ジングルベル
十二月のカナディアン・ロッキーは、一面の銀世界であった。
深い森の谷間を縫うようにして流れる幅六メートルほどのクリークは、両岸から二メートルほどが凍り付いていた。しかし、その速い流れのため、中央部は凍結を免れ、冷たい水の奔流を作っている。クリークの両岸には、グリズリー、ウルヴァリンなどの獰猛な肉食獣やキャリブーやムースなどの大型草食獣をはじめとする、様々な野生動物の足跡が散らばっている。
クリークの一方の岸は、僅かな川原のあと森林に続いている。もう一方は、二十メートルほどの小高い丘の斜面となっている。斜面には、大型獣が通ったと思われるジグザグの道が刻まれていた。 野生動物の足跡が散らばる川原には、鮮やかなブルーのチューブ式テントが張られていた。焚き火がテントの入り口から二メートルほどのところに設けられ、火のそばに置かれた金属製のポットから湯気が上がっていた。
ガラスのように固く澄んだ早朝の空気は、冷気によってさらにその固さを増しているが、降り積もった雪によってクリークの流れの音さえ響かすことはなかった。周囲は静寂が支配している。鳥の鳴き声すら聞こえない。
雪を踏み崩す音と共に、斜面から男が一人下ってきた。
全身を純白の防寒服で包み込み、頭部も額のあたりまで巻き上げた純白の目出し帽で覆っていた。無精髭を白く凍りつかせた顔からは、年齢や国籍を特定し難い茫洋とした雰囲気が漂っている。無精髭に混じる、氷とは別の白いものが、男の年齢が見た目ほど若くはないことを物語っていた。
男の、雪の斜面を下る確かな足元は軽く無駄がなく、猫族のそれを思わせた。ボクサーのように痩せてしなやかな身体つきは、防寒服のために外見からは窺い知ることは出来ない。さりげなく周囲に向けられる視線は、猛禽類のように鋭かった。
クリークから突き出た石を身軽に伝って対岸へ渡った男は、銃口を上にして左肩から吊っていたスコープ付きライフルを、チューブ式テントの脇に立てかけた。七ミリ口径の、ウィンチェスター・モデル七〇の改造銃であった。長時間冷気に曝された銃は、暖かな空間にそのまま入れると、スコープの内部が水蒸気によって曇ってしまう。銃口は雪の侵入を嫌って、コンドームを被せて輪ゴムで止めてある。
男は、防水処理がされた純白のオーヴァー・グローヴと、その下につけていたグレーのフリースのグローヴを外してテントの中に放り込んだ。
ライフルを取り上げると弾装の裏蓋を開いて、四発の実包を抜いた。鉛の弾芯にアルミのキャップを被せた、シルヴァーチップ・ホロウポイントだ。極寒の地では、火薬の燃焼速度が鈍る。したがって、男は極寒地用に火薬量を増した実包を手詰めしていた。
男はボルトを操作して、薬室に装填されていた実包も抜いた。防寒服の上着の右ポケットに入れてあった弾薬サックに弾頭を下にして差し込んだ。弾薬サックはポケットに戻す。
機関部や引き金の動きを確かめるように、数回空撃ちする。常に零下の気温に曝される環境では、通常の潤滑用のガン・オイルは凍結したり粘度が増してしまい、作動部の動きに影響を与える。男は、ケロシン系のホーニング・オイルをテントの中から取り出し、機関部に注した。
数回のボルト操作と、空撃ちを繰り返した。ポケットから弾薬サックを取り出すと、サックを雪の上に置いて、ライフルのボルトを開放する。排莢口から手詰めした七ミリ・マグナム弾を挿入して、ボルトを閉じた。さらに銃を裏返すと、弾装の裏蓋を開いて 四発の実包を装填した。安全装置をかける。
男は、ライフルをテントから一メートルほど離れたところに、スコープを気遣いながら静かに横たえた。テントの中に頭を突っ込むと、グローヴを着けてテントの中身を引っ張り出した。大型のザックに少量の衣服を突っ込み、固く小さく巻き込んだ寝袋も入れる。最後にテントを畳んで押し込むと、ザックの口を閉じた。
焚き火に近づくと、湯気を吹き上げるポットからシエラ・カップにコーヒーを注いで、ゆっくりと飲んだ。残ったポットの中身は、焚き火にかけた。さらに周囲の雪を焚き火に放り込み、完全に焚き火を消した。ポットとカップは、ザックのサイド・ポケットに仕舞った。
男は、ザックをその場に残すと、ライフルを取り上げ左肩に吊った。再び飛び石を伝ってクリークを渡り、丘の斜面を登り始めた。腰近くまで積もった雪のため、膝を高く上げてラッセルする。かなりの角度がついた斜面を直線的に進んだ。
丘の頂上付近には、雪を被った巨岩があった。周囲には、疎らに潅木が生えている他には何もなかった。丘の向こうは、十数キロメートルに渡って盆地状の平らな地形が広がっている。点在する森林を縫うように雪原があり、野生の大型草食獣とは明らかに違う、U字型をした足跡によって踏み固められたトレイルが刻まれている。
男は、巨岩とその直ぐ脇に生える潅木の間に蹲った。そこは、雪を掘って僅かな窪みがつけられており、地面には純白の毛布が敷かれている。防寒服の上着の左ポケットから、カール・ツァイス製の小型双眼鏡を取り出すと、毛布の上に腹這いになった。ライフルは傍らに静かに横たえた。スコープに影響が出ないように、銃床を雪に埋めて固定した。
背後の山脈の上に太陽が登った。周囲の雪が乱反射して、眩いばかりの光が溢れる。男は胸のポケットからサングラスを取り出すとかけた。ミラー・タイプのレイバンであった。
双眼鏡を覗き込み、約一キロメートル先のトレイルに焦点を合わせた。トレイルはそこで森林を回りこみ、男の位置からやや左方向へ斜めに進む。そこから約四百メートル進むと、左側、つまり男から見て右側に現れる巨岩を迂回して、男と正対するように道筋を変える。
男は左腕の袖を捲って、ストッカー・アンド・エールの、発光トリチウムのカプセルを埋め込んだ腕時計を見る。九時四十七分であった。発光トリチウムは自ら発光するから、暗所での長時間の作業でも時間を見誤ることはない。
倍率の高い双眼鏡を長時間覗くことによる眼の疲労を避けるために、男は約十分おきに、数分間双眼鏡から目を離した。一時間ほど、眼を休ませる以外は身じろぎ一つせず、男は雪原の彼方を監視しつづけた。
双眼鏡を覗き続けていた男の顔に、ふっと笑いが浮かんだ。形の良い唇が窄められ、「ジングルベル」の軽快なメロディが流れ出てきた。森林の翳から数頭の馬を引き連れた人影が見えたのだ。先頭に人間が乗った馬、後ろに食料などの荷物を積んだ三頭の馬が続く。
人影は、派手な赤い毛織の防寒服を着込んだ、鼻下に黒い髭を蓄えた巨漢であった。盛り上がった頬の肉が、下から眼を押し上げ、糸のように細くみえる。森林を回り込んだところで、ほぼ正面から太陽光線を浴び、あわてて黒いセルロイド・フレームのサングラスをかけた。
人影を認めると、男はライフルを引き寄せ、銃口のコンドームを取り去った。自分の目の前に静かに横たえる。僅かに右へ身体を傾け、コンドームの滓を仕舞うと共に左の胸ポケットからタバコとライターを取り出して火をつけた。男は、タバコを吸うことなく、左腕をいっぱいに伸ばしたところに吸い口を下にして、雪の上にタバコを立てた。タバコとライターは元のポケットに仕舞う。
立ち上る煙の行方と、双眼鏡を交互に見る。再び「ジングルベル」のメロディが、男の唇から流れ出てきた。タバコの煙は、風向きやその強さを測る目安だ。ライフルのスコープを覗き込み、巨岩に焦点が合っていることを確認した。ライフルは、六百メートルで五センチメートル以内に集弾するよう、着弾修正してある。
男は、素早く両手のグローヴとサングラスを取ると、右ひじの脇に置いた。ライフルの銃床を左肩に押し付け、スコープを覗き込んだ。巨岩の、人影が現れると思われる場所に、仮想の標的を置いてライフルを構える。右腕にスリングを巻きつけるようにして、銃身を支えている。頭から右足を直線になるように伸ばし、左足を折り曲げて体の脇に突き出した、いわゆる伏射の姿勢だ。
馬に乗った人影が、約六百メートル先の巨岩にかかった。数秒、男の視線から人影が消えた。男の口笛が止んだ。射撃に影響を及ぼさないよう、口を開いて、細く深く呼吸する。スコープを覗き込む眼は、瞬きを止めていた。
人影が岩陰から現れる。男は、人影の臍のやや上にスコープの十字線を合わせた。射手が標的よりも高い場所から射撃する、撃ち下ろしの場合、弾丸は狙ったところよりも上を進むから、このまま引き金を落とせば、胸の真中に命中するだろう。
スコープの十字線は、男の掌から伝わる脈拍の影響で、標的の上で震える。標的までの距離が長いから、十字線の中心は人影の頭付近までブレる。男は、吐き出していた息を途中で止めた。十字線の震えが小さくなり、やがて静止した。
男は、半ばまで絞っていた引き金を、静かに落とし込んだ。発射音は、雪に吸収されて短く乾いていたが、衝撃波で銃口の前の雪が、視界を塞ぐほど舞い上がる。巨岩と潅木の雪もショックで男の上に落下した。
男は、視界や落下してくる雪を気にすることなく、素早く身体を捻った。その反動を利用してボルトを操作し、空薬莢を排出すると共に、次弾を薬室に送り込んだ。素早く元の姿勢に戻り、スコープを覗き込む。
馬上にあった人影は、雪の上に落下してピクリともしなかった。人影が乗っていた馬は、パニックを起こして竿立ちになっている。後続の馬たちは、何があったのか分からないようで、その場に佇んでいた。そこまで確認すると、男は傍らに放り出してあった双眼鏡を引き寄せた。
標的の人影は、手足を広げて俯けに倒れていた。背中の真中に、直径二十センチメートルほどの擂鉢状の射出口が開いていた。高速回転しながら命中したシルヴァー・チップ弾が、マッシュルーム状に潰れながら体内を通過した結果である。
男は、身体を起こすと、ライフルに安全装置をかけて、傍らに静かに横と会えた。体の下の毛布を固く巻き込んだ。地面に刺してあったタバコを、完全に消して左の防寒ズボンのポケットに入れた。左の胸のポケットからコンドームを取り出すと、輪ゴムを使って再び銃口を保護した。同じポケットに、回収した空薬莢を入れた。
双眼鏡を上着の左ポケットに収めると、ライフルと毛布を取り上げて立ち上がった。銃口を上にしてライフルを肩から吊ると、丘を下り始めた。踵を地面に突き刺すようにして足場を確保するが、その動きはスムーズだ。
斜面を下りきり、飛び石を使って川を渡った。ザックのところまで戻ると、男は一旦ライフルを下ろした。銃床を下にして、右の太腿で銃身を支える。ザックの下部に、毛布をベルトを使って括りつけた。
ザックのサイド・ポケットから大型のハンティング・ナイフを取り出すと、防寒ズボンのベルトを外して、左腰の上にくるように装着した。ベルトを戻すと、ザックを一気に担ぎ上げる。ライフルを胸の前に抱くように抱えると、目の前の森林に分け入った。
森林の中は、倒木などをのぞけば、積雪は非常に少ないから歩き易い。ゆったりと歩いているように見えた男の姿は、あっという間に小さくなっていった。
「ジングルベル」の軽快なメロディが聞こえてきたが、すぐに小さくなり、聞こえなくなった。