(3)
「……はあっ? 幽霊騒ぎっ!?」
あらためて蓮爾の部屋に移動し、詳細の内容について聞かされた櫻李は思わず素っ頓狂な声をあげた。目の前の蓮爾は、自分でもバカバカしいことを言っているという忸怩たる思いがあるようで、気まずそうな顔をしている。それでも小さく頷いた。
「まあ、な……」
櫻李は唖然と兄の顔を見た。
信じられないことに、いま、蓮爾の所属基地では幽霊騒動が巻き起こっているのだという。
目撃情報多数。被害者数それなり。
場所、時間を問わず、着物を着た時代劇の町人風の男がフッと出没しては消えていくのだとか。
突然妙な気配と冷気を感じ、顧みるとそこに、白い影の男がボウッと立っている。目撃者の証言はいずれも共通していることから、おなじ男が基地内のあちこちに出没している、ということのようだった。
「……で? 兄貴も見たわけ?」
「ん~、いや、まあ……」
さらに歯切れが悪くなった兄の様子に、櫻李は「マジかよ……」と独りごちた。超常現象やオカルトなどといったものにいっさい無関心の、超現実主義者である兄から、まさかこんな話を聞かされることになろうとは。というか、否定しないということは、本当に『見た』、とでもいうのだろうか?
「まさかとは思うけど、その幽霊が怖くて休みのたびに逃げ帰ってきてる、とか?」
「バカ言うな! んなわけないだろっ」
これにはさすがの蓮爾も、色をなして櫻李の言葉を言下に撥ね除けた。
「じゃ、なんで」
「あ~、いや、だからその……」
いましがたの勢いもどこへやら、ふたたび及び腰になる。
蓮爾にも兄としての面子があるのだろう。7つも下の弟相手にこんな話をするのは、相当な抵抗があるらしかった。
「俺に話しづらかったら、モモ姉呼んでくる?」
思わず尋ねた櫻李を、蓮爾は「待て待て」と、いささかあわてた様子で引き留めにかかった。
「そんな大袈裟に扱うような話じゃない。っていうか、俺自身、どうにももてあましてて受け止めきれてないんだって」
「できれば全否定したい感じ?」
「できればもなにも、いまだって完全否定したいよ」
「でも、できないんだ?」
容赦なくたたみかけた櫻李を、蓮爾は恨めしそうに見やった。
「おまえ、すげえヤな奴だな」
「ごめん」
一応謝罪を口にしつつも、引き下がる様子のない櫻李を見て、蓮爾は観念したように小さく吐息を漏らした。
「……幽霊話の原因、じつは俺じゃないかと思ってるんだよ」
ポツリ、と打ち明けられた意外な真相。
櫻李は無言で目をしばたたいた。
「目撃者は多数いて、あちこちに出没してはいるけど、標的は俺なんじゃないかって気がしてる」
「兄貴のいるところを狙って出てるとか?」
「いや、違うけど」
「じゃ、なんで?」
「タイミングがかぶるんだ。俺が夢を見はじめた時期と」
「夢?」
蓮爾の話によれば、彼はある時期を境に、おなじ夢を見るようになったという。
その夢の中で、ひとりの男が女を想って泣いている。どうやら女はすでに故人となっていて、男はその女を守れなかった己を悔やみ、悲嘆に暮れ、ただただ幸薄い境遇の中、儚く散っていった相手に対する憐憫の情に涙しているという。
蓮爾も最初は、とくに気にも留めていなかった。だがいつのまにか、それが幾日もつづいているおなじ夢であることに気づくようになった。自分が眠るたびに繰り返されているのだということも。そしてその夢を見ると、なぜか無性に家に帰りたくてたまらなくなる。非番ごとの帰省は、つまりはそういうことであるらしかった。
「で、実際帰ってきたのが、あの豆乳坦々鍋の日?」
「まあ……そうなる、な」
「幽霊騒ぎもそのころから?」
「まさしくその時期だな」
「でも、それだけで、なんで兄貴が原因?」
至極もっともな疑問を口にしたつもりだったが、蓮爾は難しい表情を崩さなかった。
「隊で騒がれてるのは、その夢に出てきてる奴なんだよ」
「いや、だけど、あちこちに出没してるってことは、兄貴以外の人たちの夢にも出てるんじゃないの?」
「俺が夢を見るようになって、少し経ってから騒ぎが起こってる。夢は俺以外のだれも見ていない」
「間違いなく?」
櫻李の念押しに、迷いなく頷いたということは、すでに確認済みなのだろう。
「マジかよ……」
櫻李は再度呟いた。
「で? 兄貴ひとりしか見てないその夢は、そのあとも変わらず見つづけている、と」
「うん、まあ、そうだな……」
「毎晩?」
「おまえたちみたいに規則正しい生活スタイルじゃないから、夜寝るとはかぎらないけどな」
「じゃあ、毎回寝るたびごとにってこと?」
「うん、まあ……あー、いや……」
蓮爾はそこで、さらに気まずそうに口籠もった。
「……なに? まさかとは思うけど、いまの反応、もっと頻繁てこと?」
「あー、いや。だからはじめは普通にそうだったんだけどな」
「はじめは普通に、って……。じゃいまは?」
「いや、だから、えーと……」
兄の目が、追及を逃れるように逸れた。
「レン兄!」
あまりにらしくない、しどろもどろの反応に、櫻李は思わず語気を強めた。
こんな蓮爾はいままで見たことがなかった。優秀でなにごともそつなくこなす兄は、いつでも自信に満ち溢れ、悠然と構えていた。それが、たかだか弟からの質問攻めにあったぐらいのことでこんなにもぐだぐだになろうとは。
いったい、なにがどうしたというのか。
「そんな怖い顔すんなって。俺もイマイチ状況が呑みこめてねえんだって」
「状況って?」
「だから、なんていうか……」
一瞬口籠もった蓮爾は、直後に腹を決めたように背筋を伸ばした。
「ようするにアレだよ。まあ、おまえが言うように、夢自体はたしかに毎回見る。けど、最近はそれだけでもない」
「それだけ?」
「でもない」
櫻李の疑問形を受け継いで、蓮爾は断言した。
「じゃ、どういう……」
「聞こえるんだよ」
「……へ?」
思わず、マヌケな応答になってしまった。だが、兄は笑わなかった。
「言っとくけどな、俺は正気だぞ。ノイローゼでもないし、なにかに思い悩んでるわけでもないからな。いたって正常で、心も病んでないし頭も打ってない。どこもなにも悪くない。そこだけは誤解するなよ」
「う、うん」
兄のあまりの迫力に気を呑まれつつ、櫻李は頷いた。弟のそんな様子を見て、蓮爾は言葉を継いだ。
「終始ってわけでもないんだが、最近、その男の声が頭の中で聞こえるようになったんだ。それでよくよく検討してみて思ったんだが、そいつ、じつは俺の中に棲みついてるんじゃないかと」
「兄貴……」
「だからそんな目で見るんじゃない! 俺は正気だっ!!」
どんな目で見てしまったのかは、正直自分ではよくわからなかったが、兄の声の荒らげかたから察するに、相当哀れみに満ちた眼差しと表情を浮かべてしまったようである。櫻李はあわてて態度を取り繕って、咳払いをした。
「それ、自分の声じゃないよな?――って、違う。誤解はしてない! 念のための確認」
射殺されそうな鋭い眼差しを向けられて、櫻李はさらにあわてて弁明した。その様子から、本当に確認されているだけだと納得した蓮爾が、しぶしぶながらもそれに応じる。
「俺に独り言を言う趣味はないし、声はまったく別人のものだ。骨動音云々を抜きにしても、完全に一致しない。あれはまるっきり、他人の声だ」
「妄想癖、はないよね?」
「ない。空想癖も虚言癖もな」
「声は、ひとりだけ?」
「その男のものだけだ」
「話しかけてくんの? それとも独り言?」
「いまのところ、モノローグっぽい感じだな」
「たとえばどんな?」
「大抵は自分の不甲斐なさを嘆いてる。あとは、女との思い出を懐かしんでるときもあるな」
「それって、兄貴の知ってる女? っていうか、そもそもその男に心当たりは?」
「いや。どっちも全然知らないな。心当たりすらない」
「それがようするに、さっきの最初の俺の質問で答えに詰まってた『中の人』?」
「あー、まあ……」
「最近、曰わくつきのとこにでも行った?」
「曰わくつき?」
「だから、自殺の名所とか、巷で有名な心霊スポット、みたいな」
問答を繰り返していくうちに、櫻李自身、だんだん自分の正気も疑いたくなってきた。だが、話を聞くかぎり、どうも『ソッチ』系の話のような気がしてならなかった。
「結局おまえも『そこ』に行き着くか……」
蓮爾は絶望的な表情を浮かべて頭を抱え、低く呻いた。