プロローグ
所詮この世は儚き泡沫
酸いも甘いも ひと夜で消える
どうせ散りゆく夢ならば
一世一代 おなごの気概
大輪の花を咲かせんしょう――
ふと、人の気配を感じて目が覚めた。
深夜零時をまわり、仮眠室で短い休憩に入ってから、さほどの時間は経過していない時刻だった。
いまの職務に就いてすでに7年。夜勤も当直も、すっかり身に馴染んでいた。ごく普通に業務をこなし、緊急時の場合を除けば、頃合いを見て仮眠休憩を取るのもいつものこと。
自室同様に馴染んだ仮眠室で、けれども彼は、不意に言いようのない違和感をおぼえて浅い眠りから覚醒した。
暗闇の中、ベッドから身を起こして室内の気配をじっと窺う。
「……だれか、いるのか?」
あたりを支配する沈黙がたまらず、様子を窺うようにヒソリと誰何した。
おなじく当直勤務にあたっている同僚がそれぞれに仮眠を取っているのだから、室内に他人の気配があるのは当然である。複数配されたベッドのあちこちで寝息や歯ぎしり、イビキなどが聞こえていた。だが、彼が感じた違和感は、それらとはまったく異質のものだった。
彼はゆっくりとベッドから起き上がり、周囲を憚りながら狭い通路をそろそろと進んだ。
闇に順応した目が、少しずつあたりの様子をとらえていく。
カタンッ。
ひとつのベッドのまえを通りすぎようとしたとき、不意になにかが小さな音を立てた。予期せぬその物音に、彼は思わず飛び上がりそうになった。
見ると、同僚のひとりがムニャムニャと言葉にならない寝言を口の中で呟きながら寝返りを打ったところだった。その手が、枕もとに置いてあったスマートフォンに当たってヘッド部分に投げ出されていた。ホッと息をついた彼は、室内に異変がないかを静かに見てまわる。そしてほどなく、どこにも異常がないことを確認して自分のベッドに戻った。
どうやら寝るまえに聞いた話が、思っていた以上に強い印象を残していたらしい。
『なあ、知ってるか? 最近うちの庁舎、出るんだってよ』
上の人間が席をはずしているあいだに、チラリと同期の副島が漏らした言葉だった。
「はあ? なにを言ってるんだ、おまえ」と一笑に付そうとしたところで、後輩の水戸田が、「それ、自分も聞きました」とすかさず食いついてきた。
ふたりの話によれば、ここひと月ほどのあいだに、複数の目撃証言が出ているのだという。『何』の目撃情報かは、言わずとしれたこと。演習中。デスクワーク中。休憩中。勤務明け時。場所は営舎、庁舎、演習場を問わず、時間帯も決まっていない。だれもが、ふと異質な気配を感じ、不思議に思ってそちらを顧みると『それ』はいるのだという。
陽炎のように透けて白く浮き上がる、着物姿の男――
男はひとり悲しげに、恨めしそうに、ただじっとその場に佇んでいる。そして、目撃者が声もなく固まっているあいだに、スゥッと音もなく消えていくのだとか。
バカバカしい。怪談で盛り上がるには、まだ時期が早いだろう。
軽く笑い飛ばした彼に、ふたりは思いのほか深刻な表情で言った。ただの与太話とはじめは皆、取り合わずにいたところ、いつのまにか少しずつ噂はひろまり、ついには佐官クラスの幹部の中にまで目撃者が現れたのだという。
まさかと鼻先で軽くあしらおうとしたが、その幹部の名前を聞いた途端、彼は顔を引き攣らせた。天地がひっくり返っても、こんな話題にのぼるような人物ではなかったからである。
「気の迷いだから本当はなにも見ていない。そう言い張ってるらしくて箝口令が敷かれてるみたいなんだけどな。人の口に戸は立てられないってな」
「自分、霊感とか全然ないんですけど、それでも化けて出られちゃうんですかね?」
ガタイも容貌もごつい水戸田が、岩石のような顔を不安げに曇らせる。バカを言うなと一喝したところで離席していた班長が戻ったため、その話はそこでうやむやになった。
あんなくだらない噂話程度で過敏になるなど、あまりにらしくない。
ベッドに戻った彼は、思いのほか俺も繊細じゃないかと人知れず苦笑を漏らした。寝入りしなにうっかり缶コーヒーを口にしてしまったのがいけなかった。そのせいで、神経が昂ぶっていたのだろう。やれやれと嘆息して、彼はもう一度横になった。
一度目が冴えてしまうと寝なおすのが難しい。
目を閉じて、できるだけ早く眠りにつこうと頭の中から雑念を追い払った。その耳に、寝息やイビキの音が必要以上に大きく響いた。
あ~、もしかして今夜はこのまま、寝るのは無理かな……。
彼は心中でぼやく。余計な噂話などに耳を貸すものではない。これからは夜間のコーヒーも控えよう。思ったところで、ふと、聴覚がかすかな音をとらえた。
寝息やイビキ、寝言とは異なる音域のなにか。
澄ました耳に、ふたたび音は届く。
【――…は……す…ぇ………】
――ウソだろ……。
音の識別処理を脳が終えた瞬間、彼は目を閉じたまま顔を引き攣らせた。
無意識のうちに硬張らせた身体の表面を、なんともいえない不気味な冷気がヒヤリと撫でた。
布団をかぶっているのに、なぜ……。
全身に、鳥肌が立った。
【――の…は……――して……れ…………】
さっきより、確実に近い場所で『それ』は聞こえた。
ダメだ。このまま気づかなかったふりで眠るんだ。短時間のうちにパッと集中して寝てしまえば、なにごともなくまた仕事に戻れる。
そんな彼を嘲笑うかのように、ギュッと目を閉じた眉間のあたりに、さらに冷たい空気がフッとかけられた。
信じたくはないが、だれかが、いる。確実に。目の前に。
脇の下や掌から、冷たい汗が一気に噴き出した。
バカバカしい。目を覚ませ。俺はただ、寝ぼけているだけなんだ。
彼は己に言い聞かせた。
そうだ、そうに違いない。妙な気配で目が覚めたところからが夢だったのだ。ならばこのままもう一度、深く眠ってしまえばいい。ぐっすり寝てしまえ。いや違う、一度ちゃんと目を覚ましておくべきだ。半覚醒の状態が、こんな妙な錯覚を引き起こさせているに違いないのだ。ならば眠るか起きるか、ともかく半端な状態を抜け出してしまえばいい。それですべてのカタがつく。
結論が出ぬまま、彼は無意識のうちに目を開けていた。
薄闇の中、眼前に迫ったのはぼんやりとした白い塊。
時代劇の町人風の男が、無表情にじっとこちらを見下ろしていた。
間近に迫る両眼に焦点が合った瞬間、彼は喘ぐように口を開閉させた。
蒼白い顔の中に、底なしの絶望を映した虚のような瞳がふたつ、黒々と鎮座している。
その眼が彼を見据えたまま、ゆっくりと瞬きをした。
数瞬の後、池畑三等空曹の口から、ぬばたまの闇を裂く絶叫が搾り出された―――