(3)
「お~りちゃ~ん、おまえマジで大丈夫かよ~」
2限の講義のあと、構内のカフェテリアで軽い昼食を摂っていた櫻李の許にやってきたのは御劔斗真である。
斗真は自分のランチプレートをテーブルに置くと、あたりまえのような顔で許可もなく櫻李の目の前に座った。
「大丈夫ってなにが?」
「だっておまえ、相変わらずフリーのままじゃん? その後、お次のカノジョちゃん候補とかはひとりも現れないわけ?」
興味津々で訊かれて、櫻李はなんだと肩を竦めた。
正直いまはそれどころではないので、すっかり忘れていた。というより、余計な気を遣う相手がいなくてよかったとすら思う。
「こないだ別れたばっかなんだから、そんなすぐにできるわけないだろ」
「そりゃ、普通の感覚でいけばの話だろ。ヘタすりゃ別れた3分後には次の相手がいるおまえに、その『普通』があてはまるわけねえだろが。非常識の塊め」
俺は即席麺か。
内心で毒づいたものの、それ自体は口にすることなく憮然と応じた。
「いままでが異常だったんだよ。これで俺もようやく普通に戻れたんだからいいだろ」
答えながら、櫻李は皿に盛りつけられたフライドポテトを勝手につまんでいく悪友の手をピシャリと叩いた。だが、相手も慣れたもので、かなり本気で叩いたにもかかわらず、まったく動じる気配もない。そのままあっさり強奪して、手にしたポテトを自分の口へと放りこんだ。
「いや~、でもお兄さんは心配だなぁ。大親友の櫻李くんがこのまま寂しい大学生活を送ることになるんじゃないかと思うと、夜も眠れないくらいよ」
斗真はどこまでも茶化す気満々でいる。だが、現実問題として夜も眠れない状態にある櫻李にしてみれば、到底笑い飛ばす気にもなれなかった。
「相変わらずどころか、ここに来てますます色気が増してきたって、もっぱらの噂だぜ、おまえ。憂い顔で翳しょっちゃって。マジで恋煩いしちゃってんじゃねえの?」
「それはない」
「とか言っちゃって、モテ男のプライドにかけて、自分のほうが本気になっちゃったとか認めたくないだけなんじゃねえ?」
「それもない。ってか、まず相手がいない」
これまで、その『相手』をとっかえひっかえにしてきた人間の言葉がこれでは、聞く側によっては最大の嫌味にとられること間違いなかった。
しかし、さすが敵も然るもの、『大親友』を自称するだけのことはある。斗真にとって、この程度のことなどポテトを盗み食いするほどにも感じなかったと見える。まともに取り合うこともなく、余裕の表情でへらへらと笑っていた。
「まあ、そう言わず。相談なら乗るからさ、よかったら言ってみんさい。この頼れる男、御劔斗真大先生に」
偉そうに胸をそびやかしてドンと叩く。そして、本日の日替わりランチである唐揚げ定食に手を伸ばした。
食欲がイマイチ湧かない櫻李の目の前で、斗真は大きな口の中に唐揚げひとつをまるごと放りこむ。流れる動作で、丼から掬い上げた大盛りの白米も頬張った。
旺盛な食欲を見せる悪友の顔を見ながら、櫻李は食べかけのベーコンチーズバーガーを皿に戻した。かわりにアイスラテで喉を潤す。それから、頃合いを見計らってゆっくりと口を開いた。
「斗真、おまえさ、顔ひろかったよな?」
「ん? ああ、まあな。それなりに。おまえと違って男女比率でいくと、断然男のほうが多いけど。一応女子もいるにはいるぜ? おまえの眼鏡にかなうかどうかまではわからんけど」
「いや、べつに男でも女でもどっちでもいいんだ。おまえのチョクの知り合いじゃなくてもいい」
言った途端に、なにを勘違いしたのか、斗真は飲みかけた味噌汁を噴き出しそうになって派手に咳きこんだ。
「落ち着け、バカ」
「えっ、だって、おま……っ! チョクじゃなくてもいいはともかく、どっちでもいいって! まさかとうとう……」
「だから話を全部そっち方向に持っていこうとするなっ! 俺が言いたいのはそういう内容じゃない」
「じゃ、どういう……」
派手に咳きこんだせいで涙目になったウルウルの眼差しを向けられ、櫻李はその気味の悪さに思わず顔を蹙めた。が、軽く咳払いをして気を取りなおすと、あらためて相手に向きなおった。
口にする内容に強い抵抗があるため、どうしても躊躇いがちの、必要以上にひそめた声になる。
「あの、さ、その……知り合いの中に、見えちゃう奴とか、いる?」
「見えちゃう奴?」
「そう。見えちゃったり、感じちゃったり――って、変な意味じゃなくな!」
わずかに兆した表情の変化を素早く読み取って、櫻李は先手を打って釘を刺した。
「ようするにアレだよ、霊感、みたいな……」
「レイ、カン……?」
櫻李の口から出る言葉としてはあまりに意外だったようで、脳内での漢字変換が追いつかないらしい。手にした割り箸を宙に浮かせたまま、斗真は茫洋とした目つきで呟いた。
「だからつまりその、アレ。夏によくやる、心霊特集とか怪奇現象、みたいな……」
「それって、アレ? 生き霊とか怨霊とか地縛霊とか四谷怪談、みたいな?」
「それ! それそれそれ! まさにそれっ」
なんだかこういう流れになってくると、だれとやりとりしていてもアホっぽくなってしまうのはやむを得ないことなのだろうか。ソレだのアレだの、胡散臭いことこのうえない。だが、持ちかけた当人としては、話の内容に抵抗はあっても真剣そのものだった。
「櫻李、おまえ……」
斗真もようやく理解したらしい。そして、理解した途端に、パーツのひとつひとつが大作りなその顔に、なぜか哀れみの色が浮かんだ。男の声が聞こえる、自分の中にその男が存在していると兄が言った直後に浮かべた自分の表情も、ひょっとしてこんなだったのだろうか。思いつつ、櫻李は小さくかぶりを振った。
「いやたぶん、おまえが頭に思い浮かべた推測は間違ってるから」
きっぱり否定したにもかかわらず、斗真はそれに耳を貸さなかった。
「そうか。とうとうそういうことになっちまったか……。いろいろ大変だったな」
やけに優しい眼差しと口調で言って、斗真は頷いた。
「おい、なにを勝手に想像して納得してる。いま、違うって言ったよな?」
「いや、うん。言わなくても大丈夫だ。わかるよ、ちゃんとわかってる。大丈夫だから」
「だからなにがっ」
「おまえあれだろ、いわゆる水子供よ――」
「違うっ!!」
皆まで言わせず、櫻李は全否定した。
「え? 違った? あれ? あ、そうか、わかった。じゃ、アレだ。別れたオンナたちの中のひとりか、もしくは複数か、ともかくそういう関係にあった相手の生き霊に取り憑かれちゃってるとか、呪いの藁人形使ってお百度参りされちゃってるとか、そういう系の悩みだろ。どうだ、今度は間違いなく当たりだ! だろ?」
櫻李は額から右目にかけて手を当て、俯くと、深々と嘆息した。
「ん? あれ? これも違う系?」
「全っ然違う! だから、そういう方面から離れろって。っていうか、お百度参りってなんだよ。それを言うなら丑の刻参りだろ」
呪いたい相手のためにけなげに祈ってどうする。内心でふたたびつっこむ櫻李を見て、斗真はしょげたような、拗ねたような微妙な顔をした。
「ごめん。俺、おまえと違ってそういう経験ないから、ソッチ方面疎くてさ」
「俺だってねえよっ!」
さすがに声に苛立ちが出てしまう。だが、周囲の注目をいっせいに浴びて、櫻李はあわてて冷静さを取り繕った。
「ともかく、マジでそういうんじゃねえから。困ってるのは俺じゃない」
「え? じゃ、だれ?」
「うちの兄貴」
本当はその繋がりで櫻李自身も非常に困ってはいるのだが、とりあえずそこは、また話が拗れると面倒なので省くことにした。
「で、どうなんだよ。おまえの知り合いとか、その伝手をたどった先で、そういう方面、くわしい奴とかいる?」
「え~っ? って、いきなり言われたってなぁ」
斗真は困惑しきった様子で低く唸った。途中から、完全に食事がストップしてしまっている。
「食べながらでいいし、いますぐでなくてもいい。とりあえず心当たりがないか、探してもらえると助かる」
「あ~、うん。いいけど。――早いほうがいいんだよな?」
「だと、さらに助かる」
真面目な顔で頷いて、櫻李は残りのアイスラテを飲み干した。斗真もふたたび箸を動かしはじめたが、意識は完全に余所に向いている。食べながら、脳内のアドレス帳を開いて検索をかけているのだろう。宙を睨んだまま、ときどきぶつぶつと、咀嚼の合間に口の中でなにかを呟いていた。
自分でもバカげていると思うし、いかがわしいことは重々承知している。だが、ほかにもう、最良といえる手段が思いつかなかった。
実家に戻ると『声』が熄む。白昼夢を見ることもない。それ以外にもうひとつ。櫻李の顔を見るとひどくホッとする。蓮爾はそう言った。それだけではない。菊姫までが、なんだかよくわからない怖さを感じるが、櫻李のそばなら安心だという。
キーワードは『夢』。そして梅の木。
蓮爾は男に憑かれ、櫻李はその男と深い関係があると思われる女の夢を毎夜見る。
夢の中で女はなにかを訴える。自分の中で、それに応えようと足掻く『なにか』を日増しに強く感じるようになっている。
早く、しなければ。
焦燥が募る。
これ以上、蓮爾の日常に支障が出るようなことがあってはならない。飛行中に、もし万一のことがあったら。
考えるだけで冷や汗が噴き出す。
早く。早く。
縋れるものがあるならば、どんなものにでも縋って解決策を見つけ出したかった。1日でも早く。一刻でも早く。1分でも、1秒でも。
その思いに、自分のものではない別の『なにか』が重なるような、奇妙な違和感が生じて、その得体の知れない不気味さが、不快ですらあった。
いったい、自分たちになにが起こりつつあるというのか。
「ヒメ、レン兄ちゃんがしょっちゅう帰ってくるようになって嬉しいか?」
櫻李の部屋で一緒に寝るようになって数日経つと、菊姫から最初の怯えたような、ひどく不安げな様子はきれいに消え去っていた。それでも寝るときは櫻李のそばがいいと、毎夜訪ねてくる。恐怖の原因をどことなく察知しているようなので、様子を見ながらさりげなく訊いてみると、鬼頭家の末っ子は、櫻李の隣に転がりながら満面の笑みで大きく頷いた。
「うん! すっごく嬉しい!」
「レン兄ちゃん見て、なんか気づいたこととかあるか?」
「うん、あるよ!」
「ほんとに? どんなことに気がついた?」
「えっとね……」
「うんうん」
「サクラちゃんもカッコイイけど、レン兄ちゃまもすっごくすっごくカッコイイ! そんでね、こないだの帰り、学校まで迎えに来てくれてね、みんながもうひとりのお兄ちゃんもすっごいイケてるね~って」
「いや、そうじゃなく……」
ガッカリした様子の次兄を見て、菊姫はキョトンとした顔をする。
「サクラちゃんの人気も不動だから大丈夫だよ?」
「いや、だから、そんなのはどうでもいい」
「え?」
うっかり本音を漏らしてしまい、櫻李はあわてて誤魔化した。
「あ、いや、俺がいま訊きたいのはそういう話じゃないから、とりあえずそれは、またあとででいい」
「じゃあ、どんなこと?」
「えーと、そうだな。ヒメ、おまえ、たまに庭に出るだろ?」
「うん、出るよ。錦鯉のイソロクさんたちに、ごはんあげたりするの」
「うん。でな、そういうときに、庭のここら辺が変だな~とか思う場所、あるか?」
「すっごいある!」
「それどこ?」
「あのね、ヒメが育ててるチューリップの花壇の横の石にね、たまにカエルさんがいるの」
「え? 花壇?」
「うん。そこにね、一個だけカエルさんの形した石があるの。でね、遊びに来てる本物のカエルさんが乗ってる石が、いっつもそのカエルさんの形してる石のやつで、そこにカエルさんが来て乗っかってると、親子ガエルみたいになるんだよ! すっごく可愛いの。でも、それ以外の石に乗ってるとこは見たことがないの。カエルさんもちゃんとわかってるのかなぁ」
「いや、だからそーじゃなく……」
思わず頭を抱えそうになった櫻李だったが、別の方面からいろいろ探りを入れてみても、菊姫からはとくにこれといった情報を引き出すことはできなかった。ただ、ひとつ言えるのは、庭に出る際、どうも例の梅の木のあたりだけは避けているらしい、ということである。
『梅の妖精』だったり『中の人』といったように、ときどき妙に鋭い直感力を発揮して思いがけない核心を突いたりする菊姫だが、本人も意識しているのかいないのかはまったく不明である。長兄に対しても、はっきり異変を感じているとか、梅の木に関するなにかが見えている、ということでもないようである。
あまりしつこく追及して、恐怖の原因をはっきりつきとめるようなことになっても可哀想なので、櫻李は早々に余計な詮索をするのを諦めることにした。
最後に、蓮爾や自分のような、なにか妙な夢を見ている、といったことはないかをそれとなく確認してみたが、想像力全開の一大スペクタクルな大冒険に毎晩出ている以外、大変な出来事には遭遇していないようだった。
『まずい。このままじゃエリミネート必至だ……』
蓮爾から悲壮感漂う連絡が入ったのは、憂鬱そうに仕事に戻った直後、昨夜のことである。
エリミネート――ようするに、戦闘機パイロットからはコースアウトになる、と。
パイロットを辞したからといって職そのものを喪うわけではないが、そういう話でもないだろう。もはやこうなってくると、非科学的なものは受けつけないとか信じないとか毛嫌いするとか、そんなことを言っている場合ではなくなっていた。
あらゆる可能性を片っ端から潰していって、原因をつきとめなければ解決策に繋がる手段すら模索のしようもない。
溺れる者は悪友をも掴む。斗真の人脈に縋れるならば、見栄もプライドも悪魔に売り飛ばしてしまえといった心境だった。そして。
『おーい、例の件、見っかった~』
斗真からLINEが入ったのは、相談を持ちかけたわずか30分後。3限の講義がはじまってまもなくのことだった。