(3)
そしてさらに、身近に起こった異変がもうひとつ。
兄の蓮爾があれ以降、かなりの頻度で、それこそ休暇のたびに帰省するようになったのである。
はじめのうちこそ喜んでいた父や菊乃たちも、さすがにこうたびたびともなると訝るようになった。しまいには、本気でなにかあったのではと心配しだす始末である。
様子を見るかぎり、本人はいたって普通。悩みがあるようでもないし、問題を抱えているようにも見えない。仕事に関してもいままでどおり順調で、人間関係でなにかしらトラブルを抱えているといったわけでもないようだった。
にもかかわらず。
どういったわけか非番のたびに帰省して、とくになにをしている、というわけでもなく、とにかくダラダラ過ごして帰っていく。
地元に関連するだれかと会うでもなければ、実家でなにかしらの用事を済ませるわけでもない。家にいるあいだ中、家族のだれかしらを相手に他愛ない話に興じ、一緒に食卓を囲んで気儘な時間を過ごしては、ふたたび自分のマンションに帰っていく。その繰り返し。
実家住まいだったころから、もともとがインドアとはほど遠い、これでもかと言わんばかりに外出しまくっていた活動的なタイプである。それゆえ、違和感は増すばかりだった。
「ねえ、蓮爾のヤツ、やっぱりなんかあったんじゃないの?」
ついにたまりかねて不審の声をあげたのは、姉の桃花だった。そして、その鉾先を向けられた相手はといえば、蓮爾本人ではなく、あろうことか櫻李だった。
締めあげてくれると言わんばかりのド迫力で回答を迫られたところで、なにも聞いていないのは櫻李もおなじである。当然、答えられるわけもない。おおいに困惑して視線を彷徨わせた。まるで自分が問題を起こしている張本人であるかのように眼光鋭く尋問口調で詰め寄るのはやめていただきたいところだった。ただでさえ怖いんだから、というのは、桃花本人には口が裂けても言えない本音である。
「いや、えーと、俺じゃなくてさ、兄貴がいるときに直接本人に訊いてみれば?」
言った途端に光速の勢いで側頭部をひっぱたかれた。
「たわけ! 訊いたところで埒が明かないからあんたに訊いてんだろが。男同士なんだから、チラッとでもなんか聞いてないわけ?」
「モモ姉に言わないことを俺に言うわけないじゃん。俺、兄貴から見たら完全ガキ扱いだもん。愚痴る対象にすら見られてないって」
「ああ、もうっ。不甲斐ない!」
じれったそうに歯噛みする姉をまえに、櫻李はすみませんと縮こまった。
男同士のよしみで聞き出せるのではと姉は踏んだようだが、仮に兄が身内のだれかに相談するとすれば、間違いなく姉を選ぶだろう。生物学上の性別云々以前に、はっきり言って――これもやはり、実際には口が裂けても言えないことだが――鬼頭家の兄弟中で、もっとも漢らしい存在なのだ。腕っ節はもちろんのこと、精神面での強靱さにおいても兄弟随一であることは間違いない。なにより、年が近い。その姉にさえ言わないことを、7つも年が離れて、いまだ子供扱いしている櫻李に打ち明けるとはとても思えなかった。
とはいえ、櫻李自身としても非常に気になるところ――
これまでにもマメに帰省していたならともかく、年に数回もあればまだいいほう、へたをすると半年近くも音沙汰なし、などということも珍しくなかった人間が、突然毎週帰ってくるようになる、というのは違和感ありありである。
姉の疑問に答えられるならば答えたかったし、櫻李自身、もやもやとした気分をすっきりさせたいところでもあった。
ここはやはり、軽くあしらわれることを覚悟のうえで、次に帰省したときにでも直接本人に尋ねてみるべきなのか……。
「サクラちゃん、なにしてんの?」
突然背後からかけられた無邪気な声に、櫻李はギクリとして振り返った。見ると、戸口に菊姫が立っている。小首をかしげ、いかにも興味津々といった様子だった。
「ここ、レン兄ちゃまのお部屋だよ?」
「あ~、いや、うん。ちょっとな」
曖昧な返答で口を濁す兄に、菊姫はさらにかしげた首の角度を深くした。
なにか、手がかりになるようなものでもあるのではと、不在中の兄の部屋に入ってみたはいいが、実家を出てすでに10年以上。これといってめぼしいものがあるわけでなく、簡単な着替えや学生時代に聴いていたCD、学用品の名残といったものが目につく程度で、これといった手がかりはなにも見つからなかった。さて、どうしたものかと考えこんでいたところを妹に見つかり、なにやら家主に見つかったこそ泥のような気まずさを味わった。
クリクリとした大きな瞳が不思議そうに瞬いている。
「いや、えーと、ちょっと探し物を――」
「レン兄ちゃまなら、大丈夫だよ?」
いたたまれず、言い訳じみた言葉を口にしようとした櫻李を無視して、利発な妹はきっぱりと断言した。
「……え?」
「あのね、レン兄ちゃまが帰ってくるのは、『中の人』のせいなの」
「中の、人……?」
「レン兄ちゃまの中にいる人がね、ウメの妖精さんに会いたいんだって。だからレン兄ちゃまは、その人のためにお休みになると帰ってくるんだよ?」
――なんだ?
櫻李はまじまじと妹の顔を見返した。
困ったことに、小学4年生の妹の言っていることが欠片も理解できない。中の人? 中の人って、だれ? いったいなんだ? ウメ……埋め? 生め? いや、ひょっとして梅干しとか樹木とかの梅のことか? だけどヨウセイさん? ヨウセイ……妖精って、アレか? いわゆるファンタジーの世界にのみ存在している、ちっちゃくて羽がついてて、ふわふわ飛んでるやつのこと?――なのだろうか……?
櫻李はその場に固まったまま、混乱する頭の中でめまぐるしく思考を稼働させた。その兄をじっと見ていた菊姫が、つと視線を移動させる。つられてその視線を追った櫻李の目に、兄の部屋の窓から見える中庭が映った。純和風の門構え、母屋、道場の造りに相応しい、和風庭園の一部。そこに、梅の木が枝葉をひろげていた。
ウメ……梅の木……え? あれ? もしかして、あれ、のこと?
櫻李が目を奪われているあいだに、菊姫はクルリと身を翻した。
「あ、おい! ヒメ!」
呼ばれて、立ち去りかけていた妹は足を止め、「ん?」と振り返る。
「妖精って、なに? っていうか、『中の人』って?」
尋ねた途端、菊姫は黒目がちの瞳をパチパチとさせて口唇をすぼめた。
「わかんない」
「えっ?」
「なんのことだか、ヒメにも全然わかんない」
あっさり疑問を丸投げにして、無邪気な妹は軽やかな足取りで廊下の向こうに消えていった。取り残された櫻李は、ひとりその場で茫然と立ち竦む。
な、なんなんだ、いったい……。
頭を抱えこみたくなるのを我慢して、もう一度、窓の外に目を向ける。そこにあるのは、まぎれもない、子供のころから見慣れているただの庭木。
中の人、妖精。
意味不明どころか、まったくもって理解不能のキーワードだが、とりあえず、兄の蓮爾が頻繁に帰省する理由はあの木に関係している、と?
考えたところで、そんなバカなと理性が即座に否定した。
庭木を眺めるためだけに片道2時間もかけて実家に通いつめるなど、あり得るわけがなかった。ましてや風流風雅などとは無縁のあの兄である。だいたいにして自分にとっても馴染みがあるとおり、あの木は櫻李が物心がつく以前からすでにあの場所に植えられていた。姉はもちろんのこと、兄の蓮爾にだって充分馴染み深いわけで、いまさらそれを、あらためて眺めるために帰ってくるなど到底考えられなかった。それも、一度や二度の話ではないのだ。いや、それ以前に――
櫻李はふと我に返って苦笑した。
バカげているにもほどがある。子供の言ったことを真に受けてどうするのだ。なんのことだかわからない。菊姫自身が言ったとおり、理由はわからないが、ふと思いついたことを口にしただけなのだろう。子供の妄想力というのはなかなかに侮れない。きっと、夢に見たか、たまたま読んだ物語の内容と現実を混同しただけに違いなかった。
ようやく得心がいって、櫻李はやれやれと嘆息した。
兄は、次の休暇も帰ってくるのだろうか。
意味もなく室内を見まわした櫻李は、無意識のうちにもう一度中庭を見やって兄の部屋をあとにした。