シンデレラの物語 (中)
5、
舞踏会の当日であった。国内の適齢期――王子との年齢差も勘案し、十二歳から三十七歳までで、現在夫のいない女性すべてに招待状が送られた。
継母はぎりぎり上限に引っかからず、義姉二人も夕方あたりから開かれるパーティーへ向かうことで、満面の笑みを浮かべていた。
豪奢なドレス。さりげない装飾品。理容師まで呼び、髪も梳いて、煌びやかな姿を見せつけるように、仲むつまじく母子三人は出かけていった。
灰かぶりは留守番を仰せつかった。ご丁寧なことに、家にあったドレスや装飾品はすべて事前に隠されていた。やむをえない事情により、万が一灰かぶりが王城にまで来ることになったとしても、決して貴人の目にとまらぬよう十分な支度をさせないとする上の義姉による嫌がらせだった。
だが、そもそも灰かぶりには招待状が届かなかった。王城からの使いが現れ、きちんと名前が記された三人分の招待状だけを置いていった。
灰かぶりには舞踏会に参加する資格が与えられなかったのだと知って、上の義姉と継母はご満悦だった。自分たちがこれまで重ねてきた灰かぶりに対する風評の操作が成功したことを確信したためだ。声高に喧伝こそされていないが、王子の結婚相手を探すためのパーティーである。
とすれば、結婚相手として絶対にふさわしくない相手はそもそもの段階で取り除かれてしかるべきなのだ。
だからこそ灰かぶりは見極める以前の存在として排除された。これを喜ばずして何を喜ぶというのか。なにしろ王城で開催される舞踏会であり、手渡しされる招待状である。それが灰かぶりの手に渡りながら無視したとなれば、王侯貴族に対して失礼に当たる。これは可能であれば参加しなければならないたぐいの催しなのだ。にも関わらず灰かぶりが行かないのなら、その責が家族――特に継母に向かう危険性があった。
しかし王城そのものが灰かぶりを認めなかったのだ。ありえないとは思うが、もし王子様の結婚相手が灰かぶりになってしまったら復讐されるかもしれない。というか確実にされるだろう。
所詮は一般人に過ぎない。権力者との差は大きい。そんな危うい未来を一瞬でも予見してしまえば上の義姉が邪魔をするのも当然だった。
継母も細かく雑用を言いつけ、灰かぶりに時間を与えないようにした。余計な企みを考えさせず、行動を起こせないように。下の義姉は無関心だった。ただ灰かぶりの苦労を眺めて当然のものとして振る舞った。そんな三人にとって後顧の憂いを絶つことは必要なことだったのだ。
母子三人にとって、すべては順調だった。
ドレスもアクセサリーも招待状も何もない。そうだ、灰かぶりには何もできない。だから見送りをする灰かぶりの表情に何も浮かんでいないことに誰も気づけなかった。悔しさも悲しさもなく、ただ自動的に偽りの家族の乗った馬車を見送り、そして薄暗さを増してゆく空を見上げた。
夕陽は沈んでゆく。灯燭の色から暗紺をくぐり、やがて漆黒へと。いくらかの星と大きな月の輝きに照らされても、町並みの暗さは決してぬぐいきれない。多くの家々が舞踏会のために娘を送り出しているために、橙色の光が四角い窓から溢れては道に生まれたばかりの轍を浮かび上がらせる。
だが、どこかひっそりと静まりかえった空気だ。夜の気配が満ちていた。視線を彷徨わせれば、道の向こうの城下町は明るく、さらに王城はなお絢爛に煌めいている。夜闇をものともしない無数の篝火が王城の壁を、天高くそびえ立つ塔を、その周囲にある夜空を、皓皓と染め上げている。
向こう側の明るさとこちら側の暗さ。もう最後の馬車は行ってしまった。周囲には誰もいない。王城の警備に人手を取られるせいで警邏の兵も少なく、無駄な外出を控えるようにとのお触れも出ているからだ。
この荒涼たる夜の町の景色。まるで無人の世界に一人取り残されたよう。
お城はあんなにも明るいのに。
忍び寄る風の冷たさとが、震える灰かぶりの青白い笑みを映し出した。誰も見る者もないがゆえに、灰かぶりの凄絶な微笑みを知る術はない。
6、
そして、すっかり闇深くなった頃。長々しい挨拶が終わり、舞踏会の本領たる娘たちの品評会が始まる時刻となって、灰かぶりは家を出た。
傍らには魔法使いの女。幾度となく仕草や立ち振る舞いを練習させられたが、その成果は今日こそ発揮されるのだ。
真白い薄絹を折り重ねたような可憐さを際立たせる白いドレスに、白銀の台座にダイヤモンドがちりばめられた小さなティアラ。アレキサンドライトの石がはめ込まれた銀のネックレス。灰かぶりの長い髪はそれら気品ある装飾品の輝きに劣らぬほど黄金に波打ち、その肌の白さきめ細やかさはどんな貴族の姫よりも美しい。
指先はピンと伸ばされ、微笑みはたおやかに、薄い化粧は決して本来の美貌を損ねることなく、すらりと伸びた足はドレスからわずかに覗く。その肌色の艶めかしさと、何よりこの国では決して作ることのできない硝子の靴。
声は涼やかに。視線はぶしつけではなく。褒められれば素直に喜び、けなされれば少しだけ怒る。心の儘に正直に。そして用意された馬車はまるでカボチャのシルエットで、今の灰かぶりはそんなことを感じる自分の心が町娘のそれではないことを知りながら、ただ楽しくなって口元に笑みを形作る。
それは完全な美少女だった。
領地一つと引き替えにしてもなお足らぬ、国宝にも勝るほどの美貌と気品。
気高さすら感じさせる、なのに弱さ脆さを兼ね備えた、男を蠱惑する真なる華。
たったひとつだけ間違いがあるとすれば、ドレスの内側、その懐に隠し持たされた短剣だった。鞘は片手で外れるようになっている。いかなる用途を想定したものか、果物の皮を剥くにも使いづらそうな長さで、ささやかな月光を受けて鈍色に輝いていた。
薄い刃だ。ただ光り方に違和感があった。何かが塗られているのか、青い光をてらてらとぬめったように跳ね返す。
灰かぶりは魔法使いたちが何を望んでいるのかを知っていた。彼らがいかなる立場の人間なのかは直裁に言われたわけではないが、しかし予想はつく。灰かぶりが彼らを指して魔法使いと呼んでいるのはせめてもの浪漫だ。密偵であるとか暗殺者であるとか、そうした存在が己にありうべき幸せを運んでくるだなどと片腹痛い。
だが、魔法使いならば。この身を不遇の運命から救い出してくれる人知を越えた何かならば、闇の底に繋がっている己の未来をよりよいものにしてくれるかもしれないと期待できる。
灰かぶりは分かっている。
これから自分が行うことが、己を否応なく破滅させるかもしれないことは。
ちゃんと、分かっているのだ。
幸せになれる。その言葉にどれほどの真実が含まれているのかを。
だからこれは賭けだ。彼らが灰かぶりに一縷の望みを賭けたように、灰かぶりも自らの選択に未来のすべてを賭けた。
王子を殺すことに成功したとしても、彼らが約束を守るとは限らない。
でも、だからこそ。
そろそろと息を吐いてから、灰かぶりは目をつむり、これからのことを想像した。轍に引っかかってか道の小石を踏みつけたか、何度となく揺れる車内。その乱暴な振動にゆるりと揺蕩いながら、見たこともない鮮やかな煌めきを、まぶたの裏に思い描き続けた。
段取りは決まっている。
黒衣ではなく、まるで貴族めいた豪奢な正装をした矮躯の男が御者となって馬車を走らせている。その後ろ姿と帽子とを車窓から眺め、灰かぶりは隣に座り、己の長い髪を優しく梳る魔女の声を聞いた。王子の思惑がどうであれ、真意がどうであれ、灰かぶりは必ず舞踏会の中心となるだろう。
そのために遅れて行くのだ。
注目を浴びて、他の参加者から無視できないような存在感を発揮して。王子ではなくその周囲が灰かぶりに声を掛けるだろう。
己の相手として求める者もいれば、王子に取り入るための道具として見る者もいるはずだ。すべては前座に過ぎない。
ダンスの相手を請われても断り続けなさい、と魔女は言い添えた。たったひとり、あの王子だけが目的なのだから。
灰かぶりはひとつだけ尋ねた。短剣はいつ使えば良いのかと。
確実に狙えるのであれば、いつでも良いと魔女は答えた。ほんのわずかにでも傷を付ければ、王子は生きながらえることはできないはずだ。それは永遠の眠りを与える魔法の薬なのだから。
けれど、と付け加えられた。真に見初められたなら、王子はあなたを誘うでしょう。一夜の相手としてか、あるいは本当に結婚を望むのかは神のみぞ知るかれど、情けをくれるに違いないと。
灰かぶりははにかむように笑った。逃げるときは、どうすれば。
魔法使いが近くに控えているわ。ことが成ったのなら、行き先に導いてくれる。
この問答が夢だったのではないかと思うほどに、交わされる言葉は静かだった。お互いの声は夜の空気に溶けていくようだった。やがて二人は黙り込んだ。
もう少しで着く、と矮躯の男が告げた。
7、
舞踏会は盛況だった。盛況すぎるほどだった。
大量の年頃の娘たちが踊り、ワインを飲み干し、歓談の笑い声がさざ波のように会場を飲み込んでいる。壁際に配置された楽団の演奏の調子によって時折静かな時間ももたらされるが、おおむね騒がしいほどだった。
普段こういった場に足を踏み入れたことのない町娘も数多くいるのだ。予想されてしかるべき状況だった。ただ身分の壁を越え、同じような位階の貴族娘とばかり交流してきた若い貴族たちは、慣れない様子の女性たちの仕草を眺め、大いに楽しんでいた。
問題は王子の相手が未だ決まっていないことだった。何度かダンスの時間を設けているのだが、王子はそのたび女性に声を掛けることはせず、ただ微笑を浮かべているばかりだった。
相手は単なる貴族ではないゆえに、非礼を承知で願い出る女性はまずいないし、そもそも女性から声を掛けることははしたないとされている。遠慮を知らない世間知らずの町娘たちですら王子に近づくことに気後れしていた。
これでは何のための舞踏会なのかと、開催者や王子の周囲は気もそぞろだった。だが、大半の招待客は裏の思惑は知らないし、貴族との数少ない出会いの機会なのだ。この機に高貴な方々の目にとまろうと誰も彼もがそわそわしている。貴族の娘たちですら接近できず、王子の周りだけ空白ができていたが、他の招待客の男性にはひっきりなしに女性が集まる。
誰かの意図など無関係のことであると言わんばかりに、舞踏会の空気は暖まっていた。
そして、扉が開かれた。
舞踏会での遅参は珍しいことではない。だが、ほんの少しだけ異なることがあった。偶然にも楽団の曲が止まり、四度目のダンスが始まろうとしていた頃合いだったのである。扉の開く音はひときわ大きく響き渡り、たまさかに参加者たちの視線はその遅刻してきた人物に集中した。
煌めきが、現れた。
まさにそうとしか表現できない、美少女がそこにはいた。扉の向う側の薄暗い通路と、大量の燭台とシャンデリアによって煌々と照らされた会場の明るさ、その狭間にあって、彼女は光輝を一身に受け、また自らも輝いているようだった。
白いドレス。白銀のティアラ。色を変えるネックレスの石。
それらはすべて彼女の可憐さ、美しさを称えるための小道具に過ぎない。
若い貴族の男の何人かは、手にしたワイングラスを取り落とした。招待客である同年代の娘たちは顔を引きつらせた。年老いた大貴族であろう壮年の男性は呻くように声を漏らし、それからゆっくりと拍手を贈った。ぱち、ぱち、ぱちと最初は少なかった歓迎の音は、次第に大きく広く増えてゆき、やがて会場中に満ちた。
入り口にいた執事が、彼女の手から招待状を受け取った。
一礼し、彼女の歩みを遮らぬよう身を引いた。
彼女は一歩、また一歩と歩いた。そのたび会場中の人々が彼女のために道を空けた。この輝きを汚してはならぬと恐れるかのように。ほう、と感嘆のため息がどこからか漏れた。
ダンスの相手を求める声は彼女にはかからなかった。それは王子に対して招待客が抱いた躊躇と似ているが、しかし大きく違うことがあった。誰もが気圧されて近づけずにいた。彼女と比べられて我が身の卑小さを晒されることを恐れたのだ。誰も勝てるとは思えない。触れることすらためらうような、少女のかたちをした得難き至宝。
そうだ、皆、身の程を知っていた。知ってしまったのだ。たった一瞬、あの扉が開かれ、彼女が足を踏み出したその時点で、あの揺らめくような輝きを見てしまった。
誰も彼女に名を尋ねられなかった。
ゆったりと歩く。その仕草、その物腰、その微笑み。すべては途方もない夢のようだった。
誰も彼女に近づけず、触れられず、その美貌を、その気品を、ため息とともに眺めることしかできそうになかった。いや、ため息すらおこがましい。息を止めて、時間を止めて、ただ彼女の動くさまを目に焼き付けることしかできやしない。
楽団は手を止めたままだ。彼女に釣り合う音楽を生み出せる気がしないからだ。
だが。
不意に、ひとりの男が、声を出した。
彼女の歩みはようやく止まった。声を上げた男の前で、ゆっくりと、足を止めた。
誰あろう、王子そのひとだった。
その瞬間だ。まるで凍り付いていたかのような時が、再び動き出したのは。
「……一曲、踊っていただけますか」
「喜んで」
そして彼女は、王子の前に立った。
安堵の息を漏らしたのは誰だったか。ざわめきは蘇り、楽団の指揮者は固まっていた腕をどうにか動かすことに成功し、我に返った従者たちが床に散らばったワイングラスの破片を取り除くために駆け寄っていった。
だが大半の参加者たちは二人のやりとりに目を奪われ、身動きがとれなくなっていた。
音楽が流れ出す。
ダンスのための、スローテンポな曲だ。
しかし、誰も踊ろうとはしない。
会場の中心にぽっかりと開いた空白まで進むと、王子と少女が静かに踊り出す。リードするのは王子だった。少女は王子の望むままに動いた。魅せるための動き。
ときには王子の鼓動を感じるように身体を密着させ、離れては空気の冷たさを抱きしめ、無数の視線――好奇や嫉妬など――にも何ら痛痒を感じることはなく、ただ少女らしい無垢を感じさせるように、誰の目をも楽しませるように華やかに、艶やかに、ステップのひとつひとつさえ疎かにすることなく。
一曲分をつつがなく踊り終えると、王子は小さな声で告げた。
「静かな場所へ行きませんか」
「ええ」
巨大な静寂に押しつぶされそうな会場から、王子と灰かぶりは連れだって出て行った。まるで歌劇の一場面のごときやりとりと、その歩みを遮るものは誰一人いなかった。二人が会場の外――客間か、あるいは城の庭にある薔薇園か――に消えていくのを見届けてから、すべての参加者は声を取り戻した。二人の姿があるうちは誰も余計な音を立てることができなかったのだ。
そのえも言われぬ光景について招待客らが各に感想を口にするまで、まだ幾ばくかの時が必要だった。ただすべての女性は彼女に勝てぬことを本能的に理解してしまったし、すべての男性はあの王子の立ち振る舞いに憧憬を覚えた。
彼女をエスコートする栄誉。それは一国の王子、そしてあの王子の才覚を持ってしてようやく事足りるのだ。彼女の手を取り歩み去る一場面ひとつで、大抵の男は己が見劣りすることを悟った。自らが彼と彼女の隣に侍ることを想像するだに困難だったのだ。そして、今目の前で繰り広げられた一連の流れをいかにして完璧にこなせるかにも自信を持てなかった。
ダンスの相手をして、彼女を二人きりになれる静かな場所へと誘う。たったそれだけのことがあまりにも恐れ多く、また凄まじいことであるか。どんな高慢な大貴族の翁にも、どんな世間知らずの町娘にも、震えるほどに分からざるを得なかった。いや――ありありと思い知らされたのだ。
8、
王子と灰かぶりは言葉少なに王城の通路を歩いた。なんの偶然か、通路を行き交う使用人たちの姿は一切見えなかった。二人は、ゆっくりと歩いた。あの舞踏会の会場の熱気から離れるごとに、誰ともすれ違わないこの静けさが希少なものに思われた。だが、たとえ音が無くとも、皆が胸に秘めたる感情の大きさ強さは伝わるものだ。
誰の気配もない庭園の入り口までたどり着くと、王子は灰かぶりの顔をじっと見つめた。
最初に口を開いたのは、王子だった。
「あなたの名を尋ねるつもりはない」
灰かぶりは無言だった。無音の場所に、王子の凛とした声が響く。
殺すなら今だった。
王子の傍には誰もいない。近衛も、侍従も、誰一人この場にはいない。それは彼らが気を利かせたからではなく、王子の指示によるものだと灰かぶりには理解できた。できてしまった。王子から向けられたのは恋に浮かれた視線ではない。ましてや親愛によるものではありえず、ありうべき劣情すらも浮かんではいない。ただの好奇だ。ひとを見透かそうとする、鋭くも愉しげな視線。
「……しかし、捕らえるつもりもまた、僕にはない。あなたは僕に対する害意は無さそうだ。だけれども何か意図を持ってあの場に来た。違うか」
灰かぶりは、ほんの少しの動揺をすっかり胸の奥にしまい込んで、微笑み混じりに答えた。
「わたしは毒の刃を持っています。殺そうと思えば、いつでも貴方を殺せる」
「無理だな」
断言された。
「僕はこれでも腕には自信がある。心得のない女性に負けることはありえないし、そもそも最初からあなたには殺す気のないことは分かっている。誰かに頼まれたか? あなたからは僕に対する恨み辛みではなく、仕事のような冷たさを感じる。有力貴族の誰かが権力闘争を仕掛けてきたにしても、手段が僕の暗殺というのはいかにもお粗末だ。とすれば……隣国の密偵かな」
灰かぶりは答えなかった。
答える必要も感じなかった。何のことはない。最初から泳がされていたのだ。そして灰かぶりもまた頼まれた通りに暗殺などするつもりは毛頭無かった。この王子を殺したとして、幸せになれる保証などどこにも存在しないのだ。
最高の栄誉も、使い切れないほどの報償も、今の生活から逃げ出すための助力も、単なる口約束に過ぎない。それを信じるほど灰かぶりは愚かではなかった。王子の暗殺に成功したとしても、おそらくは口封じに殺されるだろう。
いや、口封じなど必要ない。
逃げることを助けなければそれだけで灰かぶりの人生は終わる。
あの魔法使いたちは灰かぶりの幸せを手助けしてくれると言った。そして、たった一度使うための道具に入念な準備と手入れを怠らなかった。それには感謝している。あれほどの嫉妬と羨望の視線に生まれて初めて浴びた。ひどく気持ちよかった。すべてが自分を中心に動いている感覚。そのおぞましいほどの感動は灰かぶりの人生に存在しなかったものだ。
もしかしたら、彼らの言葉は真実かも知れない。王子を殺した末に、灰かぶりが逃げることを全力で助け、違う人生をやり直すことに、彼らは本心から協力を惜しまないのかもしれない。だが灰かぶりには信じられなかった。無償の善意などありえない。あの継母や義姉と同じように、利用し、利用されるのが自分の運命だと知悉している。
灰かぶりは王子に向かって、一言こう告げた。
「わたしは幸せになりたいの」
「僕にそれを告げて、どうしたいんだ」
王子は苦笑した。まるで恋人のわがままを聞き入れるような口調だった。
「手伝って」
「僕にはそれに頷く理由はない」
「本当に?」
「ああ」
王子にとって、それは本心からの言葉だった。
しかし、灰かぶりはさらに問いかけた。
「ねえ、王子様」
「……なんだ」
「あなた、人生が詰まらないんでしょう? この舞踏会だって中止させようと思えばできたはず。恋人だって見繕うのは簡単だったでしょ。戦争もそう。何もかもがたやすくて、何にも苦労なんかしなくて、だから面白いことは無いかと思ってこんなくだらない企みを知りながら、好きにさせた。きっとあの魔法使いたちの名前も、どこに住んでいるかも、何を考えて、どこの国から送り込まれたかも、みんな知っているんでしょ」
王子は、初めて表情を固くした。灰かぶりの言葉にも、彼女の浮かべた表情にも瞠目した。
「やっぱり」
「カマをかけたのか」
「いいえ。でも、たぶんそうだろうなって思ってたからそれを確かめただけ。わたしが舞踏会に現れることだって予想済みって顔をしていたもの。外面は驚いたように見せかけていたけれど、わたしには分かった。何もかもできるってことは、何にもできないのと同じよね。つまらなくて、むなしくて、うんざりして、でもそれを自分から壊すことの愚かしさまで理解できてしまう。正解が分かってしまうって、とっても寂しいことだと思うわ」
「……どうして分かった」
「わたし、これでも年頃の女の子よ。男の気持ちくらいすぐ分かるわ」
王子は灰かぶりの言葉に、まじまじとその顔をのぞき込んだ。灰かぶりの下がったまなじりからこれが冗談だったと気づいた。悪辣な冗談だ。灰かぶりの浮かべた純真無垢な笑顔が本物か、それとも男を欺くためのものか、王子には理解しきれなかった。
「ねえ王子様、賭けをしましょう」
「……いいだろう」
「内容も聞かずに受けてしまっていいの?」
「女性の頼みは何も言わずに聞いてやるのが男の甲斐性、だそうだ」
「誰からの受け売りかしら」
「さあね。父以外の誰かだろう」
王子は、真顔で灰かぶりの瞳を見据えた。まっすぐに目を合わせると、どちらもが目をそらそうとはしなかった。
「賞品は、わたし」
「やる気が出てきた。ちなみに勝敗を決める方法は」
「……そうね。一週間以内に、わたしを見つけること」
「そんなに長くていいのか」
「これでも短いと思うわ」
どちらからともなく、くすくすと笑い声が上がる。
「もうすぐ十二時ね」
「何かあるのか」
「騒ぎが起きて、わたしはその隙に乗じて逃げ出すことになっているわ。舞踏会の終わりの時間でもある。あなたを殺せても、殺せなくても、城を離れる手はずがついているの」
「この場であなたの手を掴んで逃さない、というのは」
「ずるをして、勝負は愉しい?」
「……ははは。なるほどなるほど、これは絶対に逃せない賞品だ。どこまでが不公平かは、僕の判断にゆだねられると」
「そうね。逃げる女を追いかけることが、男にとって一番愉しいと聞いたわ。確かめてみてはどうかしら」
「いいだろう。名前はあなたを見つけたそのときに聞くことにする」
「ええ。では殿下、再びお逢いできる時が来ることを……願います」
二人はそれきり黙り込んだ。その空隙に、十二時を知らせる鐘の音が割り込んだ。
直後、ガシャン、と何かが落ちた音がした。おそらくは舞踏会の会場にあったシャンデリアだ。
誰かの悲鳴と叫び声。国の中心たる王城には似つかわしくない喧噪と狂乱の気配。どこまでが仕込みで、どこからが偶然に頼ったものかは分からないが、少なくとも策謀を待ち構えて――己の愉しみのために利用しようとしたのは王子だけではなかったに違いない。
灰かぶりを暗殺者に仕立て上げようとした者ども。彼らは暗殺の成功を願ってはいただろうし、そのために苦心し尽力を続けただろう。だが王子には分かる。陰謀とは失敗することも視野に入れて作るものだ。
成功すればそれで良し。失敗したとしても、こうして舞踏会――貴族主導の、そして王子たる彼の眼鏡にかなう者を探す趣旨を孕んだ企画に、こんな失敗が発生したとなれば醜態ところの話ではない。矜恃を傷つけられた者もいるだろう。この機を逃さず政敵を追い落とそうとする者もいるだろう。
何人がこの騒ぎのために処罰の対象となるか。会場の警備責任者はあるいは処刑される可能性もある。家族にまで責が及ぶかもしれない。そうした無数の波及を考えるに、この王国には大小様々な混乱が生まれうるだろう。
王城で行われた舞踏会に瑕疵があれば、それは傷一つあってはならぬ国家の沽券に関わるのだ。王子が死んでいれば混乱に拍車を掛ける羽目に陥ったのは間違いない。そしてそれらすべての危険性を把握しながら、王子は自分の興味ゆえに見過ごしたのだ。
あの名も知らぬ少女はいかなる想いでこの場にいたのか。
どれほどの覚悟と決意を抱えて自分の前に立っていたのか。その感情を思い浮かべるだけでも王子は邪な享楽に長らく浸れた。あんな人間がいるとは思わなかった。知らなかった。それを知ることができただけでもこの舞踏会は意味あるものだった。そして賭けに興じるのだ。己が全霊を賭けて、あの美の化身たる乙女に追いすがり、雪の林に隠れ潜む狐のようにこの手で狩ってみせる。
そこに咲く華は何色だろう。
あの燃えるような唇の赤か。それとも、この王城の上に広がる闇の昏さか。
あるいは、何者にも冒しがたき肌の色か。
にわかに騒がしくなる王城で、色香に惑わされた王子は、ひとりぼんやりと立ち尽くす。守護の兵が駆けつけるまであとわずか。
彼女の姿はすでに見えない。裸足で逃げたのだろう。
王子の視線の先には、乱暴に脱ぎ散らかされた硝子の靴が落ちていた。




