(3)
「それじゃあ、準備が整ったところではじめたいと思います」
中庭から引き上げる際、ひと挿しだけ折ってきた梅の枝を花瓶がわりの水を張ったグラスに入れ、ローテーブルの真ん中に置いたところで禅が言った。
さりげない配置で、櫻李は姿見の正面に座っている。その横には、やや緊張気味の蓮爾の姿があった。
「ねえ、ゼンちゃん、ひとつ質問なんですけどぉ」
場の空気にそぐわぬ、のんびりとした口調で茉莉花が小さく手を挙げながら発言した。
「こないだのときって、一応夜だったじゃない? でも、いまって思いっきりお日さまがお空に輝いてる時間なんだけどぉ。そんな時間帯でも、幽霊さんて出てきてくれるのぉ?」
言われてみれば、たしかにそのとおりである。深夜とか丑三つ時とか、いかにももっともらしい時間帯が相応しい気がするのだが、実際どうなのだろう?
だが、禅の答えはじつにあっさりしたものだった。
「ああ、大丈夫。そのへんはあんまり気にしなくて。条件はもうそろってるから」
言ったところで、チラリと櫻李に視線を送って意味深に目配せをした。
「ところで、いまもやっぱり、『例の声』は止まってますか?」
さりげない感じで、禅は蓮爾の気を逸らす。その間に、このあいだとおなじやりかたで夜桜を呼び出せということなのだろう。
禅の質問に答える蓮爾の横で、櫻李は静かに目を閉じた。先日来、初の試みである。
鏡を見る機会はいくらでもあったが、己に起こっている事態を受け止めきれずにいた櫻李は、夜桜と向き合うことに躊躇し、後込みしていた。蓮爾のことを思えば、そんな悠長なことを言っている場合ではなかったのだが、だからといって万一の場合、素人の自分独りですべてを処理できるわけもない。結局、先延ばしにするよりほかなかった。
蓮爾と禅、双方の都合をつけて引き合わせる段取りが早々についたのは、櫻李にとっても非常にありがたいことだった。
「さっきも少しお話しさせていただいたとおり、お兄さんは悪い霊に取り憑かれているとか、そういうことではないので、あまり心配されなくても大丈夫です」
「たまたま波長が合っただけ、だったっけ?」
「そうです。そういうことは日常的にも意外とよくあることで、決して珍しくはありません。ただ、いい霊であるにせよ悪い霊であるにせよ、普通はうっかり波長が合ってしまった人自身が気づかないことも多くて、知らないまま日常生活を送っているうちに離れていくものなんですけど、今回は梅の木のこともあって、より強く力が作用してしまったために、いろいろイレギュラーな事態に発展してしまった、という感じでしょうか」
「いや、ほんと参った。この歳までそんな経験したことなかったし、正直、あまりそういうのを信じるタチじゃなかったんだけどね」
「大抵はみんな、そんなものだと思います。見えないし感じることのないものを信じろと言われても、無理がありますから」
「俺たちも正直、前回あんなはっきり見るまでは空想世界の作りごと、みたいな感じだったんですよ」
お調子者の斗真がすかさず会話に参加する。
「あ、べつにお兄さんのことダシにしておもしろがってたわけじゃないっすよ? けど、もしほんとにそんな不思議なことが間近に見れるなら、貴重な体験かな、みたいな好奇心はおさえきれなくて。なんていうか、マジックショー的な期待があったっていうか」
「え~、ツルちゃん不純すぎぃ。あたしはゼンちゃんのすごさ知ってたから、もっとちゃんと、真剣にとらえてたわよぉ」
「いやいや真野ッチ、野次馬根性まる出しはあんたも一緒だから」
「え~、ひどぉい! 探究心に富んでるだけだもぉん」
禅と蓮爾を中心とする四人の会話を流して聞きながら、櫻李は己の内側に注意を向ける。
心の内側に真っ暗な空間を思い描き、気配を探った。かすかに感じとった存在から、少しずつ闇を取り除いて輪郭をなぞり、具体的な姿を思い描いて――
「あ~、夜桜さん」
茉莉花の声で我に返ると、いつのまにか正面の鏡の中に現れた、艶やかな着物姿の女と対峙していた。傍らで、蓮爾が小さく、うわっ、と声をあげる。はっきりと目が合った瞬間に、櫻李をじっと見据えていた夜桜が、ふくり、とたおやかな笑みを浮かべた。
「――そだろ……」
それを見た蓮爾が、低く呻くように漏らした。
その声を聞き取った夜桜の目線が、隣へと移る。人ならぬものの眼差しを受けて、蓮爾の躰がピクリと慄えるのを櫻李は目の端でとらえた。
やわらかな微笑を湛えた夜桜の表情は変わらない。端座した己のまえで軽く両手をつき、蓮爾に向かって小首をかしげて挨拶をした。
「お初にお目にかかりいす。夜桜と申しんす。この度はわちきの妹分が此方様に多大なるご面倒をおかけしいして、お詫びのしようもおざんせん。いまより、わちきの裁量にてきっちりケジメをつけさせていただきんすゆえ、命賭して一途を貫いた哀れな想いに免じて、何卒、勘弁してやっておくんなんし」
「ああ、いや、そんな……」
凜然とした佇まいを見せる夜桜をまえに、蓮爾がいささか気圧されたように息を呑んだ。
話には聞いていた。声の主も、その相手も、すでにこの世には存在しないものなのだと。そしてそのふたりを結ぶ鍵となる別の存在が、偶然おなじタイミングでおなじ空間に居合わせてしまったことが、今回の事態を引き起こす原因となった、という説明も受けた。だが、蓮爾はそれでも、どこかで信じきれていない部分があった。
妄想、思いこみ、幻覚、集団催眠。
自身に関して言うならば、病院での診断結果はいずれも異常なしだった。だが、ひょっとすると診断ミスや見逃しがあるのではないかと、そちらのほうを強く疑っていた。
発見に至っていない脳の異常が存在しているか、もしくは自覚はまるでないものの、ノイローゼ気味なのか。幻聴どころか幻覚まで見えはじめたともなると、仕事への支障以前に日常生活すら危ういことになる。統合失調症の疑いもあるのではないかと専門家にも尋ねてみたが、一笑に付されるばかりでいっこうに埒が明かなかった。
知らぬまに、見えないだれかと会話しているようなことはないか。同僚に確認した挙げ句、冗談と受け取られ、なんだおまえも幽霊騒ぎに便乗してるのかと笑い話のネタにすらされた。進退窮まったところに弟から連絡を受け、一縷の望みにかけてみることにはしたものの、正直、期待は殆どしていなかった。
医者にすらつきとめられなかった原因を、弟の友人だという素人の学生に『霊障』だと言われて素直に信じられるほど純真ではなかった。おそらく、一時期流行していたメンタリズム、あるいは催眠療法などといったものに興味がある子なのかもしれない。櫻李たちが経験したという現象も、その技術の応用かなにかだったのだろう。思いはしたが、とりあえず、いま現在の切羽詰まった状況を少しでも打開できるなら、イカサマ霊媒でもなんでも頼んでみることにしよう――そんな気持ちでいたのだ。それが。
鏡の向こうに、たしかに女が見える。それどころか、間違いなく自分に向かって言葉を発している。
昔から馴染んだ自室のクローゼットの扉で、いまだかつて、こんな現象を目にしたことなど一度たりとてなかった。
それは、ごく普通の、ただの姿見のはずだった。




