(2)
気がつくと、中庭の梅の木のまえにいた。
菊姫に言われたから、というわけではないのだが、大学から帰宅した櫻李は、無意識のうちに庭へと足を運んでいた。
今朝はどうも目覚めが悪かった。明け方に見た夢の感触が、気持ちの中に妙なしこりを残したせいかもしれない。
夢の詳細は、目覚めるとともに意識の底へと沈んで消えた。だが、それでもうっすらと記憶に残るのは、夢の中に現れた人物の、悲しみにも似た深い感情。その想いが、胸の裡を満たしてやりきれなさを募らせた。おかげで、目覚めてからこちら、妙に感傷的で憂鬱な気分に支配され、ぼんやりとした1日を過ごした。それが、気づけば吸い寄せられるようにこの場に立っていた。
なぜ、よりにもよってこの木なのだろう。我に返った櫻李は、首を捻った。
庭には、さまざまな種の木々が植えられている。
松、紅葉、つつじ、百日紅、椿、しだれ桜、桃……。
梅にしたところで、この木以外にも、あと2本ほどあったはずだった。むろん、蓮爾の部屋から見えるのはこの1本のみである。だが、それはあくまで梅に限定された話で、あの窓越しに見える庭木は、この梅以外にも、いくらでもあった。
「その木が、どうかしたか?」
不意に声をかけられて、櫻李はギョッとして振り返った。見ると、くだんの窓越しに、蓮爾が顔を覗かせていた。
「休み?」
咄嗟に喉もとまででかかった『また』、という言葉をかろうじて呑みこみ、櫻李は蓮爾の部屋のまえまで移動した。途端に蓮爾が、クッと低く笑った。
「なに?」
「おまえ、正直すぎ」
「……え?」
「『また帰ってきた』――顔にそう書いてあったぞ」
そんなわけはない。櫻李はすぐさま胸の裡で異議を唱えた。蓮爾の顔を見た瞬間にそう思ったことはたしかだが、その思いは顔には出さなかったはずである。ポーカーフェイスには自信があった。だが、蓮爾はそんな弟を見やってニヤリとした。
「一瞬どころか、半瞬にも満たない表情の変化だって見逃すもんか。戦闘機乗りの視力を舐めんなよ」
プロフェッショナルを全面に押し出されて断定されては、太刀打ちできるわけもない。
「べつに迷惑とか、そういうニュアンスで思ったわけじゃないけど……」
「けど、頻繁すぎる、か?」
「そんな毎週帰ってきて、大丈夫なわけ?」
「なにが?」
「仕事。よくわかんないけど、緊急出動、とかさ」
「災害時みたいな状況なら別だが、一応特別職の国家公務員だからな。週休2日は保証されてるし、うちの基地はスクランブルもない」
「ならいいけど。でもやっぱ、なんかあったんじゃないかって、親父たちは心配してる。モモ姉も」
「おまえも?」
「気には、なってる」
口籠もりつつも答えると、蓮爾は窓枠にかけていた両手をはずして上体を起こし、軽く竦めてみせた。
「やれやれ。まさか実家通いを、とうの家族に心配されることになろうとはな」
「極端すぎるからだろ」
いささか非難がましい声で言い返すと、蓮爾はあっさり、「ま、それは認める」と苦笑した。
「で、なんかあんの? マジで」
「ん?」
「だから、悩みとか」
姉に発破をかけられたから、というわけではないのだが、話の流れとしては尋ねるのに絶好のタイミングだった。むろん、蓮爾がそれに正直に答えるかどうかは別の話ではあるが。
案の定、蓮爾はおもしろがるような顔つきで、今度は窓枠に両肘を凭せかけて櫻李の顔を間近に覗きこんできた。
「ひょっとして櫻李くんは、お兄ちゃんが仕事でなにか問題を起こしたんじゃないか、カッコ良すぎるのが原因で職場でイジメにでも遭ってるんじゃないか、はたまたモテすぎることが仇となって女性関係のトラブルに巻きこまれてるんじゃないか、なんて心配してくれてるのかな?」
あきらかにまともに応じる気がなさそうな、からかい口調である。7歳下の自分が完全に子供扱いされていることは櫻李も承知していたが、さすがにこれにはムッとした。だが、今度の切り返しも、やはり兄のほうがあざやかだった。
「なんてな。心配かけてるほうがこういう態度はよくないよなぁ?」
人を食ったようなからかい口調を穏やかなものに変えて、蓮爾は笑んだ。その笑いかたが、少し困惑しているように見えた。
「だけど正直、答えようがないってのがホントのところ」
「兄貴?」
「いや、べつに深刻な悩みとか問題を隠してるってわけじゃないんだよ、実際。仕事も順調だし人間関係もなんら問題なし。これまでどおりであることに変わりはないんだけど、なんか休みになると帰ってきちまうんだよなぁ、これが」
なんでだと思う?
逆に訊かれて、今度は櫻李のほうが困惑した。そこでふと思い起こされたのが妹の言葉。
「兄貴、菊姫になんか言った?」
「なんか、って?」
「いやだから、梅の木がどうとか、みたいな」
「梅の木?」
「『中の人』って、だれ?」
「……は?」
支離滅裂なやりとりになってしまった。
自分でも意味がわからないまま口にしているのだから、つっこまれればなおわからない。さすがにメチャクチャすぎると櫻李はかぶりを振った。
「ごめん、いまのなし」
「俺、おまえにこそなんか言ったっけ?」
取り消しの言葉が言い終わらないうちに訊き返されて、櫻李はそのまま言葉を失った。
愕然とするその顔を、今度こそ本気で困った表情を浮かべて蓮爾が見返す。
――え、なに?
櫻李は、そんな兄の様子に動揺をおぼえた。
いまのはいったい、どういうことだろう。まさかとは思うが、自分が口にした内容の中に、兄の中で心当たりのあることがあったということだろうか。
「え、梅? 中の……人?」
訊きかたが、ついおそるおそるになってしまう。蓮爾はますます困りきったように笑みを深くした。
答えない、ということは、両方、ということになるだろうか。やはり。
「……あの、俺はなんにも聞いてないんだけど、ヒメが、さ」
「なんでわかっちゃったんだろうなあ」
当惑しきりの様子で自分の頬を右の人差し指でひと掻きした蓮爾は、ポツリ、と呟いた。