名もなき英雄達の歌
私は久しぶりに酒場へと足を運んでいた。
妻に先立たれて久しいが、ここに来るのは一体何年振りだろうか?
「ちっとも顔見せねえからくたばちまったのかと思ってたぜ、魔術師の」
「草臥れた顔はお互い様だろう、迎えがいつ来てもおかしくないのもお互い様だ」
濁声店主との軽い言葉の応酬も懐かしい。
「ちげえねえ、孫に囲まれて逝くのが夢だったがその孫にも恵まれたし言うこたあねえや」
うるさい店主の声と賑やかな客たちの喧騒。
ことり、と前に置かれたいつも通りの強くはない酒。
そして懐かしい歌が聞こえる。
「あの歌は流行っているのか?」
「ん? 知らなかったか? 結構前からじわじわと広まってきてるぜ。名前こそ歌に出なくても、描かれる人の苦悩やら嘆きやらに共感を覚える奴が多いって話だ」
「最近こういう所に来てなかったからな、妻以外の歌声で初めて聞いたさ。……そうか、ちゃんと誰かの心に届いてるんだな」
二人の間にわずかな時間、静寂が訪れる。
呆れたように店主が頭を掻き、声をひそめて言った。
「本当にいいのか? 作者不詳のままでよ」
「いいんだ、これで」
少し幼く甘ったるい、私の知らない声で紡がれていく名もなき英雄達の歌。
杯から響く、きん、と真新しい氷の割れる小さく澄んだ音。
魔術師の脳裏に、若かった頃の記憶が溢れていく。妻となる女と初めて出会った時の思い出が。
あの頃は私もまだ若かったのだ―――
依頼を終えた魔術師は酒場の扉をくぐり、店内へと足を踏み入れた。
それなりの金を受け取ってはいるが、魔術師の報酬としては破格とは言えないまでもそう高くはない。
それに事前の話より危険の度合いが高かったため、切り札の「力ある宝石」も幾つか吐き出している。
正直言えば少々懐が寒かった。追加報酬を貰えばよかったものを、微妙な所で見栄を張るものじゃない。
潮の香りがわずかに混じる石造りの店内は、思っていたより静かだ。
それもそのはず、酔っ払いのがなり声の代わりに、伝承を歌う柔らかい声が店を満たしていた。
内容は多少の差こそあれ、大抵の人間は子供の頃から聞かされたことがあるようなものだ。
ずいぶんと昔の、竜騎士を擁していた頃のある王国の物語。
――通称、竜と王の千年盟約。
実際には千年も持たなかったが、相当長く蜜月は続き、その間ずっと王国は強国だった。
港の荒くれ男たちがあまり騒がず耳を傾けているようだ。
なんとはなしに、この空気を壊すのもためらわれ、扉の脇に背を預けて歌い手を眺める。
二十歳はいくらか過ぎているだろうか、落ち着いた雰囲気の中にもどこか華のある、髪の長い女性だった。
手持ちの竪琴を大きく掻き鳴らし、物語が佳境に入っていく。
声の質が変わり、凛と張りのある弾むような声。
王がついに竜と対峙する場面に入った。
千年盟約の内容は明かされず、伝承や歌い手によってまちまちだが、誰が歌っても一番盛り上がる所だ。
ほう、と声が出た。
竜と王のやり取りを声を変えつつ歌い上げていく。
その内容もまるで聞いてきたかのような説得力で、たいして学のない自分が聞いても酔っ払いに聞かせるには惜しく思えるほど。
面白い。
彼女の今日の仕事が終わったら、後で話でも聞かせて貰うか。
そう思いながら、酒場の店主に声を掛けた。
「あんまり強くない酒を一つ。お任せで」
見ねえ顔だな。仕事か? と、じろりと魔術師を見て酒を選び出す店主。
人相も愛想も悪いな。
「依頼仕事だよ。さっき終わった所だ。……そういやさっき歌ってた女性、いい腕だな。荒くれどもが黙って聞いてるなんて」
「おうよ、俺の目に狂いはねえ」
それは知らないがあの女性のことになると嬉しそうだな、おい。
「すこし彼女に聞いてみたい事があるんだが、繋ぎを付けてもらえるか?」
酒代と合わせて心付けを手渡す。こういうのは大事な所だ、惜しまない。
「あ!? おめえもあの子の美貌にやられた口か? 求愛の仲介はやってねえから帰れ」
ずいぶんな言われようだ。心付けが仕事をしてないじゃないか。
しかしまあ、あの美人では仕方ないかもしれない。
「違う、美人だとは思うがそういうつもりはない。俺は魔術師でな、歌の内容で聞きたいことがあるだけだ」
先ほども思ったが盟約のくだりは素晴らしいものだった。その成り立ちについて聞きたいだけだ。
そう、それだけだ。
「ほう、魔術師、魔術師ねえ。まあいい、繋いでやるから閉店まで注文してろ」
まじか。酔いつぶれるわ!
「言っとくが、苦労して見つけた才能なんだ、手出したら港に沈めんぞ?」
しないからこっち見んな。
馬鹿正直に閉店まで酒を飲み続けて当然のように酔いつぶれ、結局、日を改めて時間を貰った。
なんという商売上手。
「初めてお目にかかる。と言ってもこちらは先日に歌を聞かせて貰ってるから初めてではないが」
「初めまして。歌の内容についてお聞きなさりたいことがあると伺いましたが、魔術師の方に興味を持たれるような部分がありましたでしょうか?」
落ち着いた声で、少し首を傾げてこちらを見る彼女はまた先日とは違う印象だった。
「そうだ。竜と王の盟約のくだりが素晴らしかったのだが、あまり聞かない流れだったので話をしてみたくなった」
「こう申し上げるのは失礼かもしれませんが、珍しい方ですわ。盛り上がりが優先される場所なので皆さま内容はあまり気にされないんですよ」
「ああ、入店してすぐだったので、まだ酒精の入ってない頭で聞いていたんだ」
なるほど納得です、と彼女はくすりと笑った。
そうした表情は存外に幼く見えるな、とぼんやり頭の片隅で思う。
「あの歌は有名ですから、大勢に影響はないのですが、そこ以外でも実は結構いろいろ違う部分があります」
そういって、導入部分にも終盤にも様々な違いがあることを歌い比べながら教えてくれる。
そこまで興味はなかった歌と言う世界の事なのに、気が付けば耳を傾けていた。
「盟約のくだりに興味があっただけなのだが、聞き入ってしまった。伝え方がうまいのだな」
そう言うと、彼女ははっと気づいたように首を竦めて恥じらった。
「す、すみません、興味を持って頂けるのは珍しいことでして、うれしくてつい……」
彼女は吟遊詩人と名乗った。
「いつかは自分で歌を作って歌いたいと思っているんです。誰も知らない物語を」
「歌を作るのはいいが、誰も知らなければ聞いてもらえないのではないか? 有名だからこそ聞いてもらえて金も稼げると思うのだが」
うーん、と彼女は首を傾げた。
魔術師から見ても、どこか話に齟齬がある気がする。
「私は吟遊詩人ですから。いつか自分で紡いだ歌を歌いたいのは当然の事でしょう?
ただその題材が名もなき方々であるというだけです」
「吟遊詩人か……それが吟遊詩人と言うものか」
吟遊詩人がふわりと笑う。
「吟遊詩人なんて別に職業じゃありませんよ。職業としている方もおられるでしょうけど、私は違います。歌えばお金が頂けるからなんとか生活できていますが、無理なら別に仕事を探しますしね」
「歌を歌い、対価を得る。それを職業と言わずなんというのだ?」
「伝わりにくいかもしれませんが……英雄は職業ですか? 賢者は職業ですか? これはただの生き方です」
「ほう、吟遊詩人もそうだと?」
「私にとってはそうです。歌いたいものがあるから歌う。それは生き方であって仕事ではありません―――そう思いませんか?」
何故か、敗北感に似た感情が魔術師を包み込んだ。
魔術師……そう、自分は魔術師だ。これがあれば飯を食いはぐれることはない、そう思って師について魔術を盗んだ。
身の回りの世話をし、お情けで飯を恵んでもらい、こっそりと書を盗み読み、こっそりと師の術を盗み見て学んだ。
仕方がなかった。教えを乞うだけの金などなかった。そんなものがあれば魔術を指向などしなかっただろう。
何を成したかった訳ではない、貧民から、底辺の生活から抜け出すため、金を得る手段が欲しかったのだから。
「――いや、話が逸れたな。戻そう、なぜそんな名も知らぬものを歌おうと?」
「そうですね……語り継がれたから名を知られているだけで、知られてないからと言ってそれが英雄譚じゃないわけではありません……と私は思います。
だからといってその方々の眠りを妨げたいわけでもないので、結局は名もなき英雄達の歌、になるのでしょうけれど」
目の前の吟遊詩人は目を瞑り、歌うように語った。
愛する人を守るため嵐の中に身を投げた海妖精を。
引き裂ける大地を宥めた皇国の泣き虫皇女を。
共に歩んで大陸を巡った竜とその伴侶を。
氷雪女王の心を溶かした寡黙な男を。
戦禍に消えた王子を護る精霊を。
墜星を砕く心優しき乙女を。
魔術師はむっつりと黙り込んだ。
まるで生き方の違う、しかし人の集団から外れる生き方を選んだと言う意味では同じ立場の目の前の女。
魔術をある程度修めて独り立ちできると思った時点で、師の元を飛び出した自分。
流浪の身、という点でも似たようなものだった。
金は得られた。正しく理解すれば魔術でできることは多く、出番には事欠かなかったからだ。
人助けにもなったと思っているし、無意味なことをしてきたつもりもない。それなのに、魔術師の心には何かが足りなかった。
足りない何かを埋めようと頼まれごとを数多く解決もしていった。
それでも心の渇きがどうしても癒えないのだ。金も、感謝も数多く受け取っているにもかかわらず。
それに対して目の前の女はどうだろう。
生きていくのにぎりぎりのお金で生活し、ただ歌いたいものを歌うためだけに流浪する女。
歌いたいものを歌にするためだけに生きることに、満足そうな顔をする女。
黙り込んだ魔術師に、女の小さな声がかかる。
「実は私もお願いがあるのですが……魔術師の方に依頼をするのは、やはり高額のお金が必要なのでしょうか?」
ふと我に返った魔術師は思索を軽く投げ捨てて吟遊詩人の言葉と向き合った。
「勿論その内容によるが……俺はそう高い方ではないはずだ」
見栄を張ったわけではない。勿論他の人間に依頼を明け渡したくないなどと言う理由でもない。はずだった。
「旅に出たいと思っているのですが、行き先の中には険しい場所などもありまして魔術で守ってもらえればと」
「またとんでもないことを言い出すものだ。同行護衛、しかも無期限とくれば、ちょっと算出が難しいほどだぞ」
「それはそうですよね……一人の人を一生縛るかもしれないんですものね、難しいですよね……」
なん……だと?
一生を同行する?
もう身を売るしかないかな……などという物騒な独り言が聞こえた。
「もう少し明かせばですね……実は見えるんです、彼らが生きようと戦った情景が。心に浮かぶんですよ、息遣いが。小さい頃から不思議だったんですけど、誰も信じてくれないんですよね」
そう言って困ったような顔で笑う。
「だから、先ほど話に出た盟約もそうなんですよ」
見てきたように、なんて言い回しがあるが、見てきたんなら仕方がないな。
「見てきたと言いますか、こう気持ちを解放してるときなんかに勝手に見えてくる感じなんですけど、その場所に行けばもっと感じ取れる気がするんです」
伝わらないのがもどかしい、といった様子だが、魔術を知る者としては頭から否定する気もない。
「普通そんな話を聞いても、子供の作り話か妄想と切り捨てられるだろうが……そういった魔術、なのか?」
「いいえ、魔術ではないと思います。学んだこともないですし親も全く縁がありませんでしたし」
大人になってから人に話したのは初めてです、と上目遣いで彼を見る。
まるで少女のようだ、と魔術師は思った。
魔術は想像力と分析力で創造する。ならば歌は何で創造する?
遠見の術でもなく、過去見の術など聞いたこともない。
「まあ実際そんな魔術など聞いたこともない。まるで魔法か奇跡のようだな」
お伽話のあれですか? とキョトンとした顔の吟遊詩人。
「お伽話のあれが本当かどうかは知らないが、魔法使いは実在するんだそうだぞ。俺も半信半疑だがな」
たった一つ覚えている師の言葉。
私は奇跡を見たことがある。魔術なんかじゃない、どこまでも広がる本当の魔法を知っている、と。
もっとも、それは師より遙かに優秀な魔術師だっただけだろう、と言うのが俺の見解ではあるが。
「お伽話はわかりませんけど、魔法使いはいますよ。さっき話した事の中にも含まれてます」
至極何でもないことのように彼女は言う。
それが事実とするならば研究者たちがどれほど欲しがる情報だと思っているのか。
というかお前が魔法使いじゃないのかと言いたかったのだが。
だがそんな事はこの吟遊詩人にとってどうでもよい事の様だった。
面白い人に出会ったものだ。この女性の旅に付き合えばきっと退屈はしないのだろう。
一生費やすかもしれない旅も、満たされない魔術師にとっては何の障害にもならない。
むしろ何かが満たされそうな気すらしてくる。
魔術師は頭を軽く振って自分の思いを振りほどいた。
今は彼女からの依頼に応えなければならない。
「判った。その依頼を受けよう」
目を大きく見開く女。その顔には本当に? と書かれている。
「依頼内容は君が納得するまでの同行及び護衛。……報酬は君の愛情と婚姻。以上でいいか?」
身を売るほどの覚悟があって人を一生縛る自覚があるのなら、と半分冗談の報酬を付け加えてみたが。
「愛情と婚姻は道中で努力くださいませ、魔術師様」
そう言ってどこか安心したような顔でほにゃりと笑うこの女性に、ああ、勝てないなと白旗をあげる。
もう少し警戒を覚えた方がいい、と思ったが魔術師の言えた事ではない。
「努力しよう」
ぐっ、と気持ちを堪え、しかつめらしい顔で頷いた。
その後、魔術師と吟遊詩人の旅は長く続いた。それこそ死が二人を分かつまで。
彼女の心に浮かぶ情景を頼りに様々な場所を訪れ、時折なにかを確認するかのように、二人が始まった小さな町に帰っていく。
いつしか同じ朝を迎えるようになり、彼女が彼と同じ字を使うようになっても。
魔術師が金を稼ぐ機会は減った。その代わりに、足りなかったものを手に入れた。
笑顔のために努力する、そんな事、昔の彼が見ればばかげた話だと鼻で笑っただろう。
今もすぐに思い出せる苦難も、いくらでもあった。
二人旅で、盗賊に襲われるなど日常茶飯事だ。
荒れ狂う海を、吹き荒れる暴風を、凍てつき廃墟と化した城を、魔術でいなしながら進むなど後から考えても正気の沙汰ではない。
だが、何かが満たされていく幸せと満足が、そこには確かにあった――――――
からん、と酒に溶けた氷が崩れて踊る。
まさか、妻の紡いだ物語がそれほど広まるとは思ってもみなかった。
名もなき英雄達の歌、なんてありきたりの名前の歌が流行るなど誰が思うだろう。
勿論、納得するまで彼女に付き合ってきた私はその努力も知っている。
各地でひっそりと伝わる民話からもそれらが本当にあった事だろうと判っている。
それにしても、だ。
わるくない―――
気まぐれに立ち寄ってみてよかった。
余生も残り少なくなってこんな幸運に巡り合えるとは。
薄くなった酒を飲み干し、後一杯だけ注文する。
ことりと置かれた新しい杯を目線に掲げる。
我が妻に、名もなき英雄達の歌を創造した名もなき吟遊詩人に、乾杯。
本当に、悪くない人生だった。
いつだったか、なぜ作者不詳で歌うのかと尋ねたことがある。
その日も彼女はふにゃりと笑った。変わらない、大好きな笑顔で。
―――誰が創ったって歌は歌じゃない?
作者なんて知らなくていいから、童歌みたいずっと歌い継がれたら嬉しいな―――
コルネリア。君の思いは届くのかもしれないね。
過去も未来もちゃんと繋がってるんですよー的な。
……的な。
タグに置けるような出来事も人物も出てこないお話ですが、読んでくださってありがとうございました。