(2)
あらためて玄関先で菊乃の出迎えを受け、挨拶を交わした斗真たちを、櫻李は自室へと案内した。
連絡を入れた段階で、すでに準備をしてくれていたのだろう。皆が部屋に落ち着くか落ち着かないかのうちにドアがノックされ、お茶の載ったトレイを持つ菊乃が現れた。遠慮して部屋には入らず、応対に立った櫻李にトレイを渡す。そのついでに、コソッと耳打ちをした。
「お夕飯、お座敷に用意するから食べてってもらってね」
『お座敷』というのは、鬼頭塾の門下生が一堂に会して年始の挨拶や大会前後の壮行会、祝勝会などで利用する三間つづきの和室のことである。
「え、いいよ、そんな……」
「いいのいいの、せっかくいらしてくれたんだもん。たいしたもの用意できないけど、ぜひゆっくりしてってもらって」
「あ、ありがとう。ごめん、急に」
「なによぉ、あたし嬉しいんだから。櫻李くんがお友達家に連れてきたのって、はじめてじゃない? 遠慮しないで、普段からもっと、たくさん遊びに来てもらえばいいのに」
「俺、いっぱい呼べるほど友達いないもん」
家に招くほど親しい付き合いの相手はいない。正直に答えたつもりなのだが、義理の息子なりの冗談と気配りとでも思ったのか、菊乃はフフフと含み笑いを残して下がっていった。
「櫻李ィ、おまえのお母さん、超若くねえ? おまえ、いくつのときの子だよ?」
菊乃から受け取ったトレイをローテーブルに置く櫻李に、閉まったドアの向こうを窺いながら斗真が言った。興味津々と言ったところである。
「うるさいんだよ、おまえは。人んちの家庭のこと、あれこれ詮索すんなって。どうでもいい話題だろ」
素っ気なく応える櫻李に、斗真はケチィと口を尖らせた。
「あの人は親父の二番目の奥さん。俺の母親は、小学校上がるまえに他界してる」
「えっ? あ、そうなんだ……」
さすがに決まりが悪そうに斗真は言葉尻を濁した。対照的に、それぞれのまえにティーカップを置く櫻李にお礼を言いながら、茉莉花がニコニコと言った。
「でも、すっごく仲良さそうだねぇ。綺麗だし優しそうだし、素敵な若奥様って感じぃ」
「あ、うん。仲はいいよ。親父と再婚してもう10年以上経つし、血の繋がりとか、あんま気になんないかな」
「へえ、いい関係なんだねぇ。なんかいいな、そういうの」
「そう?」
「うん、素敵だと思う。でもさぁ、会ったときからずっと思ってたんだけど、鬼頭くんて噂と全然イメージ違うんだねぇ」
「噂……」
「なんかぁ、見た目はたしかにみんなが騒ぐだけあってカッコイイんだけど、性格は全然普通だし、チャラくもなくて、女の子に対してギラギラしてるとか、鬼畜な感じも冷たい感じもないもんねぇ。逆に結構地味な感じぃ?」
「あ、でもコイツの百人斬りはホントだから!」
余計なことを付け加える斗真の後ろ頭を、櫻李は無言でひっぱたいた。
「もっとオラオラ系で、『俺ってイケてる』オーラ、ビンビンに出しまくってる人かと思ってたぁ」
「俺、そんな自分に酔えるほど、自信たっぷりじゃない」
「わかるぅ。なんか謙虚な感じだよねぇ。クールっていうより控えめって感じだし、義理のお母さんとも仲良くやってて大事にもされてるみたいで、完全にいいとこのお坊ちゃまって感じぃ。まだ知り合ったばっかりだけど、充分紳士的で優しい印象なのに、なんであんな噂流れてるんだろねぇ。半日で別れちゃった相手とかもいるんでしょお?」
さすが女子の情報網は侮れない。知り合いでもない相手の交際事情について、よくそんな細かいことまで把握しているものである。だが、実際そういう相手がいたことも事実なので、尾鰭のついたデマだと否定することもできなかった。
「相手に聞いてみないとわからない。俺、毎回断られる立場だから」
「不思議だねぇ」
本当に不思議そうに茉莉花はしみじみ櫻李を観察して首をかしげている。その様子に、櫻李は苦笑した。教えてもらいたいのは自分のほうである。と、不意に、茉莉花が傍らの禅を顧みた。
「ゼンちゃん、わかる?」
異性どころか、他者に対してまるっきり関心がなさそうな印象なのだが、ついついその反応に注目してしまう。言葉数が極端に少なく表情も乏しいぶん、言動のひとつひとつに重みが感じられた。
そういえば、先程の話のつづきもじっくり聞かせてもらわなければならない。櫻李はあらためて居ずまいを正した。
「あの、俺のことはともかく、さっきのつづき――」
「たぶん、全部繋がってる」
鈴原禅は、ポツリ、と意外なことを口にした。
「……え?」
「梅と桜、それからお兄さん」
梅と桜、そして蓮爾。
頭の中で反芻して、櫻李は眉間に皺を寄せた。茉莉花と斗真も雑談モードを切り替えて、真剣な顔で身を乗り出してくる。櫻李は少し間を置いてから、もう一度「え?」と口にした。
「梅と兄貴はともかくとして、桜……って?」
すると、禅の右腕がスッと上がる。軽く握った手の中で、人差し指だけがまっすぐに伸び、その指先が迷うことなく櫻李をさした。
「桜――え? 俺!?」
驚きの声をあげる櫻李をじっと見て、禅は静かに口を開いた。
「サクラさんの力が、強すぎたんだと思う」
『サクラさん』――それが自分に向けられた呼称だと理解するまでに、数秒かかった。さらに呼称以外の部分については、まるっきり理解できなかった。
「力……サクラって、なに? え、俺? 俺になんか、原因が、ある?」
「うん。自覚、ない?」
「自覚、って?」
「たぶん、力が強すぎるのに、不完全だからこうなっちゃったんだと思う」
淡々とした語調と無表情は変わらない。至極真面目な顔で理解不能な言葉を無機質に積み重ねていく。そのさまに、櫻李は気圧された。
「ごめん。あの、言ってる意味が、全然わからない」
「あ、うん。だと思う。待って。いま手助けするから、『本人』に説明してもらうのがいちばん手っ取り早くてたしかだと思う。わたしも、まだ概要しかわかってないから」
「え、なに? 本人? だれ?」
「えっとね、つまり、サクラさんの中にいる人」
言われて、櫻李は驚愕した。
「えっ!? ちょっ、待っ……! 中って、だってそれ、兄貴のことじゃっ」
「うううん、正確には違うよ。お兄さんはただ引き寄せてるだけだから。本当にいるのは、サクラさんのほうだよ」
「えっ、俺、あの男に取り憑かれてんのっ!? 関係ありそうな夢はたしかに見たけど、男のほうとはずっと無関係だったし、声も聞いたおぼえがないんだけど」
「違うよ。お兄さんのところにいるのは男の人だけど、サクラさんの中にいるのは女の人だから」
「はっ!?」
こうなってくると、もはや完全に意味不明である。いつのまにか指さしていた手を、今度は翳すようにして膝を進め、禅は距離を詰めてくる。その禅から、櫻李は腰が引けた状態でわずかに後退った。
ただたんに口が重く、言葉足らずなだけで、焦らしているのでもからかっているのでもないらしい。禅は真剣に櫻李の質問に答えているのだが、いかんせん、かなりの説明量が不足している。そのため、聞く側の理解が追いつかず、埒が明かなかった。
「サクラさん、あそこの鏡、借りてもいい?」
唐突に禅が指し示したのは、部屋の一角にあるクローゼットだった。扉の一枚が、まるまる姿見になっている。
「あ、ど、どうぞ」
「じゃあ、鏡見て」
「俺!?」
「うん、そう。そこでただ、鏡のほう向くだけで大丈夫」
正直言って、こういう会話の流れで鏡を見るのは相当な勇気が要った。櫻李自身、怪奇現象や心霊などというものは殆ど信じていなかったが、それでもここしばらくの状況と鈴原禅のどこまでも恬淡とした態度で語られる言葉に、余計な想像力が働いてしまう。
決して強い口調でも命令でもなかったが、逆らうことが許されない流れの中で、櫻李は結局、自分の中の勇気を総動員して、言われるままクローゼットの姿見に映る己と向き合った。
その背後に、場所を移動した禅が膝立ちになる。そして、
「ちょっと触るね」
背後から伸びてきた手が、櫻李の両目を覆った。