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永遠がはじまるとき

作者: 蔵灰汁朝

デジャブを経験したことがありますか? そんお不思議な体験は、気のせいだとか思い違いだとかで済ませているのではないでしょうか。しかしあなたは忘れているだけ。ほんとうは自分でも気づいていない真実があるのです。

 秋晴れの空はどこまでも青く、子供たちの未来もまたどこまでも透明で溢れていた。まだ来ぬ未来を求めて歩き続けることこそ、人生で何かを得るための唯一の行為なのだということを、まだ小さな心は知り得ていない。


 町なかの狭い運動場で、黄色い帽子をかぶった幼稚園児たちが整然と並んで足踏みしている。真っ青な空は文字通り秋晴れといったところで、まさに運動会日和だ。だが、今日は平日であり、運動会本番ではない。園児たちは、本番当日のために入場行進の練習をさせられているのだ。

「はぁい、大きな声でぇ、元気よぉく! いちにぃ、いちにぃ」

 まだ年若いがすっかりすべての要領を飲み込んでいるといった風情の女性の声が四十人ほどの子供たちを仕切っている。中堅の保母なのだろう。園児を取り巻くように他の若い保母が立っていて、自分のクラスの園児たちに注意を向けている。

「いちにぃ、いちにぃ!」

 すべての園児が元気よく声を上げて、子犬のように無心に歩いている。保母から教わった通りに両手を振って足踏みをし、前へ! の号令と共に行進している。大人から見れば猫の額ほどの小さな運動場なのだが、子供から見れば、これだって立派な運動場なのだ。みんな前を向いて一心不乱に手を振り、足を上げて、言われた通りに自分が目指す旗をめがけて無邪気に行進しているように見えたが、実際には全員が無邪気なわけではなかった。皆と同じように行進はしているが、「なぜこんなつまらない練習を」という思いを心の中に渦巻かせている子供がいた。当然ながら、他の子供たちが整然とした動きをしている中で、この子だけはのらりくらりとした手足の動かし方で、皆よりも半拍ほど遅れた歩調でいやいや行進しているのだった。

「ぜんたーい、とまれ!」

 スピーカから流れる号令と共に、音楽が止まり、前方に並ぶ保母たちの足踏みが止まった。少し遅れてぱらぱらっと園児たちも足を止めた。

「はぁい、みんな、ここで足踏みを止めてくださいねー。止まりましたかぁ? それでは前のお友達との間が詰まっていないか確かめてねー。はぁい、ちゃんと並びましたねー」

 園児に呼びかけている石原知子の声はあくまでもやさしく丁寧だが、きちんと指導しようという意思に満ちていた。年少組のときから知子の世話になってきた青山聖(きよし)は、内心彼女を好ましいと思っている。だが、そんなことをあからさまにしてしまったのでは、先生に気味悪がられたりするのではないかと考えて発言は控えている。控えてはいるが、いつか気持ちを伝えたいとチャンスをうかがっているのだ。知子の年齢は二十三歳。短大卒業前に保母の資格を取り、この幼稚園にやって来た。もともと頭脳明晰でしっかりしている彼女は、四年目ともなると、もうすっかりベテランの顔をして運動会の練習を取り仕切っているのだ。

 運動会の練習は今日で三回目。おおかたの園児たちはもうすっかり頭の中に段取りが刻み込まれているようなのだが、年少組のそれも早生まれの子供たちにとっては、すべてはまだ夢の中のようであり、操り人形のように動かされているだけで、頭の中には段取りのことなど何も入ってはいない。この子供たちにとって、大人が教える運動会の段取りよりも、もっと大切な経験を脳に刻み込ませているのだ。身体は自動運転で言われるままに動いているが、目や耳、鼻、皮膚、五感のすべてを総動員して運動場を取り巻く外界の何物かに意識が開かれている。秋の空気の匂いだとか、空の青さだとか、空を飛んでいる雀や鳩の姿とか、そんな事柄に意識を開放して足踏みをしているのだった。

 運動場の教室側には背の低い朝礼台が据えられていて、知子はその上に立って園児たちを一望している。

「はぁい、みなさん、たいへんよくできました。ではぁ、元気よくご挨拶できるかなぁ? 先生がおはようございます、と挨拶したら、それに続けておはようございます、って言ってくださいねー。はい、おはようございまーす!」

 園児たちも知子に続いて大声で挨拶をした。青山聖はただひとり、朝礼台の上の知子を見つめながら口の中で「おはようさん」とだけつぶやいた。つまらないとはいえ、あんまりあからさまに皆と違う態度を取っていると、そのうち先生の誰かに気がつかれる。気づかれると、先生は言うだろう。どうしたの、青山くん。どこか具合でも悪いの? それとも眠いのかな? 無論そのどちらでもないのだが、なぜ態度が悪いのか、説明するのは困難だし、仮に説明できたところでどうにかなるわけではない。その前に信じてもらえないだろう。もちろん本当のことを説明するつもりもないのだが。いずれにしても何かを訊ねられるなどという面倒は避けたいので、できるだけ目立たないように、皆と同じように練習に参加している振りだけはしておくことにしている。

 挨拶のあと、運動会当日に応援しにやってくる父兄に贈る感謝の言葉を皆で唱和する。そして歌に併せたお遊戯体操が五分間ほど行われ、次に徒競走の練習がはじまった。徒競走といっても、ほんの二十メートルほど走るだけなのだが、五人ずつ順番に走るので、順番が回ってくるまで結構な時間を体育座りのまま待ち続ける。ようやく順番が回ってきて走り出したとたん、聖の隣を走っていた太っちょの健史が地面につまづいて倒れかかってきたため、聖も一緒に倒れてしまった。

「痛てぇ! オメエ、足、引っ掛けたなぁ!」

 健史は大きな身体のくせに大げさに痛がって、しかも倒れたのは聖が足を引っ掛けたからだと泣き喚いた。だが聖は黙って立ち上がりすりむいた膝の砂をさっと払ってから再び走りはじめた。後ろではまだ泣き喚く健史の声が聞こえていた。

 練習が終わって、聖が水道で手を洗っていると、知子が後ろから声をかけた。

「聖くん、大丈夫? 擦りむいているんじゃないの。先生が消毒してあげるね」

 知子は救急箱を持ってきて、すりむいた聖の足を消毒液で浸したコットンで拭った。

「痛っ!」

「あ、ごめんごめん、痛かった? 聖くん、ほんとうは痛いのに、我慢してたんじゃない。早く先生に言えばいいのに。聖くんが言わなくても、先生にはなんだってわかるんだから」

 違う! 聖は思った。先生は何もわかっちゃいないんだ。先生はこんなにやさしくって可愛いのに、ぼくは先生のことが大好きなのに、だけど先生は何もわかっちゃいない! 聖は心の中でそう叫んでいたが、口には出さないでいる。

「あいかわらず、聖くんは意地っ張りね。男の子だから仕方ないか」

知子はにっこり笑って聖の両手をやさしく撫ぜた。あたたかい知子の体温が、聖の冷たくなっている手の甲に伝わる。その温もりは聖の小さな手を覆ている皮膚から真皮へ、肉へと伝わり、あまたある神経細胞を伝染して身体全体に信号を送る。おい、こんなにやさしい温もりを失ってしまってもいいのか? この母と同じ体温を、再びなくすのか? それまで目を伏せていた聖が、急に顔を上げて知子の目を見つめた。

「先生、あのね」


 今日はこれで最後だな。青木剛(つよ)()は、軽トラックの函型の荷台に残された小さな荷物を確認した。何事もなく仕事を終えた安堵感。何ごともない平凡な一日を繰り返すことこそ、理想の人生だ。日頃からそう思っている。ずーっと昔、それも子供の頃に、平凡ではない他人とは違う人生を望んだことがあったことを知っている。だが、そんな人生は願い下げだ。人は誰しも、他人とは違う固有の運命を背負って生きているものだ。それを殊さら非凡なものであって欲しいと望んだことがあるなんて。俺もずいぶんと馬鹿だったものだ。運転席でハンドルを握ったまま、剛志はくっくっと笑った。

 剛士の仕事は、家庭用荷物の配送だ。ほんとうは長距離トラックを動かす仕事の方が身入りがいいのだが、小さな子供を持つ身では、ひと晩中長距離を走り回るなんてことは不可能だ。だから、集荷センターまで送り届けられた荷物を、近隣の届け先まで運ぶ軽トラックの担当にしてもらっている。これだと就業時間も読めるから、家でひとりで待っている我が子を退屈させないで済む。まぁ、ときどきは夜に再配達しなければならないこともあるが、それは仕方がない。そんな場合は電話で待っておくように言い聞かせることもできるし、いったん家に帰って夕食の準備をしてから再配達に出かけることだってできる。何しろ同じ市内に運ぶだけなのだから。

 剛志は届け先伝票を見ながら、その住所のところで軽トラックを停車させ、荷台に置いてある送り函の中から小さな荷物を取り出した。その小荷物は、なんとなく見覚えがあるような気がした。手に取ると、大きさの割には案外と重たい。片手で持てるほどの大きさだが、失敗のないように両手で抱えて、伝票にある住所を探した。その辺りは何度も来るエリアなので、だいたい検討はついている。住所の家も、たぶん何度か荷物を運んだはずだ。大通りから少し細い横道に入ったところにある大きな一軒家だ。やはり見覚えのある家だった。門扉の呼び鈴を押す段になって、剛志は小荷物と門扉を何度も見比べた。

 思い出した。大変だ。これは、あの荷物だ。あれは今日だったんだ。そしてこの小荷物こそが俺の人生観を狂わしてしまうことになるのだ。だが、今さらどうしようもできない。後戻りはできないのだ。黙って仕事を終えるしかないのだ。

 剛志は三十八歳になった現在までに、何度も仕事を変えている。あまり頻繁に職を変えていると、面接で履歴書を見せた時に、いかにもこらえ性のない問題を持った人間だと思われそうで困るのだが、それはとんでもない間違いだ。剛志は自分ほど我慢強い人間は滅多にいないと思っている。そりゃぁそうだ。毎日毎日、同じことを繰り返す人生を、オレは何度も何度も経験してきたのだ。だが、その同じことの繰り返しを回避したくなることだってあるのだ。それでも繰り返しを停止させたくなる気持ちを押さえて平穏な一日を終えようとするのだが、衝動的に余計なことをしてしまうことだってあるのだ。余計なことというのは、自分とは関係のない他人の人生を変えてしまうことだ。

剛志は過去に、災難を負うべき人間を助けてしまったことが何度もある。人を助けるという行為は尊いことだと信じているからだ。車に轢かれそうになった子供を見つけたときには、道の真ん中まで走り出て、自分が轢かれそうになりながら抱き寄せて助けた。子供の母親は道端で近所の主婦同士で話し込んでいて、道路の真ん中に出てしまった我が子に気がつかなかったのだ。一瞬の出来事に凍りついていた母親は、すぐに我を取り戻して、子供に駆け寄りひとしきり叱りつけた後に、何度も何度も感謝の言葉を口にした。だが、剛志は不安で仕方がなかった。果たしてこの子を助けてよかったのだろうかと思ったからだ。反射的に動いてしまった自分を呪った。そして案の定、翌日の新聞で恐れていたことが起きたことを知った。その子の代わりに別の人間の命が奪われたのだ。幸か不幸か、そのときの代理死人は、子供の父親だった。幸か不幸かというのは、剛志自身の心にとってのことだ。子供の家庭にとっては、子供が死ぬのと父親が死ぬのとでは、どちらが幸せかなど、天秤にかけることなどできないだろう。だが、剛志にとっては、ある家族を助けたために、まったく関係のない別の家族に不幸が訪れるなどというのは耐え難いことだ。そして何よりも問題なのは、本来は子供が死ぬはずだったということを、剛志が知っているということだ。

 剛志には、これから起きるであろうことがおおむねわかる。これを超能力というのかどうか、剛志にはわからない。たぶんそういう特殊能力ではないはずだ。未来を予知するということではないからだ。ただ単に“知っている”だけなのだ。剛志が、どんな人の未来でも読み取ることができるというのなら、それは予知能力と呼べるだろう。だが、実際はそうではない。剛志が前に経験した事柄だけを覚えているだけなのだ。知っているということは、すでに過去に経験しているということなのだ。

 デジャビュ。一種の既視感ということができるかもしれない。実際、剛志と同じ種類の人間がいるとして、真実を理解していなければ、デジャビュだということで済ませてしまうだろう。同じ場所で、同じことが起きるのを何度も見る。これを既視と呼ばずしてなんと呼ぶ? 実際、剛志はこれを既視と呼び、それを体験している自分を既視者と呼んでいる。既に見たことのあることを再び見るのだから、こう呼ばざるを得ないのだ。だが、悲しいことに、剛志はもっと深いところまでを自覚していた。このデジャブは、一度や二度ではないのだ。永遠。そうなのだ。永遠と呼べるほど何度も何度も、剛志は同じ体験をしてきた。

 リインカーネーション、日本語で言うなら“輪廻“という概念を、多くの人は知っていると思う。俗に言う生まれ変わりというやつだ。この概念は、人は死後、別の人間に生まれ変わるという考え方だ。そして別の人間として生を受けた後に、生まれる前の記憶を思い起こすのだと信じる者によって、まことしやかに生まれ変わりが唱えられ、世に広められてきた。だが、実際にはそんなことは起こらない。たとえば、ユーゴスラビアの少女が病気にかかった直後、知っているはずのない外国語を使ってインドでの生前の生活を話したとか、我こそは天草四郎の生まれ変わりだと主張し続ける人の話だとか、世の中には様々な逸話があるが、どれもこれも本人がそう主張するばかりで、科学的に実証された例は一件もない。証拠がないから間違いだと決めつけることはできないが、剛志にははっきりとわかっている。輪廻話は、生に対する人間の執着心が生んだ、一種の宗教であることを。

 剛志が体験していることは、ただのデジャビュでも、リインカーネーションでもない。専門的な語彙を持たない剛志が自ら命名した呼び名は、リピートだ。繰り返し、反復。ときとしては、くどくどと繰り返すニュアンスも持っている。リプレイ(再演)とかリボーン(再生)という言葉も調べてみたが、そんなドラマティックなものではない。ただただ淡々と繰り返されるリピートなのだ。

 剛志が運んだ小荷物が、そのあとどうなるのかを知っている。玄関で荷物を受け取った家政婦は、宛先となっている主人が留守であるので、書斎の扉を開いてデスクの上に置く。それはそのまま朝まで誰も手をつけない。深夜に帰宅した主人が、翌朝荷物の存在に気がつけばよかったのだが、彼は書斎に入ることなく、出勤してしまう。午後になって学校から帰ってきた小学生の息子が、いつもどおり父親の書斎に探検と称して潜り込み、茶色いクラフト紙に包まれた荷物を発見する。これが荷物が届いてから二十一時間後だ。息子は茶色い紙包みを開けたくて仕方なくなり、ついに開けてしまう。紙の中にはダンボールの箱が入っていて、その蓋を開けた瞬間、その中身が網膜に映る。そして……。

 明日の今頃、このあたりは騒然としている。救急車が小さな遺体を運びさったあと、書斎の火を消し止めた消防隊は消防車と共に引きあげようとしているだろう。パトカーが数台残され、警官と捜査官が家の内外をうろうろしているだろう。剛志はその様子を遠巻きに見ることになる。気になって仕方がないから見に来るのだ。荷物の中身を知っていたのなら、事前にすべきことがあるのではないか? 誰だってそう思うに違いない。実際、過去の剛志はそうした。古い体験では、小荷物は家政婦がすぐに玄関先で開けてしまうのだ。剛志が小荷物を渡した数分後に、家政婦が吹き飛び、家政婦の家で待っている彼女の子供は孤児となってしまうというのがオリジナルの筋書きだ。剛志は家政婦の子供に同情して、その次の生に於いてこの出来事と遭遇したときに、家政婦に告げたのだ。これは危険なものだから、必ずご主人に手渡しするようにと。その結果、三時間後にこの家の親子三人が爆発に巻き込まれて亡くなった。一層悲惨な事故となったわけだ。剛志が因果に手を加えることによって、その結果が変わってしまうことは、それまで何度も生きてきた経験から熟知していたはずなのに、剛志はまた手を加えるような発言をしてしまった。その結果があの惨劇だ。剛志は悩んだ。次にはどうするべきなのか。そうしてさらに次の生に於いて同じ場面に出会ったときには、もともとそうであったように、黙って家政婦に渡すことに事態を戻したのだ。だが、もはや結果は変わってしまっていた。あの豪邸に住む一人息子だけが爆死するというのが新たなオリジナルの筋書きとなってしまっていたのだ。だからといって、また剛志が何か違う行動をしたとして、例えば荷物を届けずに捨ててしまうとか、警察に届けるとかだが、その場合、どのような結果がもたらされるかはまったく予測ができない。予測はできないが、よりひどい結果がもたらされるであろうことだけは想像できた。これまでの数限りない経験のおかげで、剛志にはそれがわかっているのだ。

 剛志がリピートと名付けたこの現象は、わかりやすく言えば、同じ人生が何度も繰り返されているという現象だ。剛志がこの世に生まれて、成長し、結婚して子供を作って、そして七十余年の人生を閉じる。科学は冷酷に、人の死に魂という概念を持ち込まずに、無に帰するだけだと説くだろう。輪廻を信ずる者は、死んだ後の剛志の魂は、何日かあるいは何年か後に、また新たな人間として生まれ変わるのだと予言するだろう。だが、実際にはそのどちらでもない。剛志の人生はリセットされるのだ。死んだ人間は、その次の瞬間に時間を遡って、自分を生んだ母親の体内で受胎した瞬間に戻るのだ。そして再び成長を重ねて次の人生を送る。次の人生といっても、同じ親、同じ時代、同じ環境の中で生まれるのだから、ほとんど同じ人生が繰り返される。こうしてひとりひとり、まさにループする輪のように、生を永遠に繰り返しているのだ。そんなことは誰も考えないし、考えついたとしても実証できないが、剛志は知っている。なぜなら、剛志の場合は、すべての記憶を持ったまま人生を何度も何度も繰り返してきたからだ。

 普通の人間は過去に体験した人生のことなど覚えてない。覚えていないから、たった一度きりの人生を生きていると信じている。生まれたときは真っ白の状態で、成長とともにさまざまな体験をして、記憶が蓄積されていく。歳月が過ぎて、人生を全うした時には、全ては無に帰するものだと思っている。ところが、死と同時に過去に遡って母親の体内に受胎した時点で、すべての記憶が残されていることが、ごく稀にあるようなのだ。剛志の場合がそれだ。なぜそういうことになってしまったのか、剛志にはわからない。わかっているのは、剛志が何度も同じ人生を繰り返してきたという、信じられないような記憶の蓄積だ。何回どころか、何十回、何百回と繰り返されてきた剛志の人生。それはもはや悪夢のようだ。だが、ありがたいことに、古い記憶ほど忘れ去っていくようだ。前回や前々回の記憶は鮮明に覚えているのだが、それ以前となると、古いものほど薄れてしまっている。もし、そうでなければとっくに発狂してしまっていることだろう。

 この特異な人生の反復について、もうひとつ考えておかねばならないことがある。リピートは同じ人生の繰り返しだと言ったが、正確にはまったく同じではない。同じシナリオではあるが、その時々の剛志の気持ちや反応の仕方に影響されて、微妙に変化する。シナリオはひとつでも、アクションにはゆらぎがあるようなのだ。演劇の舞台において、同じ演目でも演者のコンディションによって微妙に芝居が変化してしまうのと同じだ。だから、今生きている人生と、前回生きた人生では、非常によく似てはいるが、全く同じではない。実際には、細部については忘れてしまっていたり、曖昧になっているけれども、何かの拍子に急にその細部についてを思い出したりする。

 剛志のように前世の記憶を持っていない一般人でも、ごくまれにある瞬間を思い出してしまうことがある。あれ? これは前に体験したことがあるぞ。これがいわゆるデジャブというやつなのだ。もしかしたら、リインカーネーションについても同様な現象なのかもしれない。本人は忘れてしまっているずーっと以前の人生の中の、ほんの一部分が突然記憶として蘇ったとしたら? それはどこかで耳にしたインドの誰かの物語だったかもしれないし、書物で読んだ天草四郎の伝説だったかもしれない。そんな記憶が唐突に脳裏に蘇ったとすれば、自分はその人間の生まれ変わりではないか、と信じ込んでしまうかもしれない。いずれにしても、一般人にとって、自分が同じ人生を何度も繰り返しているなど、思いもよらないことなのだ。

 話は戻るが、こうして過去の人生と今の人生が似て非なることを知っている剛志は、それなら、と考えた。それならいっそ違う人生にしてしまおうと。前世と違う判断をし、異なる行動を取れば、剛志の人生は違ったものになるはずだ。だが、すでにシナリオは決まっているわけで、なかなか思うようなシナリオのチェンジはできないようになっているのだ。なぜだかわからない。わからないが、意識して変えようとしても、結局同じ人生を歩むようなことになることを、剛志は経験として知っている。ただ、大きな流れには影響の出ないような微細な部分は意識して変えることができるようなのだ。

 たとえば、剛志の今の職業は家庭用荷物の配達員だが、前の人生では郵便局の配達員だった。何度か前は市場調査員だった。ずーっと過去には警察官だったこともあったような気がする。青年期の就職活動の時にシナリオに逆らった結果がこれであり、同じ人生の中で何度も職業を変えることになるのも、このシナリオへの反逆のおかげなのだ。こうして仕事を違うものにしても、結局、あの豪邸に小荷物を運ぶ役割を担うところは変わらない。それなら、せめて人助けになる部分だけでも変えてやろうとすると、事態はより深刻なものとなってしまうのだ。


「パパ、ぼくは生まれる前のことを覚えているんだよ。どうしてなの?」

 息子の聖が六歳になった誕生日に、そう訊ねてきた。以前の生でも同じことがあった。剛志は誕生ケーキに火をつけながら息子に言った。

「さぁな、実はパパにもわからないんだ。わからないけれども、いまからパパが何を言うか、お前は知っているんだろう?」

「うん、知ってるよ、パパ」

「じゃぁ、いいか。そんなことを考えるよりも、今、このロウソクを一気に吹き消すんだ。聖とパパの幸せを強く願いながらな」

「わかった、パパ」

 聖はそう言ってからロウソクの火を吹き消した。

「さて、プレゼントは何かな?」

「う~ん、知ってるよ。プラレールでしょ?」

 剛志は微笑みながらテーブルの上を少し片付けて、足元に置いた紙袋から黄色い包装紙でラッピングされた四角い箱を取り出して、聖の目の前に置いた。

「あれえ? こんな感じだったかなぁ?」

「いいから、あけてごらん」

 聖は不思議な顔をしながら包み紙をきれいに開いていった。剛志と同じで、プレゼントの包み紙を破いたりはしない。セロテープで貼られた部分を丁寧にはがしていき、破くことなく包装紙を取り除いた。

「ああ! 合体ロボ! どうして? 前のときは確かにプラレールだったのに!」

 聖は目を輝かせた。

「そうなんだ。このくらいは変更することができるんだよ。だが、気をつけなくてはいけないことがある。人の命に関わることや、誰かの運命に関わることには手を出してはいけない。結果は必ず取り返しのつかないことになるんだ」

「やっぱりそうなんだ。ボクもそうじゃないかなって思っていたよ」

「それに、知ってると思うが、こんなことは、ウチの家族だけのことなんだ。他の人に話しても、絶対に信じてもらえないからね」

「それもボク、知ってる。だけど、プレゼントを変更するくらいなら問題ないんだね!」

 それから親子は大声で笑った。何がおかしいわけでもないのだが、親子で共有している、世界でただ二人しか知らないこの秘密を共有していることが、なんだかおかしくなって、久々に心から笑った。


 剛志の妻が亡くなったのは昨年のことだ。よその家系から嫁いできた妻には剛志や聖のような能力はない。妻は前世のことなど覚えていないのだ。結婚直後に、その話を何度もしたが、遂に心から理解することはなかった。そんなことを、普通の人間に理解できるわけがないのだ。だが、妻は信じようとはした。とくに、息子の聖も同じだという話をしてからは、わからないけれども、信じる努力はしていると言った。夫と息子だけが共有していることがあるなんて、悔しいとも言った。だが、妻といえども、一般の人間にリピートのことを話すべきではなかったのかもしれない。父子の能力を信じるからこそ、妻はあんなことになってしまったのだ。もし、そうでなければ今でも彼女は……。

 昨年のクリスマスイブ。妻の母親は、孫に会うために我が家に車を運転して来ることになっていた。その前日、その話を聞いた聖が妻に言ってしまったのだ。

「明日、うちに来る途中で、おばあちゃんは事故に遭ってしまうんだよね?」

 妻は私にどういうことかと訊ねた。私はごまかすことも考えたが、前の人生で起きたことを、妻に説明した。妻の母親が高速道路で事故に巻き込まれて亡くなってしまうことを。まさかそんな。最初は信じなかった妻だったが、父子の顔を見比べながら、息を飲んだ。そんなことがわかっているのなら、ママを助けないわけにはいかない。妻は泣き出した。泣きながら、助けなければ。ママを助けなければ。何度も何度もつぶやいた後で、剛志に嘆願した。

「あなた、ママを……ママを助けて」

 剛志は、それはできない。してはいけないのだと答えた。前の人生では、聖は事故の話をしなかったし、イブの日に妻の母親はやって来なかった。その代わりに警察から電話があって、みんなで病院に駆けつけた。そして妻は一晩中泣き続けた。もし、剛志が妻の母親の命を救うことに手を出したなら、何が起きるかわからなかった。ところが、今回は聖の言葉を発端に、妻は剛志には黙って母親を迎えに行ってしまった。

 剛志の妻有希子は剛志がいない昼間のうちに母親の家に電車で向かった。有希子の実家は二十キロ離れた隣接する県にある。もしこのとき剛志が家にいたならば、間違いなく引き止めたか、そうでなければ車を使うのは止せと伝えただろう。実家に到着した有希子は、母親と共にお茶を楽しみ、一息入れてから実家を後にした。一瞬さっき来た電車での移動を考えたが、母親は足腰が弱って来ている上に、手作りのケーキだの聖への贈り物だのと手荷物がかさ張ると主張する母親の言葉によって、亡き父が遺した軽自動車での移動を選んだ。年老いた母親が運転するのでなければ大丈夫だと信じたのだ。母親を助手席に座らせて、有希子が運転席に座り、イグニッションキーを回した。

 夫は、母親が運転する(・・・・・・・・)が事故に遭うのだと言った。だが、自分が運転する車なら事情は違う。注意を怠らなければ何も起こらない。これなら夫が言う“運命のシナリオ”を変えることができるはずだ考えたのだ。だがやはり、より過酷なシナリオの変更が行われた。

高速道路に乗り、快調に十キロほどを飛ばした。軽快に走った県境の辺りで前方に渋滞の後部が見えた。有希子は減速して後続車に渋滞を知らせるためにハザードランプまで点滅させた。母娘が乗る車のすぐ後ろには大型の長距離トラックが百メートルほど離れてついていたのだが、九州からの健康食品を大量に積み込んだトラックの運転手は、あいにく前日からの無理が祟って眠気に襲われている最中だった。前方の車の点滅がぼんやりと滲んで目に入ったときには、すでに三十メートルを切っていた。慌ててブレーキに右足を移動させるのにコンマ一秒。右足を踏み込むのにさらに同じ秒数。トラックが制動しはじめたときにはすでにトラックの鋼鉄のバンパーはハザードランプにめり込み、次の瞬間には小さな車の後部を完全に破壊しながら突き飛ばしていた。軽自動車は運転席を前に傾きながら、玉突き状態でさらに前でのろのろと進んでいた乗用車に突っ込んでトラックもろとも数珠つなぎになったまま数十メートル移動して止まった。有希子は母親もろとも激突事故に遭い、即死した。有希子の母親は即死を免れたものの、三日後、意識を取り戻さないまま、やはりこの世を去った。

 こうして、今世では剛志は妻を失い、聖は母親を失った。次の人生では、聖はもう無用な言葉を漏らさないだろう。だが、一旦変わってしまったシナリオは、おそらく元には戻らない。聖の発言の有無にかかわらず、妻はいずれ亡くなる運命という筋書きに変わってしまったはずだ。もし、これをまた変更しようとするならば、より一層悲惨なシナリオが生まれることになるだろう。

 剛志の父親も、同じような運命を背負っていた。つまり、剛志と同じように、自分の人生を何度も何度も繰り返し続けていたし、それを剛志と共有していた。だが、剛志の母親はそうではなかった。つまり、この奇妙な能力は、青山家に伝わっているものであり、外から入ってきた人間にはないものなのだ。剛志の父親は早死にし、その兄弟たちも早くに逝ってしまっているので、運命を分かち合える人間は、もはや息子しかいない。この世には、もしかすると同じような種類の人間がいるかもしれないのだが、探す手立てがない。自分たちもそうしているように、信じてもらえない話を、証拠のない話を、誰かにすることができない以上、剛志父子のような人間が表面に浮上してくるわけがないのだ。


怪我を消毒してくれている知子の顔を眺めながら、聖はとても愛おしく思った。母親を失ってまだ一年経たない聖にとって、知子は母親のような存在に見えていたのかもしれない。聖は思った。この人を、先生を失いたくない。聖は知子先生に来週何が起きるかを覚えている。先生が使っている電車が、来週月曜日の朝、脱線事故を起こす。いつも第一車両に乗る先生は、死は免れるが瀕死の状態になって病院に運ばれる。頭を強く打つという大怪我に見舞われ意識不明という最悪の事態に陥る。長期にわたる休養を必要とし、結果幼稚園を去ることになる。そして聖の人生から消えてしまうのだ。この先生をあの事故からなんとか救いたい。その思いは、幼稚園児が先生を慕う気持ちからだったろうか。それとも、大人の記憶を持つ子供が、知子に恋をしてしまったからなのだろうか。

「先生、あのね」

ついに聖は口を開いた。

「なぁに、聖くん」

「先生、来週月曜日、いつもの電車に乗らないで」

「あら? どうして?」

「どうしても! お願い、先生、来週の月曜日だけは、電車をひとつ遅らせて!」

「どういうこと? 電車が事故でも起こすっていうの?」

「……うん……」

「まぁ、恐ろしいこと。わかった。聖預言者の言うとおりにする!」

 翌週、石原知子はいつもより早く家を出た。子供が言うことを完全に信じたわけでもないが、なんとなく気持ち悪いと思い、とりあえず一つ早い電車に乗ることにしたのだ。二十分早い電車は滞りなく目的地まで知子を運び、いつもより早めに着いた知子は、普段ならバスに乗り換えるところを、時間ができたからと思って歩いて幼稚園に向かった。駅前から少し離れたところにある小学校へと向かう生徒が横断歩道を渡っている。信号が青から赤に変わろうとしているときに、ひとりの子供が飛び出した。信号が完全に変わってしまうと同時に、子供は知子がいる側に渡り終えようとしたが、直前で靴が脱げた。取りに戻る子供。青信号にフライング気味の大型車が右手から左折して来る。危ない、轢かれる! 知子は無我夢中で道に飛び出して子供の身体を掴んだ。子供を引き戻す反動で知子の身体は道路に吸い込まれるかたちになり、そこへ大型車が突入してきた。

 通勤で慌ただしい時刻、公衆が見ている前で起きた惨劇。子供は知子に突き飛ばされたためにできた軽い打撲で済んだが、助けに入った幼稚園教師石原知子二十三歳は、大型車の下敷きになって即死。この日、この街で起きた最も大きな事故だった。知子が乗った電車の次の電車も、その次の電車も、何事もなくいつも通りのダイヤをこなした。


「知ちゃん、どうしたの? ママのお顔に何か付いているの?」

知子は三歳になったばかりだ。知子の目の前で玩具のピアノを鳴らしている母親を眺めているうちに、不思議な気持ちになった。あれぇ? ママのことを、ずーっと前から知ってるような気がするぅ。ママの顔を見ているうちに、涙が込み上がってきた。

「ママぁ、死なないで」

「なぁによ、変な子。なんでママが死ぬのよ」

「ううん。いつかずーっと先の話」

 知子は、もっと小さいときから、まだハイハイさえできないうちから、なんでこんなところに寝たきりでいるんだろうって思ったりした。頭の上でぐるぐる回っているカラフルなモノ。これも見たことがある。それを誰かに伝えたいのに、あーとかうーとかいう言葉しか出ない。その上、手足も思うように動いてくれない。なんなのだ。どうなったんだろう、私の身体は。知子は、寝返りをうつことだけに意識を集中した。

数ヶ月か、数年か、いつの間にか時が流れた。記憶は、というか意識はとぎれとぎれだ。はっきりとした意志があるかと思えば、ぼんやりとしているうちに月日が過ぎている。はっきりと不思議な感覚を自覚したのは三歳を過ぎてからだ。

 幼稚園に通うようになって、明確に懐かしさを覚えた。どうして私は子供たちの中にいるの? 私はあの先生のようにオルガンを弾いていたはずなのに。私、こういうの覚えている。運動会で号令かけたりもしていたし。しかし、みんなと遊んでいるといつしか没頭して、奇妙な考えも忘れてしまう。

 やがて小学生になり、中学生になっていく中で、何度も何度も記憶の断片を思い出した。これ、前に同じことがあった。知ってる、このあとどうなるのか。このお友達、もうすぐ病気になるわ。高校生になると、はっきりと毎日が体験済みのことばかりであることがわかってきた。この先、短大に入って、幼稚園の先生になることも。幼稚園で過ごした日々も。だが、その先が見えないのだ。なぜだかわからないが、幼稚園に何年か勤めることまではわかっている。だけどその先が見えない。

 短大を出て、幼稚園に務めるようになって三年目の春。青山聖という子供が入園してきた。私、この子を覚えている。知子は思った。もちろん、他の園児たちのことも入園前から知っていたのだが、なぜか青山聖のことはより強く覚えていた。なぜ? いったいどういうこと? そうだ、この子、私に何か大事なことを言うんだわ。いつ? 運動会。そうだ、運動会の後だ。いや、運動会の練習の後? 知子は混乱した。なんで私、こんなことを知っているんだろう。妄想? 頭がおかしいのかしら?

「聖くん!」

まだ五歳の子供をつかまえて問いただしたい気持ちになった。

「なぁに、知子先生?」

 あどけない子供の表情に、知子は我に帰る。

「ご、ごめん。なんでもないの。さぁ、お外で遊びましょうね」


 青山剛志は、自分と自分の子供だけに前世の記憶があること、そして同じ人生を繰り返していること、その事実は知っているが、なぜそんなことになったのかはわからない。いつからかそうなったのではない。何万回も同じ人生を繰り返しているらしいことだけを自覚しているのだ。他にも同じような人間がいるのだろうか。あるいは、何かのはずみで同じような運命を背負わされる者がいたりもするのだろうか。インターネットで検索しても、

 自分と同じ様な人の話は一切出てこない。出てくるのは、生まれ変わりだとか、輪廻だとか、そういう類の話ばかりだ。もし、このような人生を研究している学者がいたら、いろいろ聞いてみたいのに。そうでなくても、同じような人間が他にもいるのなら、相談したいことが、共有したいことが山ほどあるのに。

 俺は俺の人生のことは何万回分も知っている。だが、俺が生きた時代のほかはどうなんだ? 俺が生まれる前の時代に、俺みたいな人間はいたのか? ああ、親父や祖父や、その前のご先祖たちがいたのだな。彼らは彼らの人生を何度も繰り返しているのだな。では俺が死んだ後の人生は? そうか、それは聖に聞くべきことか。だが、聖が死んだ後の時代は? 聖にも子供ができると言っていたな。永遠に繰り返される人生。それがいいことなのか、良くないことなのか。それさえもわからない。誰にもわからない閉じられた時間のループ。世の中のすべての人は、自覚もなく自分だけの人生を永遠に繰り返しているのだろうか。答えは、誰にもわからない。こんなことを問うこと自体が不毛なのだ。

 剛士は思う。俺だけじゃなく、すべての人が同じ人生を繰り返していてもいい。でも、できれば、俺も自覚のない人間でいたかった。すべての記憶が残ったまま繰り返されるのは、あまりにも痛い。


 頭上に紺碧の果てしない空間が広がっている。五十億年前、太陽系宇宙が生まれるさらに以前から存在しているとされる大宇宙は、ちっぽけな人間にとっては神秘以外の何ものでもない。だが、空を見上げているだけで、人類は何か遠いふるさとを見ているような、懐かしくも癒される想いに駆られる。近世が輝き、数々の星が瞬くいつもと同じ夜空。だが、まもなく訪れる異変の兆しは、すでに電子望遠鏡の先に見えていた。

西暦二千五十五年、ある天体が太陽けの中心に向かって吸い寄せられるように動いていた。彗星エビルと名付けられた逸れ星。過去にも何度か、同じような話はあった。エレーニン彗星が太陽に激突するとか、ニビルという外惑星が地球に衝突するとか、一部のマニアの間で騒がれもしたが、そのような話はすべて戯言にしか過ぎなかった。だが、彗星エビルについては違う。もはや誰も触れることのできない驚愕の真実であった。世界中の天文学者が競って計算し尽くしたが、どの学者が出した結果もまったく同じものだった。我らの母なる恒星太陽への激突と、太陽系すべての消滅。つまり、太陽もろとも、人類は滅亡するという結果だ。それはすべての人類が逃れることのできない未来なのだ。他の太陽系へ移住して生き延びるというアイデアはあったが、残念ながら、この時点ではまだ、大量の人間が太陽系から外に出るだけの技術を、人類は有していなかった。

 ところが、アインシュタイン博士の研究の流れを継ぐオーストラリアの学者が、ブラックホールの研究から、擬似的にワームホールを生み出す技術を発見していたことがわかった。ワームホールとは、タイムマシンの原理となるとされる考え方であるが、それはあくまでも机上の理論に過ぎないと言われてきた。だが、オーストラリアの田舎町で地道に研究を続けていたワーロックという若い無名の研究者が、二年前に小さなワームホールを作り出していたのだ。これを知ったアメリカのNASAがワーロックを迎え入れ、研究にテコ入れをした結果、地球規模を飲み込むほどのワームホールをつくることが、理論上はできるということが判明した。

 二千五十五年九月某日。米国ネバダ州南部にあるエリア51と呼ばれているアメリカ軍基地からさらに二十キロ南南西。ここに設置されたNASAの緊急基地では、世界各国の学者たちが集まり、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。オリンピックスタジアムの三倍はあろうかと思われるドーム型の大きな空間に、六本の巨大な金属製の柱が打ち立てられている。六本の金属宙の中央部には、地上から三十mほどのところに電磁波が作り上げた球体が浮かんでいる。落雷に匹敵する百メガボルトもの電圧によって作り出されている電磁球だ。電圧は、この基地が保持できる限界にまで達している。若きワーロック博士の目の前には金属製の函に収められた銀色のボタンが顕にされている。これは電磁球に供給されている電圧が一瞬にして閉ざされる死のボタンだ。これを押すことによって、百メガボルトの電圧が一瞬にして零になり、電磁球を形成している電界が消滅する。そのときの反動で電磁球は、地球全体を飲み込むワームホールに変わるという。

 失敗するかもしれない。だが、失敗したからといってどうなるのだ。まもなく、今月の終わりには彗星エビルが太陽系に突入し、間違いなく人類は滅亡する。失敗すれば、その時をじりじりと待つだけのことだ。では成功すればどうなるのか。実はそれも誰一人として説明できるものはいない。前代未聞、人類最初で最後の大実験なのだから。しかし少なくとも、現在地球が置かれている悲劇から逃れる事ができるであろうことだけは事実だ。人類は地球もろとも違う次元に飛ばされるのか、あるいは過去か未来へタイムスリップするのか。ワーロックは、右手をボタンにかけたままアメリカ大統領の合図を待った。大統領は側近や周囲に立つ世界的科学者、軍最高司令官と、順番に見渡す。うなづく者、静かに眼を閉じる者、天井を凝視している者、額に浮かぶ汗を思わず拭う者。大統領がワーロックの瞳を遠くから覗き込む。そしてゆっくりとうなづいた。ワーロック博士は静かに銀色のボタンに手を伸ばす。一秒が数分、いや数年にも及ぶかと思われるようなスローモーション。ワーロック博士の手が銀色のボタンをしっかりと押し込んだ。

 電磁球は突然圧を失った。そして反動で球体が裏返った。目の眩む光。七色の色彩が一瞬にしてディゾルブして色を失う。次に生まれた真っ白な世界がすべてを包み込む。もはやワーロック博士も、基地も、モハーべ砂漠も、何もかもが白い光の虜となった。

 ワームホールが生まれ、地球が飲み込まれた。そして、何億年にもわたる地球規模でのリピートがはじまった。

                                了

最後の最後にSF調になるけれども、日常の中の異次元を伝えたかったのです。

これは実体験に基づくもので、私自身、今もこの世界を何度もさまよい続けているのです……(嘘)

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