょっちゅうってわけでもないんだけどさ」
櫻李の言葉に、禅は珍しくいつもの無表情を解除して両目をパチクリさせた。
自分でもバカげたことを口にしていると思う。だが、事実なのだからしかたがない。しかもそのことが、己に起こっている状態が、精神的な問題とは無関係であると判断した理由にもなっていた。
なんというか、基本的にいろいろ弁えているのである。主導権が櫻李にあると尊重しているのはもちろんのこと、己の存在を櫻李に感じさせていいときと悪いときのタイミングさえ完璧に推し量っていた。
控えているべきと判断したときの夜桜は、櫻李ですらその存在を忘れるほどに徹底して気配を掻き消す。そして、己がいても差し支えないと判断した場合にかぎり、障りのない範囲で声をかけてくるのだ。
声は、あくまで櫻李の脳内で聞こえるのみで、周囲にそれが知れることはない。鏡を通して第三者のまえにまで姿を現した、ああいう場合こそが特別で、あくまで通常は、その存在が感じられるのは櫻李限定ということなのだろう。
「……ひょっとして、見立てを間違えたかな」
夜桜が櫻李に話しかけていると聞いた禅は、そのことで櫻李が困っていると勘違いしたのだろう。難しげな様子を見せて、考えこみながら漏らした。
「ものの道理がわかってる人に見えたんだけどな」
「うん。だから困るよね」
櫻李の返答の意味を掴み損ねて、禅の眉間から皺が消えた。そんな禅に、櫻李は苦笑して肩を竦めてみせた。
「なんか、もっとムチャクチャだったら多重人格を疑うとか、兄貴のときみたいに霊の仕業だから祓ってくれてって鈴原さんに泣きつくこともできるんだけどさ、向こうのほうが一枚どころか、何枚も上手なんだよね」
「え、じゃあ、日常生活に支障が出るほどではない?」
「全然。っていうか、邪魔に感じることさえまるでない狡猾さ。こうなってくると、ますます認めざるを得ない感じかな」
「認める?」
「そう。夜桜の存在をさ」
言って、櫻李はぼやいた。
「なんていうか、実在するしないは別として、自分とは完全に別個の存在だったら、まだ受け容れやすかったんだけどね。けど夜桜の場合、前世とか転生とか言う繋がりをもって俺の中にいるわけじゃない? しかも向こうは俺の人生をまるごと共有してるわけでさ。なのに、俺は夜桜が生きた人生をなにひとつ知らないまま。なんかこういうのって、すげえ抵抗あるなぁって思ってたんだけどね」
「しかたないって、割りきることにした?」
「うん。考えかたを変えることにした。ルームシェアみたいなもんかなって」
「ルーム、シェア」
櫻李の言葉をオウム返しにした禅は、わずかに首をかしげた。その様子が、狙っていないだけに、小動物の仕種のようで可愛らしかった。
「そ、ルームシェア。っていうか、間借り人のほうが近いかな。俺っていう躰の中に、家主である俺自身が住んでて、その一部に夜桜が間借りしてる。そんな感じ」
「それで、受け容れられた?」
「まだ微妙ではあるけど、抵抗は、だいぶなくなった」
実際、禅にも言ったように、まったく別個の存在であったなら遙かに気が楽だったのだ。
このはなや佐平次のようなかたちであれば、霊という存在が見えようが見えまいが、信じようが信じまいが他人事として割りきってしまえる。だが夜桜の場合、己と切り離すことができないだけに、受け止めかたが難しかった。なにより、夜桜自身も、転生してなお、己の意思が残っている、というのは本意ではなかったことが櫻李にも感じとれた。これがどういうことなのか、いまはわからないが、このはなや佐平次が解き放たれるために夜桜が必要だったように、こうなることは、夜桜にとっても櫻李にとっても、なんらかの理由で必然なのかもしれない。