(3)
「べつに悪い霊に取り憑かれてるとか、そういうことじゃないから安心して」
視界を遮られた状態で、禅の落ち着いた声が静かに響いた。
「わたしも、こういう例ははじめてだから、結構びっくりしてる。『彼女』も強いけど、やっぱりサクラさんも相当強いんだと思う」
「ま、まさか霊感、とか?」
「うん、そう」
じつにあっさりと、受け容れがたいことを禅は肯定した。
「で、でも俺、幽霊とか生まれてから一度も見たことないんだけど……」
「サクラさんのは浄化する力だからね。力が強いから、悪いモノは迂闊に寄ってこれないし、弱いのは一瞬で弾かれたり消されちゃう。だから本人は気づかないんだよ」
「じゃあ、俺の中にいるのは、そういう力も効かないぐらい強力、ってこと?」
「うん、強いね。強い、っていうか、高い能力、かな?」
ずっと無口だった禅が、口べたながらも櫻李の問いかけにきちんと応えている。茉莉花が最初に、一見誤解されやすいと言った意味が、ようやくわかった気がした。
その茉莉花と斗真はといえば、さっきからずっと、完全に沈黙している。黙ってはいるが、息を詰めてしっかり注目しているのが気配でわかった。おそるおそる鏡に向き合った櫻李だったが、視界を遮られたことと背後から応える落ち着いた禅の声で、次第に乱れていた気持ちが鎮まっていくのが実感できた。
「さっきも言ったけど、悪霊とか、そういうんじゃないから」
「……守護霊?」
「でもない。あ、一応護ってくれてる部分もあるみたいだけど、性質がちょっと違う。サクラさん、目、見えてないよね?」
「あ、うん」
「じゃあね、闇の中に空間を思い描いてみて」
「空間?」
「そう。頭の中、心の中、どっちでもいいけど、そこにぽっかり存在する暗闇をイメージしてみる感じ」
よくわからないながらも、言葉で言われたことを、そのまま思い描いてみる。
「そこにね、だれかいない?」
「え? だれか?」
「うん。女の人。すごく綺麗な」
「ひょっとして、毎晩夢に出てくる……?」
「うううん、その人じゃない。全然違う存在」
言われても、櫻李にはなんのことだかさっぱりわからない。
「具体的にどんな人かイメージしなくても大丈夫。気配を感じるっていうか、存在を認めるっていうか、だいたいそんな感じで大丈夫だから」
そう言われても、やはり櫻李には戸惑いしか感じられなかった。
そもそも、自分の中にだれかいると言われたところで、思いあたることなどなにひとつなかった。それで、なにをどうできるというのか。思った直後に、強い違和感がざらりとした不快な感触となって脳裡を撫でていった。
『うわあっ! なんだおまえっ!! ――って、おまっ、櫻李っ!?』
蓮爾がひさしぶりに帰省した日の晩、酔って自室で寝たはずの自分がしでかしていた無意識の行動。
『ごめん。櫻李のこと大好きだけど、一緒にいると全然太刀打ちできなくて、どんどん惨めになってくの。自信喪失って感じで、すごいつらい。もう無理っ!』
口々に告げられる異口同音の別れの言葉。女としての自信を失っていく。太刀打ちできない。
自覚も認識もまるでないまま、ひょっとして自分にはソッチのケがあるのでは、と己自身に疑惑を向けたことも数知れなかった。
『鬼ザルに妖艶さが増した』
最後の別れ話があって以降、遠巻きにされるようになった理由はそれなのだと斗真が言っていた。そしてあの別れ話の日は、兄の最初の帰省日であり、なにより、習字教室まで菊姫を迎えに出た際、一瞬だけ『なにか』の気配を感じたような気がしたことを、ふと思い出した。
兄の件で強い焦燥をおぼえ、早くなんとかしなければと苛立つ己の感情に、おなじ種類の心配と焦慮をかぶせてきた『なにか』――
違和感の原因と記憶をたどる中で、気のせい、という自己診断により埋もれさせていた事柄が少しずつ掘り起こされる。
まさか……。
「準備できたね」
絶妙のタイミングで禅が声をかけてきた。ビクッと反応したことは、間違いなく掌越しに伝わっただろう。だが禅は、なにごともなかったように落ち着いた声で告げた。
「目隠し、はずすよ」
「え、あの……」
戸惑いと不安がつい声に出てしまう。禅はやはり、今度も聞かないふりで、躊躇うことなく櫻李の両目から手を離した。
覆いがどけられて、閉じている瞼越しに室内の明るさが感じとれるようになる。
「そのままゆっくり目を開けて、鏡を見てみて」
言われるまま、櫻李はやむを得ず目を開けた。正面にある鏡に、視線を据える。
暗闇に馴染んだ目が、像を結ぶまでにしばし時間を要する。が、やがてほどなく、鏡を通して、目に馴染んだ自分の姿をとらえた。
「え、あれ……?」
声をあげたのは、それまでずっと息を詰めるように沈黙していた斗真だった。
「うそ……どういうこと?」
茉莉花もまた、信じられないとでも言いたげに声をひそめる。
なにが起こっているのか、理解できなかった。
正面に見えるのは、鏡越しに映る己の姿。だが、自分でありながら、あきらかに自分ではないものの姿がそこに在った。
白く、ほっそりとした面は、顎から頬にかけてのラインがやわらかく、口許もつややかでふっくらとしている。額から鼻梁にかけてのラインも丸みを帯びており、なにより目つきが、日頃見慣れた自分のそれとはあきらかに異なっていた。
なにもかもを見通すような、それでいてとらえるものすべてを絡めとるような深みのある眼差し。老成していながら悪戯めいた煌めきを宿した瞳には、どこまでも堕ちていく憂いと引きずりこまれるような強烈な耀きとが共存していた。
こんな目つきを、自分は知らない。
あそこにいるのは、いったいだれだ。