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夢一夜~幽明に咲く花~  作者: ZAKI
第9章
35/40

(4)

『お……いらん…………っ』


 見開かれた男の双眸に、驚愕が浮かんだ。夜桜は、穏やかな眼差しでそれを受け止めた。


「ひさしゅうありんすな、佐平次」


 艶やかに微笑む夜桜を見た男の瞳に、たちまち涙が溢れて零れ落ちた。


花魁(おいらん)……夜桜花魁……っ』


 がっくりと膝をつき、泣き濡れる男に、夜桜はいたわるように言葉をかけた。


「まさか、かようなかたちでぬしと再会を果たすことになろうとは、夢にも思わなんだえ」

『すいやせん花魁、すいやせん。あっしがどうしょうもねえ大馬鹿野郎だったばっかりに、とんだご厄介をおかけして』

「わちきのほうは、なんでもありいせん。ぬしが魂離(たまさか)っていたあいだ、本当(ほん)にご迷惑をおかけしいしたのは、わちきではなく、そちらのあに様のほうざます」


 夜桜の言葉とともに、男の瞳が蓮爾に向けられた。茫洋として、つかみどころがなかったこれまでと異なり、しっかりと意思の宿ったたしかな眼差し。


『数々のご無礼の段、誠に相すみませぬ。ひらにご容赦を』

「あ、いや、そんな。気になさらず……」


 真摯かつ殊勝な態度で頭を下げられ、蓮爾は寄りかかっていた壁から身を起こすと、いくぶん恐縮したていで応じた。


「堪忍してやっておくんなんし」


 夜桜もまた、横合いから口添えをする。


「兄様の男気に、佐平次の未練がましい心持ちが救いを求めて縋りついてしまった結果でありんす。兄様のご助力により、佐平次もこうして物狂いから己を取り戻すことが適いましたゆえ、もう二度と、兄様を悩ますことはござんすまい」


 断言した夜桜が、ふたたび佐平次に視線を戻した。


「佐平次、随分長いこと、後悔の淵を彷徨っていなんしたな。もう充分え? このはなを滅したのは、あの()自身の弱き心。一途で儚く、そのくせ、だれより強情な心持ちでありんした」


 櫻李から受け取った枝をあらためて手にし、愛でるように夜桜は言葉を紡ぐ。


「このはなの死は、だれのせいでもありいせん。惚れ抜いた男にここまで想われれば、むしろあの妓も、本望でありんしょう」

『花魁……』

「佐平次、いつまでも、こねいなところで踏み惑いしていてはいけんせんえ。わちきらの邂逅かいこうは、出逢うべくして用意された、運命(さだめ)だったのでありんしょう」

『夜桜花魁……っ』

「泣くのはおやめ。せっかくの門出に涙は相応ふさわしゅうありんせん。晴れやかに出発()ちなんし。このはなが、来世で待っていなんすえ」


 輝きを増し、美しく花開く梅の枝を、夜桜は佐平次へと手渡す。


「さあ、行きなんし。苦界くがいを抜け出る『大門(おおもん)』は、あちらざます」


 夜桜は、高らかにせんして窓外に望む霊木を示した。



「佐平次さん、お立ぁちぃ!」



 張りのある声が、朗と告げた。

 引手茶屋を通した客からの呼び出しを受けた花魁が、妓楼から揚げ屋へと道中する際の出立の場面を演出したものだった。

 だれも知らぬまに、いつのまにか全開になっていた窓からそよとした風が吹きこんだ。その風に、先程までの禍々しさを含むものとはまるで異なる、甘い花の香気が乗せられてきた。


「綺麗……」


 静かになりゆきを見守っていた茉莉花の口から、吐息のような感歎が漏れた。

 霊木本体に、いつしか満開の花が咲き乱れていた。

 本物ではない。薄く透ける幻のその花弁は、それでもなお、己の生命のかぎりに咲き誇っていた。

 最愛の男を迎える恥じらい。最愛の男とふたたび相見あいまみえ、導く歓び。最愛の男と永い時間(とき)を経て、ついに添い遂げる幸せ――


 佐平次が、吸い寄せられるように窓ぎわへと移動する。


『このはな……っ』


 ――佐平次さん……。


 佐平次の呼びかけに応えるように、梅花がざわめいた。

 窓ぎわから差し伸べた佐平次の手を、強い梅の香が包みこむ。愛しげに、やわらかく、そっとそっと抱き寄せ、その魂を絡めとっていく。

 夜桜ではなく、このはな自身が開いた『向こう側』へと(いざな)う道。

 櫻李たちの見守る中、やわらかな光を帯びて、匂いたつ梅の香に包まれた佐平次の姿は、ほどなく輪郭を喪い、淡い耀きの中に消えていった。


 ――あね様……ありがとう…ござりんした―――……。


 夜桜を通じて、櫻李の耳に、儚げな女の声が届いた。


「このはな、おさらばえ……」


 呟いた夜桜もまた、スゥッと姿を薄れさせ、その場からかき消えていった。

 夜桜の消失とともに、部屋を覆っていた見えない膜も霧散する。切り離されていた空間が、こちら側へと戻った瞬間だった。




「消えちゃった……」


 ポツリ、と呟いた茉莉花の声で、一同は我に返った。


「終わっ…た、のか?」


 茫然としていた蓮爾が、いまだ狐にでも化かされたような顔で室内を見渡した。


「あの花魁は、どこ行った? あれも一緒に成仏したのか?」


 兄に訊かれて、櫻李は返答に詰まる。櫻李が一時、夜桜に躰を支配されていたことを思い出した蓮爾は、おまえ躰は?と、さらに問いを重ねた。


「さっきのおまえも、茉莉花ちゃんとおなじような状態だったんだろ?」

「あ、いや、えーと、べつにそういうわけじゃ……」

「あの佐平次とかいう男と一緒に、あの遊女も妹のところへ帰ったのか?」

「いや、帰ってはいない、かな?」


 こちら側に現していた姿そのものは消失しているものの、夜桜の気配はいまだしっかりと櫻李の内側に感じられる。かえったのは、霊木を通じて開いた『向こう側』へではなく、櫻李の中へ、ということになるだろう。

 だが、櫻李の反応を見た蓮爾は途端に表情を険しくした。


「まさかおまえ、まだ憑かれたままなんじゃ」

「いや、取り憑かれてはいない。大丈夫」

「じゃ、別なかたちで成仏したってことか?」

「あ~、いや、そういうわけでも……」

「なんだよ、はっきりしないな。なんだってそう歯切れの悪い言いかたをする」


 苛立たしげに言われても、櫻李自身、明確な答えを持っているわけではないので、いかんともしがたいところではある。そもそも夜桜に関していうなら、取り憑く以前に櫻李の中で本人とは完全に別個の存在を有してしまっている。それが本当に前世の櫻李であるというならば、『成仏』するとかしないとか、そういう次元の話ではない気がするのだが、実際どうなのだろう。

 当惑しつつ、助けを求めるように視線を彷徨わせると、その先で櫻李の当惑を受け止めた禅が「お疲れさまでした」とふたりの兄弟のまえに進み出た。


「弟さんは大丈夫です。さっきのあれは、ほんの一時期、夜桜さんの依り(しろ)を勤めただけですから」

「依り代?」

「わかりやすく言うと、イタコみたいなものです」


 説明をされて、蓮爾は逆に疑問を深くした。


「え? だってあれ――ああいうのは、なんかそういう、特別な能力のある人間のすることなんじゃ?」

「普通はそうなんですけど、今回は特殊だったんじゃないでしょうか」

「特殊?」

「はい。おそらく、彼女と弟さんの波長が、うまい具合にぴったり合ったんだと思います。この家に生まれて、あの梅の木のそばで育ったり、一連の出来事の発端となるタイミングに居合わせたり」


 必要なことだけを、最低限の言葉で禅は端的に説明する。蓮爾はいまだ納得がいかない様子ながらも、まったく要領を得ない弟の言葉よりは信用できると判断したようだった。不思議な体験を経てなお、理解しがたい現象を理屈抜きで受け容れることは難しい。その表情が、はっきりと物語っていた。


「ともかく、もう櫻李に心配はないと?」

「はい。夜桜さんはもともと、人に害を及ぼすような悪い存在ではありませんでしたから」

「けど、櫻李の躰を乗っ取ってはいたよな?」

「少しのあいだ、借りただけです。お兄さんの中にいた佐平次さんを呼び起こして解き放つためには、彼女の能力を最大限に引き出せる実体が必要でしたから。夜桜さんと波長が合って、なおかつ、お兄さんとも血を分けた身近な存在。サクラさんが、もっとも適任だったんじゃないでしょうか」

「じゃあ、本当に取り憑かれた、とか、そういうわけではないと?」

「用が済んだらすぐにお返しします――事前に夜桜さんが言ったとおりです。おかげで、佐平次さんの魂は、ようやく現世への未練を断ち切って、旅立つことができました」


 ――おさらばえ……。


 夜桜の別れの挨拶が、一同の耳に甦る。

 自然、窓の外を見やった櫻李たちの視線の先に、美しい霊木の佇まいがたおやかに映った。だが、その姿は――


「花も、消えちゃったね」

「いかにも、一世一代、って感じだったな。全身全霊の想いが、人の心を打たないわけ、ないよな」


 ポツンとした茉莉花の呟きに、斗真が珍しくしんみりとした口調で真面目に応じた。

 この世に縛られつづけ、行き場をなくして彷徨いつづけていた哀れな魂は、深い絶望から解き放たれてきよめられ、本来、向かうべき場所へと旅立っていった。


「困った現象は、もう起こらないと思いますから」


 満開の梅の花の幻影に皆が想いを馳せる中、禅は静かに、そう締めくくった。


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