コップいっぱいの水
朝。
卵がジュージューと焼ける音で目覚めた。ふらつく足でキッチンをのぞくとノースリーブの白いブラウスに紺のロングスカートという地味な服装でかなえがベーコンエッグを作っていた。
「おはよう今朝は早いね日曜日なのに」
「いい匂いがしたからお腹空いて起きちゃった」
「あと少しでできるから新聞でも読みながらもうちょっと待ってて」
彼女とは大学時代に知り合ってもう五年の付き合いになる。よく気がきくし、それでいてしっかり自分を持ってる。一緒にいて飽きることはなかった。
「もうまた新聞読みながら食べてる」
トーストを食べる手が止まる。いつもの光景だ。
「読みながら食べるのやめてっていつも言ってるよね。さっき読めば良かったのに」
「ハハ、もう癖になってるから治らないよ」
僕は再びトーストをつかみ新聞に目を通した。
相変わらず政治家の汚職や芸能人のスキャンダルが世間を賑わしている。くだらないと次の面にいこうとしたとき小さな記事が目に入った。連続放火魔逮捕と書かれた記事をみて僕は声をもらした。
「どうしたの」
かなえが不思議そうにこっちを見た。
「いや。ここに書いてある放火の犯人ちょっと知り合いで」
どれどれとかなえは僕が指さした記事を読み始めた。
「大学時代の知り合いでよく一緒に遊んだりしたんだ。女好きでだらしないやつだったけど真は太くて嫌いじゃなかった」
「あなたに友達なんていたの
そっちの方が驚きなんだけど」
そこかよ。真顔でそう言われると返す言葉もなくニヤニヤと苦笑するしかなかった。
「でも少し怖いね。友達が犯罪者って。」
「そうかな。あいつはけっこうイケメンでもてたから羨ましかったんだけどね」
「なにそれ」
「いわゆるちょい悪というやつさ男ってのはちょっとひねくれてた方がモテると言ってたの思い出したよ」
「確かにゆうさくよりモテただろうね。あなたは真っ直ぐすぎるから。でもそういうところが好きよ」
かなえはそういうと食器を片付け始めた。キッチンに立つ後ろ姿がどこかいとおしく見えた。
僕が浅沼康平と出会ったのは大学二年になってすぐのことだった。経営学の講義で一番前の席に一人で座っていた彼を見てなんとなくだが声をかけたくなった。
僕たちはすぐに打ち解けていつも一緒に行動する仲になった。
お互いに地方出身だったからかもしれない。こうへいは友達が多く内気な僕とは正反対だったがそのおかげで僕は楽しい学生生活を送っていた
「ゆうさく今度俺の部屋に来ないか」
こうへいと知り合って半年ほどたったある日突然誘われた。
こうへいは男を部屋には絶対に上がらせないやつだったから僕は心底驚いた。
「いいの。俺なんかが入って」
「いいの。いいの。今からでも来いよ明日バイトないんだろう」
こうへいの下宿先は少し古めの普通のアパートで階段の手すりが錆びてること以外は気にならなかった。
こうへいは手招きして僕を部屋に案内してドアをノックした。
女の人の声がしてドアが開いた。
現れた女の人は少しぽっちゃりしていて小さかった目は一重でお世辞にも美人とは言えない
「おかえりなさい」
「ただいま。友達連れてきたからお茶出して」
こうへいの口調は冷たかった。彼女も黙って頷いていた。僕には二人が付き合っているようには見えず主人と召使のように見えた。
「まぁゆっくりしてってよ」
全体的に片付いて嫌な印象はなく僕は腰を下ろした。
「お茶です」
そういうとさっきの女の人が湯呑みを出してくれた。意外にも綺麗な手をしていた。透き通るような白い手だった。
「お茶だけかよ気が利かないなぁ
菓子とかなんかないのかよ」
「ごめんなさい。今持ってくるね」
彼女はそわそわしながら台所に戻ってかしを探し始めた。
「なぁゆうさくはっきり言って俺の彼女ブスだろ」
こうへいはわざと聞こえるように僕にいった。
「お前なんてこと言うんだ。自分の彼女に」
「だって本当のことだろう」
悪びれる様子もなく平然としているこうへいの人格を疑ってしまう。
「でも可愛いとこもあるんだぜ。セックスのときなんかちょっと冷たくして無視すると犬みたいに寄ってきて甘い声を出すんだ。その顔ったらたまんないんだ」
「いい加減にしろ」
僕は少し声を荒げた。
「なんだよ。怒んなって。この前なんかこの部屋にすげ〜美人呼んでさこいつの前でやったんだぜそんときの顔も最高でさお前にも見せたかったよ」
我慢できずに僕は立ち上がった。
これ以上ここに居座ればこうへいを殴ってしまいそうだったからだ。
「もう帰るよ。バイトはないけどテストも近いし」
「そんなこと言うなよ。ほら酒だってあるんだ。な、頼むよ」
「そんな気分じゃない。じゃあな」
僕はそう言い残しこうへいの部屋からでた。すると後ろから足音が聞こえてきて振り返るとこうへいの彼女が立っていた。
「すいませんあの人、口悪くて」
「いえ。あなたが謝ることではないですよ。え〜とそういえばお名前は」
「山下みどりです。」
「みどりさん僕が言うのもおかしな話かもしれませんがあんな男とは別れた方がいい」
みどりさんは少し驚いてクスクスと笑った。
「あれ、なんか変なこと言いました」
僕はキョトンとした顔をしていたのだろう。
「いえ。ゆうさくさんは真っ直ぐな人だなぁと思いまして、あなたこそあの人にはもったいない人です」
「そんなことないですって」
不思議な感覚だったさっきまで気が立ってたはずなのになんだか笑い飛ばしたい気分になっていた。もしかしたらみどりさんには人を和ませる力があるのかもしれない。
「私なら大丈夫です。こうへいくん前に一度君の手は綺麗だって褒めてくれました。それだけでわたしは十分です。それにこうへいくんはあなたのことを本当に信頼しています。そうでなければ部屋にはあげたりしません。だから仲良くしてあげてください。また遊びに来てください。待ってます」
みどりさんは、僕の背中が見えなくなるまで見送ってくれた。明日こうへいにあったら仲直りしようと素直に思えた。
それから僕は頻繁にこうへいの部屋に訪れるようになった。二人の邪魔はしたくないと思い拒んだこともあるが、みどりさんもこうへいもきてほしいと言ってくれたので僕は堂々と遊びに行けた。
今日もいつものように部屋でこうへいと話していると机の上にある一枚の写真が目に入った。よく見るととても綺麗な女性で顔は小さく目はぱっちりとした二重で鼻もすっとしていて腕も細くスレンダーで肌はとても白く透き通るようだった。
「綺麗な人だろ。俺の姉さんなんだ」
「お前にこんな綺麗なお姉さんがいるなんてなあ。今度紹介してくれよ」
こうへいはニヤニヤしながら僕の目を見ていった
「残念ながらそれはできないんだなぁ」
「なんでだよぉ紹介しろよ」
僕はこうへいに飛びかかりくすぐった
「やめてくれ、ははは訳を言うから、はへはあは」
「本当か。喋るのか」
「言うから。ははあは、はなしハハハ」
僕はこうへいを離した。こうへいはまいったまいったという感じで水を口に含んだ。
「紹介できないわけはな。姉さんもうこの世にいないんだ」
「えっ」
「だから死んだんだ八年前に」
静寂が一気に狭い部屋を制圧した。
「ごめん」
こうへいはいきなり笑い出した
「ごめんって、ハハハみんなそう言うんだよなぁもうその反応飽きたわ〜」
「無神経だった。すまん」
「もういいってば謝んなくて、せっかくだからなんで死んだか聞いてくれよ」
こうへいは写真を見ながら話し始めた。
「もともと親が再婚同士でさ、姉さんとは血が繋がってないんだ。姉さんは俺よりひとまわり年上で母さんが病死してからは、俺にとって姉さんが母さん代わりだったんだ。でも姉さんが、十九歳のとき当時付き合ってた男にレイプされて焼かれて死んじゃった。ほらその事件の記事まだとってあるんだぜ。」
こうへいは机の上から当時の記事を取り出して僕に見せてくれた。
「でも姉さんが死んだ時、不思議と涙が出なかったんだ。ただ姉さんが焼かれているときに苦しかったんだろうなとか喉乾いていたんだろうなとか考えると最後にコップ一杯の水を飲ませてあげたかったなって今でも思うんだ。」
僕は胸が痛くなった。その場から逃げたい気分だった。
「なんか悪いなこんな話してビール飲むか」
こうへいは冷蔵庫に向かった。
「こうへい悪いそんな気分じゃない。もう帰るよ」
「そうか。」
いつもは呼び止めるはずなのにやはりこの話は聞いてはいけなかったふれてはいけなかったのだ。
部屋を出て階段を降りるとみどりさんが買い物から帰ってきていた。僕の顔を見てみどりさんは悟ったように会釈した。
「お姉さんのはなしを聞いたんですね」
「はい」
「わたしも最初聞いたときは衝撃でした。だからこうへいくんを放っておけなかったんです。でもわかっていたんです。わたしはただの代用品だって、それにあんなに綺麗なお姉さんには敵わない。このまま一緒にいてもお互い前に進めない。近いうちに彼と別れます。わたしももう疲れました。」
みどりさんとすれ違ったときもうこの人とは二度と会えない気がした。あの日を境にこうへいは大学に顔を出さなくなった。僕もまた気まずくてこうへいの部屋には行きづらくなっていた。
そして次にこうへいと顔を合わせたのは山下みどりさんのお葬式だった。みどりさんはアパートの裏で灯油をかぶり焼身自殺したのだった。あとで知ったことだがこうへいあてに遺書が残されていて、こうへいは読むことなく捨ててしまったという。
久しぶりに会ったこうへいは痩せこけていて髭ものびていた。
僕に気づいたこうへいはニッと笑った
「また火で大切な人を失った。」
そう言い残し彼は姿を消した。僕はその日以来こうへいを見ることはなかった。
「ゆうさくどうしたのさっきからぼけっとして」
不意にかなえが現れて我に返った「いや、なんでもないよ。それより水一杯もらえるかな」
僕はコップ一杯の水をいっきに飲み干した。
「今度の休みに君のご両親に挨拶しに行こうと思う」
「急にどうしたの」
かなえは首を傾げた
「鈍いな。結婚しようって言ってるの」
かなえは頬を膨らませた。
「なんで今プロポーズするかな。普通サプライズとか考えるでしょ。」
僕はハッとした。
「そうなの。ごめん」
「本当に不器用なんだから。だけどありがとう。」
今日はたくさん時間が残ってる
午前中は彼女の長い買い物を久しぶりに文句を言わずに付き合えそうだ。
おわり