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水葬

作者: 鳥兜附子

プクッ…カポッ…プクプク…………



 遠くの方から、聴こえてくる音



 パチン



 気泡が一つ、弾けて消えた。





 その音で目が覚めた。



「目が覚めた」この表現を用いたということは、私はいままで寝ていたのか。



 ……寝ていた。



 なるほど、そう言われれば、寝ていたような気もする。



 寝ていた。確かに私はいま寝ていた。



 水の音が聞こえるここは……ああ、海だ。会社で夏季休暇を取ったのだった。



 私は洋上に漂っている。



 周囲には何も見えない。



 いや、遠くにビーチが見える。あまり遠い所まで流されてはいないようだ。



 一安心した。



 私は……私はボート状の浮き輪に乗っているし、浜辺に戻ろうと思えばいつでも戻れるのだ。



 夏の海にはギラギラした太陽が照りつけている。明日になったら、全身火傷で真っ赤になっているだろう。子供の頃から日焼けに弱い体質だった。



 そう言えば、小さい時にもこんな風に流されたことがあったっけ……。



 黄色い砂の上に戻ろう。あそこには影があるから。



 影……パラソル……そうだ、立ち並ぶ色とりどりのパラソルの下には黄色いビキニを着けた、綺麗な彼女だっている。昔とは違って。



 戻らなきゃ。きっと私のことを待っているだろう。



 波に乗って、足で水を蹴って。



 思いの外、体はグングン進んでいく。





 夕暮れを背景に、私は彼女と焼きそばを食べる。海の家で売っていた、定番の食事だろう。



 普段は濃いと思うソースも、運動した後の体には丁度良く感じる。



 そろそろ日も傾いてくる。帰ろう。



 彼女はコクンと頷いた。



 すると、近くのホテルのフロントに、私達はいた。



 海の見えるホテルだ。予約するときに、少し張り切ったことを覚えている。



 潮風が感じられる高層の窓部屋。うん、高かった。



 予約した旨を伝えてチェックイン。今夜はゆっくり休もう。



 彼女がシャワーを浴びている。



 さっきまで海に浸かっていたのに、また水を浴びるのか。



 薄暗い部屋の窓際の隅に佇んでいると、脱衣所の逆光に照らされて彼女が現れた。



 真っ黄色に濡れたバスタオルだけを身につけて。



 顔が見えない。



 長い黒髪から滴る雫は綿のようだ。ひらひらと漂いながら、カーペットに染みを作っている。



 月明かりで青白く光るシーツに、蛍光黄のトレードマーク。君は何がしたいのか。



 濡れたままで出てくるなんて。



 それともずっと濡れ続けているの。




 近づいてくる……。足音もなく。



 ところで……そう、ところで、君はどうしてさっきから笑ってくれないのだろうか?



 朝からずっと。昨日からずっと。去年からずっと。



 なにか、私が気分を害しただろうか?




 近づいてくる。



 真っ青に燃える月明かりに映し出される。



 つい、一歩後退ってしまった。



 どうして顔が……顔が陰で覆われている?黒いモヤが掛かっている?鉛筆で塗り潰されている??



『百十五番二異常信号ヲ確認』



 冷たい腕を私に伸ばして



 ブクブクブク……



 ここは海の中



『鎮静剤投与マデ七秒』



 顔の無い君は



『二……一……零』




 プクッ…カポッ…プクプク…………



 パチン



 気泡が一つ、弾けて消えた。





 その音で目が覚めた。



「目が覚めた」この表現を用いたということは、僕はいままで寝ていたのか。



 ……寝ていた。



 なるほど、そう言われれば、寝ていたような気もする。



 寝ていた。確かに僕はいま寝ていた。



 水の音が聞こえるここは……ああ、海だ。昨日で夏休みの宿題を全て終わらせて、出来たばかりの彼女と海に来ているのだった。



 海面から幾つもの泡が浮かんでは消えていく。



 テレビで見てから、ずっと見てみたかった光景だ。



 常夏の国の、色鮮やかな花を背景に、シャボン玉のような何かが、天を目指して渦巻いている。



 水面に背泳ぎで浮かんで、空へ立ち昇る泡を見ていると、監視員の警笛が鳴らされた。大人になってからも、こうして漂っていた気がする。



 ピピーッ!



「プールの真ん中で止まるな!」



 流れるプールで止まるのはマナー違反だ。後ろが詰まってしまう。黄色のビキニを身につけた彼女にも笑われてしまった。


 その姿は、高校生の僕には少し刺激的過ぎる。



 グラビアアイドルのように、くびれた腰。



 しかしどうして、この病室に君がいるの?



 免許を取りたての僕がバイクで事故を起こして入院している、この真っ白な壁で囲まれた病室に、何故、鮮烈な黄色のビキニを着た君がいるの??



 ベッドに縛り付けられている。点滴はまだ、鴎の脳漿。



 ナースキャップを被ってる君は、僕の上に跨った。



 冷んやりとした太腿は、まるで氷枕のようで心地いい。



 だけど、どうして、君の白くて細い指が、僕の喉に、絡みついているの??



 違うのか。



 あの時と同じで、首を絞めているのは




 パチン



 気泡が一つ、弾けて消えた。





 その音で目が覚めた。



 目を開けると、キラキラと輝く境界面がみえた。



 僕は水の中で息が出来ない。



 いつかのように……いつのことだったか……思い出そうとすると、記憶は向こう側で泡に掻き消されてしまう。



 積み木の魚が、僕の上を泳ぎ回る。ふとした拍子に、鱗が落ちる。彼女が気に入っていたネイルアートが施されている。



 彼女の薬指だもの。当然だ。




 プラスチック珊瑚を食べるヒトデ。綺麗な模様が食い散らかされて灰になる。



 熱帯の海の支配者。異形の蛸が鎖に繋がれて、僕の訪れを待っている?



 そんなに暴れるな。波がまた荒れてしまう。荒れ狂って、狂ってしまう。


 そう、嵐だ。



 呼吸が出来ない。左右に前後に突き動かされて、肺の中に海水が満ち満ちていく……甘い。海底泥はあんなにも苦いのに。



 さっきまでの静かな昼はどこにいってしまったのだろう。



 僕は逆巻く黄色に飲み込まれて……空に放り投げられた。




 電車が泳いでいる空。



 相変わらずの快晴で、空には月が二つしか無い。片方は三日月で、片方は穴だった。



 穴から注がれる水が、海に注がれて、地上に溢れ出た液体が凝り固まって動物になる。



 キリンも、ムカデも、ミミズクも。



 母なる海だ。



 人は、海より出でて海に帰るのだ。



 こうして落ちる僕は……海から海に落ちる僕は…………。


 パチン



 気泡が一つ、弾けて消えた。



 パチ「気泡が一つ、弾け「パチン


 気泡が「パチン


 パチ「パチン


 パチン




 30年前に、42才の私が、26才の君を、東京湾で絞め殺したんだったね。




 プクッ…カポッ…プクプク…………







「内田-鈴木式新型終身独房」


 それが、この装置の名前だ。


 いまから10年ほど前に考案された、当時最新の考え方を取り入れた独房だ。


 当時の日本は、超高齢化社会による行き詰まりを見せ、老年や青年による犯罪が横行しており、刑務所や囚人の維持費が増し財政難を増進する悪循環に陥っていた。死刑を執行しようにも、各国の人権団体による抗議を受け、それすらままならないという状況であった。かといって、重大犯罪者を刑務所の外に出せる筈もない。なんとか最小の費用と空間で終身刑をできないか……とね。



 当時最新の技術、それは「脳移植」。事故で身体の大部分を失った人の脳を、人工の身体に移植する。この際、賛否両論が溢れかえり、侃々諤々の大論争になったのは前回の授業でやった通りだね。



 スライドショーが切り替わる。



『君たちには分からないかも知れないが……』と准教授の声が響く。


 ほんの10年も前は、人の脳はある種神聖視されていて、大多数の一般人は「脳を弄り回すだなんて非倫理的だ」と非常に嫌悪していたんだよ。今ではもう、殆どの人が君たちの様に脳神経開設術を受けているけれどね。


 手術によって新たに開設された神経回路を通して、脳に直接映し出されているスライドショーが、また一枚、移り変わった。



 適度な浮力と栄養、酸素、pHを与え、老廃物と二酸化炭素を溶解しそれを除去できるような栄養培液の開発が進められた。この辺の詳しい話は来週の授業で行うことにしよう。



 何はともあれ、我々ヒトはこうしてヒトの脳だけを保存できる様になった。



 スライドが切り替わる。



 准教授の声が遠くで聞こえる。


 あぁ、気をつけてくれ、と言うのを忘れていた。毎年何人かは必ず体調不良でぶっ倒れるんだ。僕としては、今のうちに耐性をつけて欲しい。君たち法学部生は、将来法曹界に身を置いた時、コレと訣別することは出来ないのだから。



 地下室のような窓のない部屋。


 機械音だけが響いている。


 そこに所狭しと並べられた水槽。縦に横に、幾重にも積み重なっている。


 水槽は、青白い照明に照らされて、薄ら寒く、その内容物を顕わにしていた。


 透明なハコのなかには、幾本ものチューブと夥しい数の脳。脳。脳。



脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳脳











 ……なるほど。これが、俗に「水葬」と呼ばれる所以か。


 気持ち悪い。



 勿論、ありとあらゆる国と機関の倫理委員会から批難はあった。ヒトの脳だけを摘出して生かすだなんて、非人道的だ、とね。実際、君たちも思うだろう、何百、何千という脳が水槽に沈んでいるのは「おぞましい」と。それは確かに生理的に正しい反応なのかも知れない。僕らは、“共感”をする能力を持っている。アレらのように自分が扱われると思うと反吐が出るようだろう?でも、感情論だ。それは感情論に過ぎない。否定するためには正しい前提と、正しい論理からもたらされる正しい帰結が必要なのだ。何故この水葬が日本において使われ続けていられるのか?それは、どんな倫理委員会だって、水葬の効力を知っているからだ。水葬なしには、最早日本社会は成り立たない。崩壊した道徳観を納めておけるだけのスペースも、リソースも、この国は有さない。だから、水葬の否定はより多くの、“無垢なる善人”を犠牲にするのだ。それをわかっているから、否定したくても否定できない。これは、倫理観と現実の折り合いの結果なのだ。




 先程の映像を思い出して欲しい。あれは実際の受刑者の脳内だ。彼らは永遠に夢を見る。それは、彼らにとっては現実だ。脳が映像を処理し、それに伴って電気信号や物質のやりとりが行われる。これらのプロセスは肉体のある人間となんら変わりはない。先ほどの受刑者……痴情の縺れた果てに、恋人の首を絞めながら溺死させた男は、永遠に海で溺れ続ける。首を絞められ続ける。事件当時と同じ、黄色いビキニを着た被害者にね。それが彼に科せられた懲罰だ。


 しかし彼らは同時に、肉体的な老いも、病も、苦痛もなく、怪我や、煩わしい人間関係もなく、種々の不調を催す臓器もないのなら、彼らは「肉体を持つ我々より高いQOLを享受し、ある種の生を生きている。」とも考えられる。ただ、身体を持たないだけだ。そうだろう?実際、僕は憧れてすらいる。今すぐこんな面倒な仕事投げだして、「リアルな夢」に逃げ込んでしまいたいとね。



 四苦八苦。この大学を受験するために勉強した知識を思い出す。生老病死、それに愛する者と別離せねばならない愛別離苦、怨み憎んでいる者に会わねばならない怨憎会苦、求める物が得られない求不得苦、人間の肉体と精神が思うがままにならない五蘊盛苦を加えた、仏陀の唱える、人の世にある八つの苦しみだ。もしかすると、それ全てを捨てられた彼らは誰よりも救われているのかも知れない。重大犯罪者であるのにも関わらず。



 さて、ここで課題だ。君たちはこの「水葬」をどう考える?非人道的だと批難してもよし、理想郷だと抗議してもよし、妥当だと評価してもよし。全て、自分の考察と意見、理由を含めて3000字以上でレポートを書いて来ること。来週のこの時間までに、A号館1階のレポートボックスに提出すること。









 プクッ…カポッ…プクプク…………


 パチンッ


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