(4)
驚愕のあまり、声ひとつ発することもできずに思った瞬間、鏡の向こうの像がゆっくりと瞬きをした。愕然と目を見開いたままだった、櫻李の目の前で。
櫻李は咄嗟に息を呑んだ。直後、鏡の中の己の像が、一瞬にして溶解した。
白粉を塗りこめた肌、あざやかな紅をさした口唇。艶やかで、絢爛という言葉が相応しい赤を基調とした着物に前結びの黒い帯。綺麗に整えられた日本髪――横兵庫髷というのだという――には、真珠や螺鈿、象嵌があしらわれた簪や笄、金の蒔絵が華やかに施された櫛などが大量に飾られていた。
思考が麻痺した頭の中で、『遊女』という単語が無意識のうちに浮かび上がる。その思考を読み取ったかのように、目の前の女が、ふくり、と笑みを零した。媚態を含む、驚くほど妖艶な笑みだった。
「はじめまして、鈴原禅といいます」
櫻李の背後にいた禅が隣に並んで正座し、声をかけた。
「少し、お話を伺うことはできますか?」
と、女は禅に視線をやって、なよやかに首を動かした。わずかに頷いたものらしい。いつのまにか、斗真と茉莉花も、テーブルをどかして櫻李と禅のそばにしがみつくように寄ってきていたが、正面の鏡は、そのうちのだれの姿も写しとらず、遊女姿の女のみを映していた。
「お名前を伺っても?」
「『夜桜』と申しんす」
禅の問いかけに、思った以上に明瞭な声が返ってきた。その瞬間、櫻李はハッとした。いまのいままですっかり忘れ去っていたが、いつか見た夢の中で、たしかに聞いた声。
『そねいに泣き虫でどうしんす』
櫻李の反応に、女――夜桜はまたしても意味深な含み笑いを漏らした。その目が、ゆっくりと櫻李を見やった。
「櫻李、ぬしとこうして相見える日が来ようとは、つゆほども思いんせんしたえ。夢のようでおざんすな」
自分が女装をしたようでありながら、やはり輪郭の全体がやわらかな質感を持っており、纏う気配も異なっている。なにより、発する声が性別の違いをあきらかにしていた。
変わらず、ひと言も発することができない櫻李を、女は目を細めてじっと見据える。顔を合わせて直接話ができることを、心底喜んでいるようだった。
こんな女は知らない。思うそばから、それを否定する自分がいることに櫻李は気づいた。
知らないはずにもかかわらず、女が纏う気配は、ひどく己に馴染んだものだった。
そんなバカな……。
櫻李の混乱を酌み取っているのか、夜桜は櫻李に返答を求めることなく、その傍らにふたたび視線を戻した。
「鈴原禅どの、とおっしゃいんしたかえ? 現し身から離れてひさしいこの身に、よう気づいてくれんしたな。こうしてわちきを、『こちら側』へ呼び寄せてくれんしたこと、心から感謝しておりんすえ」
「いえ、わたしはたいしたことはなにも。もともとのサクラさんの能力が高かったおかげです。わたしはほんの少し、お手伝いをさせてもらっただけですから」
「充分、助かりいしたえ。思いもよらずかような事態となりんして、わちきも、いこう心惑いしておりんした。こちらだけでまるくおさめることはできんせんかと、これまでにも、それとのう試してみんしたが、どうにも櫻李の力が強すぎて……。いかい、じれっとうおしたえ」
ふっくりと笑う女の目が、冗談交じりの非難を含む。意味がわからず戸惑っていると、禅だけが事情を理解しているように「そうでしょうね」と同意した。
「もともとの能力もありますけど、でも、サクラさんのいまの力は、やっぱり夜桜さんの影響もかなりあると思います。今回は、それが望ましくない方向にいってしまったのかもしれません」
「そのとおりざます。さまざまの偶然が徒に絡まり合い、呼び合った結果、かような事態を招いてしまいんした。わちきのみなら、こうして『こちら側』へ出張ることもなく引っこんでおれんしたものを」
「でもやっぱり、いずれはこうなったと思います。いままでも充分、サクラさんの私生活に夜桜さんの影響が出てたみたいですから」
「櫻李の妨げにならぬよう静かにひそんでいんしたのに、なにゆえ毎度、気取られてしまうやら。おなごの勧は、いつの時代も惘れるほどに鋭うおざんすなぁ」
「わたしにはよくわかりませんけど、好きな相手の歓心を誘うために、そういう感性も鋭敏になるものなのかもしれません」
「すっ、鈴原さんっ」
勝手に盛り上がる女ふたりのあいだに、櫻李はようやく、やっとのことで割って入った。
ただでさえ理解不能な状況だというのに、話の内容がどんどん意味不明になっていく。まさか、というか、ひょっとして、というか、これまでの数々の断られ現象は、すべてこの目の前にいる、夜桜という女が原因だったということなのだろうか。
妖艶。女としての自信。太刀打ち云々。
キーワードがもろもろ、ぴったりと符合していくのが恐ろしかった。
「あ、ごめん。彼女がサクラさんの中にいる人で、今回の現象の一因にもなってる人」
あっさり紹介されても困るとしか言いようがない。免疫がないどころか、なにもかもがはじめてすぎて、どこからとっかかりを掴めばいいのかすらわからない状態だった。その混乱に追い打ちをかけるように、混乱の原因そのものが訳知り顔で話しかけてくる。
「櫻李、ぬしが困惑するのも無理のないことでありんすえ。わちきもはじめは、おなじ心持ちでおだんした」
「いや、あの、えーと……」
なぜよりにもよって、混乱の主因となっている相手に同情と憐憫を寄せられているのだろうか。
右手で己の顔の右側を覆いながら、櫻李はグルグルと思考が空回りする中から言葉を探そうと必死に考えを巡らせた。そこへ、おっとりと口を開いたのは、櫻李の右隣にいた茉莉花だった。
「あのぉ、夜桜さんは、鬼頭くんの『なに』にあたる方なんですかぁ?」
当事者でないということもあるのだろうが、こういう場面であっさり立ちなおるのは、男より断然、女の強みといったところだろう。
「なんか、さっきゼンちゃんが、夜桜さんは鬼頭くんに取り憑いてる悪霊さんでもないし、守護霊さまとも違うって言ってたみたいなんですけどぉ、でも、鬼頭くんとは縁がある方なんですよね? 『中』にいらっしゃるくらいなんだから。そうすると、どういう繋がりになる感じになりますぅ?」
そうだ、まずはそこからはっきりさせよう。
茉莉花の質問のおかげで、櫻李もわずかに理性の一部を取り戻した。相手の回答に耳を傾けるべく、注意を向ける。
ふたたび櫻李と目が合った女の眼差しが、思わせぶりにフッとやわらいだ。
艶めいた朱唇が、やがてゆっくりと開いた。
「……わちきは、今生に生を受けた櫻李の前身でありんす」
「前身? それって生まれるまえのってことですか?」
「そうざます」
「え? ってことは、鬼頭くんの前世が夜桜さん、ってこと? 別人だけど、同一人物?」
前世? 前世の俺が、いまの俺の目の前にいる? っていうか、生まれ変わるまえの俺が、遊女――花魁……?
「あ、鬼頭くんが完全に固まっちゃった」
すぐ横で、茉莉花がボソッと呟いた。