(4)
蓮爾はさりげなく周囲に視線を配る。室内にいる五人のうち、女性はふたり。禅と茉莉花と。そのいずれも、あの角度で鏡に映る場所には位置していない。それ以前に、鏡の向こうの女とはかけ離れた外見をしていた。いや、そうではない。かけ離れているのは、鏡の向こうの女のほうだった。
贅をこらした華やかな装いの、時代を遙かに遡った世界に生きたはずの遊女。
鏡が鏡としての用を成さず、その女のみを浮かび上がらせているこの現象は、いったいなんなのだろうか。これが、催眠の一種によるトリック、あるいはメンタリズムのパフォーマンスのひとつだとでもいうのだろうか。だが、櫻李の友人は、いま、なにもしていなかったはずだった。
雑談に近い会話を交わしているあいだに、いつのまにか女は顕れていた。それとも、あの会話にこそ、なんらかの仕掛けが含まれていたとでも?
催眠であるにせよ霊であるにせよ、こんなにもはっきりと像を結び、声までが聞こえるというのは完全に想定外だった。これではまるで、ガラス越しの相手と対峙しているようではないか。
自分はいま、いったいなにを目にしているのだろう……。
「兄様、ちぃと弟御をお借りしますえ?」
女が自分に向かって確認を取る。そして、返事を待つことなく傍らに目線を移した。
「では禅どの、お力添え、お頼申しいす」
女の言を受け、禅が立ち上がった。
「サクラさん、ここに来て、左手出して」
櫻李が言われるまま鏡に近寄り、左手を差し出す。禅はその腕をとって、鏡に掌を当てさせた。
驚いたことに、鏡向こうの女が数瞬遅れて立ち上がる。それから、櫻李の手に重ね合わせるように、みずからの手を添えた。
こちら側で、女とおなじタイミングで動いた者は、やはり、だれひとりとしていない。
なんだこれは。いったいどんな仕掛けになっている。
混乱する蓮爾同様に、櫻李もまた戸惑い、緊張している気配が背中越しに伝わってきた。
このままなりゆきに任せて、本当に大丈夫なのだろうか。
止めるべきではないのか。いまならまだ間に合うのではないか。
思った瞬間に、その思考をまるで読み取りでもしたように、女が櫻李越しに蓮爾を見据えて艶やかに笑んだ。
「ご案じなさらずとも、大事ありませんえ」
言った途端に女の姿が輪郭を滲ませる。驚く蓮爾の目の前で、櫻李の手首を掴んで鏡に手を添えさせている禅がじっと目を閉じ、口の中でなにごとかを唱えた。と、次の瞬間、櫻李の躰が大きく痙攣し、白い影のようなものがその全身を包んだ。
「すげっ、なにこれ……っ」
「二重になってる……」
眼前で起こった事態に愕然とする蓮爾の横で、斗真と茉莉花が驚嘆の声を低く漏らした。反対に、櫻李の手を放して目を開けた禅が、ホッと息をついた。
「だ、大丈夫なのか?」
思わず尋ねた蓮爾に、禅はわずかに表情をゆるめて頷いた。
「大丈夫です。あとは『ふたり』に任せておけば」
禅は蓮爾に起こっている現象の対応のことを言っているようだが、蓮爾にしてみれば、それどころではない。
鏡向こうにいたはずの女の姿が、その鏡の中から一瞬にして消えていた。さらにあろうことか、櫻李にかぶさるようにして、こちら側へと移動していた。
鏡から手を放した櫻李がゆっくりと顧みる。
振り返ったその姿に、白く透けて見える女が重なって見えた。
【兄様、ご心配なく】
櫻李と女が、同時に口を開く。ふたりはともに、女のほうの言葉を発した。
【ほんのいっとき、櫻李の躰を借りているだけざます。コトが片付きんしたら、すぐにもお返ししますえ】
女の仕種でなよなかに小首をかしげ、ふっくりと笑む。端正な所作でわずかに腰を屈めると、テーブルに据えられたグラスから梅の枝を取り上げた。
【このはな、会いとうおしたえ……】
手にした梅の枝に頬を寄せ、櫻李――夜桜は秘やかに言葉をかけた。刹那、ふた月近くもまえに時期を終えたはずの枝に蕾が膨らみはじめる。それは、見る間に蕾を開かせ、可憐な花を咲かせた。
優しく淋しげな眼差しで白い花弁を見やった夜桜は、つと、正面に立つ蓮爾に視線を移した。そのまま歩を進めて近づくと、その顔を見て、かすかに頷いた。
【兄様、ちぃと失礼いたしんす】
言って、白い指先でシャツのボタンをはずすと、はだけさせた胸もとにそっとその手を差し入れた。
夜桜を通じて己の行動を離人症のような感覚で眺めていた櫻李の意識が、途端に「ああ」と得心する。蓮爾の部屋に忍びこんだ晩のあの行動は、酔って寝ぼけたわけではなく、夜桜の仕業だったことを理解した。
――こちらだけでまるくおさめることはできんせんかと、これまでにも、それとのう試してみんした――
あれは、そういうことだったのだ。
蓮爾の左胸の心臓のあたりに手を添えた夜桜は、静かに目を閉じて意識を集中させた。
【佐平次、そこに居なんすかえ? わちきが力を貸しんすゆえ、こちら側へ出ておいでなんし】
呼びかけるとともに、さらに手もとに強い意識を向ける。
掌が、人の体温を超えて次第に熱を帯び、それとともに蓮爾がなにか、苦痛に耐えるように顔を歪ませていった。
【兄様、あいすみませぬ。しばし耐えておくんなんし。あとわずかで済みますゆえ】
夜桜の励ましを受けて、蓮爾は両手を握りしめ、歯を食いしばった。その額から、見る間に汗が噴き出して、じっとりと滲んだ。
「……っく」
【あと少しですえ】
夜桜の掌を通じて伝わる熱が蓮爾の中に浸透し、次第にある一点に凝縮して包みこんでいくのがわかる。そこから『こちら側』へ向けて導線ができあがり、たしかな『道』を造り出していった。
蓮爾の内側で、夜桜に包みこまれた熱の中心が、ピクリと反応を示して打ち震えた。櫻李もまた、己の掌を通じてその感覚をはっきりと感じとっていた。
【櫻李、わちきに心を添わせなんし。ぬしの力添えも必要え】
言われて、よくはわからないながらも、櫻李も夜桜が手を添える一点に意識を集中させる。包みこまれた熱の奥で、『なにか』がゆっくりとこちら側へと移動を開始した。
「うぁっ」
瞬間、たまりかねたように蓮爾が声を発した。びっしりと浮かんだ玉の汗は、すでに幾筋も顔を伝って流れ落ちていた。
【兄様、堪忍え。もそっと我慢しておくんなんし】
兄の苦痛を少しでも早くやわらげるため、櫻李もさらに手もとに意識を高めていく。
スルスルと移動した『それ』は、ついに夜桜の添えた掌まで到達すると、スッと力を弱めてその中に吸収されていった。
夜桜が、ホッと息をつく。蓮爾もまた、息を喘がせながら一度だけ大きく息をついた。
【兄様、ご尽力、感謝しますえ】
蓮爾に向かってふくりと笑んだ夜桜は、つと躰の向きを変えると、窓のほうを向いて右手を差し伸べた。上向きの掌から、たちまち淡い光が立ちのぼる。それはやがて、ゆっくりと人型を成していった。
息を呑む一同が目を瞠る中、和装姿のひとりの男が浮かび上がった。それは、これまで幾たびとなく蓮爾の夢に現れ、悲しみを嘆じつづけてきたあの男だった。
【佐平次】
静かに呼ばわった夜桜の声に反応して、中空に浮かんだ男が、ピクリと瞼をふるわせる。その目が、ゆっくりと開いた。
『……お、いらん……』
夜桜の姿をとらえた佐平次が、囁くようにポツリと漏らした。蓮爾を悩ませつづけた、あの声。
刹那、あたりに強い梅の香が満ちる。
強すぎるほどの妖艶な馨り――
夜桜と一体化した櫻李、そして禅がハッと顔を上げた。同時に、茉莉花の躰がぐらりとかしぐ。
「真野ッチ!?」
驚いた斗真が、その躰をあわてて支える。
【触れてはいけんせんっ!】
「え?」
夜桜が鋭い警告を飛ばした次の瞬間、茉莉花の腕が伸び、一瞬のうちに斗真の首を絞めあげていた。