『働かざる美形、食うべからず』
『働かざる美形、食うべからず』
初夏の陽光が、レンガ造りの厨房を眩しく照らしていた。
大きな寸胴鍋の中では、牛肉のシチューがことことと煮えている。
赤ワインと香味野菜をじっくり煮詰めた濃厚な香りが漂い、開け放した換気窓からは、中庭の小鳥たちのさえずりが聞こえてきた。
実に平和な昼下がりだった。
少なくとも、あの男が現れるまでは。
「――というわけだ、クララ! 君との婚約は、本日をもって破棄させてもらう!」
「……はい?」
私は木べらを動かす手を止めずに、肩越しに振り返った。
厨房の入り口に立っていたのは、金髪碧眼の美青年。
仕立ての良いベルベットの上着に、宝石を散りばめた飾り剣。まるで肖像画から抜け出してきたような美貌の持ち主。
フルーレ子爵家の嫡男、リュシアン・ド・フルーレ。
つい先ほどまで、私の婚約者だった男である。
その隣には、ふわふわの桃色のドレスを着た伯爵令嬢、アメリア様が寄り添っていた。
「クララ、聞いているのか!」
「聞いておりますとも。ですが、少々お待ちくださいませ」
「何だ?」
「今、鍋から目を離すと焦げますので」
「なっ……!」
リュシアンの美しい顔が、みるみる赤くなった。
「君は婚約破棄を告げられているのだぞ! 鍋と私と、どちらが大切なのだ!」
「今は鍋です」
「即答するな!」
私はシチューをゆっくりとかき混ぜた。
うん。いい具合に煮詰まっている。
あと少しで、肉が舌の上でほろりと崩れる柔らかさになるだろう。
ここまで三時間かけて仕込んだのだ。くだらない話で台無しにしたくない。
「それで、婚約破棄でしたか?」
「あ、ああ! そうだ!」
リュシアンは気を取り直したように胸を張った。
「王立学院を首席で卒業したこの私には、やはり高貴な血筋の女性こそが相応しい! 君のような商人の娘では、我がフルーレ子爵家の名誉に傷がつく!」
「まあ」
「毎日エプロンをつけ、粉まみれになって厨房をうろつくような女が、名門貴族の妻に相応しいと思うか?」
「思いませんねえ」
「そうだろう! ……ん?」
リュシアンが瞬きをした。
私は鍋の火を少し弱めながら答えた。
「私も、厨房で料理をしている時間が一番幸せですから。夜会で愛想笑いをするより、焼き立てのパンの香りを嗅いでいるほうが、ずっと楽しいですもの」
「そ、そういう意味ではない!」
そのとき、アメリア様が一歩前へ進み出た。
「クララ様……どうかお許しくださいませ」
潤んだ瞳。
震える唇。
胸元で組まれた白い指。
実に見事な悲劇のヒロインぶりだった。
「わたくしたち、どうしても真実の愛を諦められないのです……!」
「まあ、真実の愛」
「ええ! 身分や財産では測れない、魂の結びつきなのです!」
「それは素晴らしいことですね」
私はにっこりと微笑んだ。
「では、財産の問題もきっとございませんね」
「……え?」
アメリア様の笑顔が、ほんの少し固まった。
私は木べらを鍋の縁に置き、布巾で手を拭いた。
「リュシアン様。婚約を破棄なさるということは、我が商会からの生活支援も終了するということで、よろしいですね?」
「は?」
「毎月お届けしている食材、ワイン、衣類、調度品。それから使用人の給与補填も、本日をもって停止いたします」
リュシアンは、何を言われたのか分からないという顔をした。
「なぜだ?」
「なぜ、と申されましても」
「婚約を破棄するだけだぞ? なぜ支援まで打ち切る必要がある!」
私は思わず天井を仰いだ。
……ああ。
本当に、この人は何も分かっていない。
「我が商会がフルーレ家を支援していたのは、婚約に基づく取り決めがあったからです。婚約が解消されれば、支援も終了いたします」
「馬鹿な! 君の家は裕福なのだろう!」
「ええ。おかげさまで」
「ならば、今までどおり金を出せばよいではないか!」
「お断りします」
「なっ……!」
リュシアンは信じられないものを見るように私を見つめた。
「君は私を愛していたのではないのか!?」
「愛しておりましたよ」
「ならば!」
「ですが、婚約を破棄されるのでしょう?」
「それとこれとは別だ!」
「いいえ。同じです」
私は厨房の戸棚から、革表紙の分厚い帳簿を取り出した。
どん、と調理台に置く。
「こちらをご覧ください」
「何だ、この分厚い本は」
「フルーレ子爵家への支援記録です」
私は頁をめくった。
「最高級の仔牛肉、熟成チーズ、特級ワイン。リュシアン様がお好きな南方産の白トリュフ。それから特注のシルクシャツ、舞踏会用の靴、宝石付きの懐中時計……」
「そ、それがどうした!」
「未精算の立替金は、金貨五百枚になります」
「ご、五百枚!?」
リュシアンの声が裏返った。
「そんな大金、聞いていないぞ!」
「毎月、明細書をお送りしておりましたが」
「細かい数字など、いちいち見ていられるか!」
「そうでしょうね」
私は頷いた。
「だから、こうなったのでしょう」
「何だと!?」
アメリア様が慌てて口を挟んだ。
「リュシアン様、ご安心くださいませ! わたくしのお父様は伯爵ですもの。きっと助けてくださいますわ!」
「おお、そうだった!」
リュシアンはぱっと顔を輝かせた。
「聞いたか、クララ! アメリアの父上は伯爵なのだ! 君のような商人の娘に頼らずとも、我が家は安泰だ!」
「それは何よりでございます」
私は帳簿を閉じた。
アメリア様の実家であるベルモント伯爵家。
華やかな夜会と豪華な衣装で知られる名家だが、実情は借金まみれ。
領地収入は年々減り、複数の商会から信用取引を断られている。
先月など、我が商会にも融資の申し込みがあった。
もちろん、お断りした。
どうやら伯爵家は、娘をリュシアンに嫁がせることで、我が商会の資金を間接的に利用するつもりだったらしい。
そしてリュシアンは、伯爵家の財産を当てにしている。
……まあ。
なんとも見事な相思相愛である。
「それでは、お二人ともお幸せに」
私は深く一礼した。
「本日をもって食材の無償搬入と給与補填を停止し、未精算分については正式な請求書をお送りいたします」
「ま、待て! それでは今夜の夕食はどうなる!」
「ご自分でご用意くださいませ」
「料理人は!?」
「給与をお支払いになれば、働いてくださるでしょう」
「金がなければどうする!」
「働いて稼ぐのです」
リュシアンは心底驚いた顔をした。
「私が働くのか!?」
「ええ」
「子爵家の嫡男である、この私が!?」
「身分にかかわらず、人間は食べなければ生きられませんから」
私は微笑んだ。
「我が商会の家訓をご存じですか?」
「知らん!」
「働かざる者、食うべからず。そして、払わざる者、飲むべからず、です」
「下品な商人の理屈だ!」
「お褒めいただき光栄です」
「褒めてなどいない!」
リュシアンは顔を真っ赤にして叫んだ。
「後悔するぞ、クララ! 私ほど美しい男は、王都中を探してもそうはいない! 君は一生、私を失ったことを悔やむだろう!」
「そうですか」
私は鍋の蓋を開けた。
ふわり、と濃厚な香りが立ち上る。
「では、どうぞお幸せに。私はシチューが焦げるほうが困りますので」
「くっ……! 行くぞ、アメリア!」
「はい、リュシアン様!」
二人は肩を寄せ合い、厨房を出ていった。
私はその背中を見送り、そっと息を吐いた。
「……やれやれ」
ようやく静かになった。
木べらでシチューをひと混ぜし、小皿に取って味見をする。
柔らかな牛肉。
赤ワインの深い香り。
野菜の甘みが溶け込んだ、まろやかなソース。
「うん。完璧!」
私は思わず笑った。
さて。
これでようやく、余計な出費を気にせず、自分の店に力を入れられる。
「よーし! 今日から仕入れルートを全部見直して、美味しい食材は全部うちのお客様に届けるわよ!」
厨房の奥から、料理人たちの威勢のよい返事が響いた。
「はい、クララ様!」
こうして、私の新しい毎日が始まった。
*
それから一か月後。
王都の一等地に店を構える、我が商会直営のレストラン『ラ・クララ』は、連日満席の大盛況だった。
昼時ともなれば、店内には焼き立てのパンと肉料理の香りが漂い、客たちの楽しげな話し声が絶えない。
貴族も商人も職人も、ここでは同じように食事を楽しむ。
もちろん、値段に応じて料理の内容は違う。
けれど、どの皿にも手を抜かない。
それが私の信条だった。
「クララ様! 本日の仔羊肉のトマト煮込み、もう二十皿も出ています!」
「まあ、嬉しい! 追加の仕込みをお願いね!」
「はい!」
厨房は活気に満ちていた。
私は新しいソースの味を確かめながら、ふと窓の外を見た。
初夏の爽やかな風が、テラス席の白いテーブルクロスを揺らしている。
いい日だ。
そう思った、そのとき。
裏口の扉が、どんどん、と叩かれた。
「はーい! 少々お待ちください!」
私は手を拭き、勝手口へ向かった。
扉を開けた瞬間。
「クララァァァ……!」
何かが足元に崩れ落ちた。
「きゃっ!?」
思わず後ずさる。
そこにいたのは、泥まみれの男だった。
擦り切れたベルベットの上着。
ぼさぼさに乱れた金髪。
げっそりとこけた頬。
目の下には濃い隈があり、靴は片方の踵が取れている。
私はしばらく、その人物を見つめた。
「……どちら様でしょう?」
「わ、私だ……!」
「はい?」
「リュシアンだ! 君の愛した、麗しのリュシアン・ド・フルーレだ!」
「……まあ」
私は目を瞬かせた。
よく見れば、確かに元婚約者だった。
ただし、麗しさは随分と目減りしている。
「リュシアン様。ずいぶんお痩せになりましたね」
「それどころではない!」
彼は地面に膝をついたまま、私を見上げた。
「助けてくれ、クララ! 私はもう限界なのだ!」
「何があったのですか?」
「何もかもだ!」
リュシアンは両手で頭を抱えた。
「君の商会が支援を打ち切った途端、屋敷に食材が届かなくなった!」
「それは当然ですね」
「料理人も侍女も、給与が払われないと辞めてしまった!」
「働いた分のお給料は、お支払いしませんと」
「それだけではない! 君の商会から請求書が届いた途端、ほかの商会まで一斉に支払いを求めてきたのだ!」
私は小さく頷いた。
予想どおりだった。
我が商会が長年支援していたことで、フルーレ子爵家には十分な資金力があると誤解されていた。
その支援が打ち切られたと知れば、ほかの取引先も信用状況を見直すだろう。
ましてや、以前から支払いが滞っていたのなら、なおさらだ。
「それで?」
「父上が慌てて金策に走ったが、誰も貸してくれない! 仕方なくアメリアの実家を頼ったら……」
リュシアンは唇を震わせた。
「あの伯爵家にも、金がなかったのだ!」
「まあ」
「それどころか、借金だらけだった! 伯爵は私に『娘の夫になるなら、借金の返済にも協力してもらう』と言い出した!」
「それは大変でしたね」
「大変どころではない!」
彼は地面を叩いた。
「アメリアは毎日泣いてばかりだ! 料理もできない! 洗濯もできない! 紅茶一つまともに淹れられない!」
「そうですか」
「昨日など、庭に生えていたキノコを見つけて、二人で奪い合いになったのだぞ!」
「キノコですか?」
「ああ! アメリアが『わたくしが先に見つけたのよ!』と言い張って、私の手を引っかいたのだ!」
「……召し上がったのですか?」
「いや。庭師に毒キノコかもしれないと言われて、捨てた」
「それは賢明でしたね」
私は真顔で頷いた。
少なくとも、そこだけは正しい判断だったらしい。
「とにかく、もう耐えられん!」
リュシアンは私の足元へにじり寄った。
「クララ! 君の料理が食べたい!」
「……はい?」
「あの牛肉のシチュー! 焼き立ての白パン! 口の中でとろけるローストビーフ! それから、君が作る甘い林檎のタルト!」
彼の目が、夢見るように潤んだ。
「ああ……思い出しただけで腹が鳴る……!」
ぐうううう。
本当に鳴った。
私は思わず厨房を振り返った。
ちょうど焼き上がったばかりのガーリックトーストと、仔羊肉のトマト煮込みの香りが漂ってくる。
リュシアンの喉が、ごくりと鳴った。
「頼む、クララ!」
彼は両手を合わせた。
「もう一度、私とやり直そう! 婚約破棄はなかったことにしてやる!」
「……してやる?」
「そうだ! アメリアとは別れる! 君を再び婚約者に迎えてやろう! だから、早く何か食わせてくれ!」
私は静かに彼を見つめた。
そして尋ねた。
「リュシアン様」
「何だ!?」
「この一か月、何かお仕事をなさいましたか?」
「……仕事?」
「ええ。屋敷が困窮しているなら、働いて収入を得ようとは思われませんでしたか?」
リュシアンは、心底信じられないという顔をした。
「何を馬鹿なことを!」
「馬鹿なこと、ですか?」
「私は子爵家の嫡男だぞ! 王立学院を首席で卒業した、この私が! 平民のように汗水垂らして働けるものか!」
「王立学院を首席で卒業なさったのでしょう?」
「ああ、そうだ!」
「でしたら、書類の代筆や計算のお仕事もできるのでは?」
「そんな下働きができるか!」
「家庭教師はいかがです? 学院での成績を生かせますよ」
「貴族の私が、人に頭を下げて教えるなど!」
「では、商会の帳簿整理は?」
「商人の仕事など、まっぴらだ!」
「なるほど」
私は深く頷いた。
能力がないわけではない。
働く気がないのだ。
それなら、話は簡単だった。
「ちょうどよかったです」
「……何がだ?」
「当店では、皿洗いの人手が足りておりまして」
「……は?」
私はにっこりと微笑んだ。
「一時間働いていただければ、まかないのシチューとパンをご用意いたします」
リュシアンは固まった。
数秒後。
「さ、皿洗いだとぉぉぉ!?」
裏路地に絶叫が響いた。
「この私に、汚れた皿を洗えと言うのか!」
「ええ。お湯も石鹸もございますので、難しい仕事ではありませんよ」
「私の美しい手が荒れてしまうではないか!」
「手袋をお貸しします」
「爪が傷つく!」
「爪を短く切ればよろしいかと」
「腰が痛くなる!」
「休憩時間もございます」
「そもそも、貴族が皿洗いなどできるか!」
私は首を傾げた。
「お腹が空いているのでしょう?」
「空いているとも!」
「では、働けば食べられます」
「だから、働けないと言っている!」
「でしたら、お食事もご用意できません」
リュシアンは口をぱくぱくさせた。
「き、君は……! かつて愛し合った男を、皿洗いに使おうというのか!」
「いいえ」
私は穏やかに答えた。
「お腹を空かせている方に、お仕事をご紹介しているだけです」
「それが元婚約者に対する仕打ちか!」
「婚約を破棄なさったのは、リュシアン様でしょう?」
「うっ……!」
「それに、私はあなたを養う義務も、食事を無償で提供する義務もございません」
私は厨房の中を指さした。
「当店の料理人たちは、朝早くから仕込みをしています。パン職人は夜明け前に起きて生地をこね、仕入れ担当は市場を歩き回り、給仕係は一日中立ち働いています」
リュシアンは黙っていた。
「皆、自分の仕事に誇りを持っています。私は、その人たちの働きを大切にしたいのです」
「だ、だからといって……」
「リュシアン様。あなたはお腹が空いている。それなら、食べるために何ができるか考えるべきではありませんか?」
しばらく沈黙が続いた。
私は少しだけ期待した。
もしかしたら、彼もようやく気づくかもしれない。
王立学院を首席で卒業したというのなら、頭は悪くないはずだ。
自分の能力を生かして働けば、生活を立て直す道もあるだろう。
ところが。
「……分かったぞ」
リュシアンが顔を上げた。
「君は私を試しているのだな!」
「はい?」
「わざと冷たいことを言って、私の愛を確かめようとしているのだろう!」
「……」
「まったく、素直でない女だ! だが安心したまえ。私は寛大だ。今すぐシチューを出してくれれば、すべて許してやろう!」
私は静かに目を閉じた。
……駄目だ、これは。
王立学院の首席卒業者という肩書きが、ここまで役に立たないこともあるらしい。
「リュシアン様」
「何だ?」
「お話は終わりです」
「なっ……!」
「皿洗いをなさるのであれば、厨房へどうぞ。なさらないのであれば、お引き取りください」
「こ、この私に二者択一を迫るのか!」
「ええ」
「では、三つ目の選択肢を要求する!」
「ございません」
「即答するな!」
私は扉に手をかけた。
「それでは、ごきげんよう」
「ま、待て!」
リュシアンが慌てて扉に手を伸ばした。
「パン! せめてパンの耳だけでも!」
「お仕事をなさるなら、焼き立てのパンをお出ししますよ」
「だから働きたくないのだ!」
「では、お渡しできません」
「悪魔めぇぇぇ!」
私は扉を閉めた。
かちゃり、と鍵をかける。
扉の向こうから、しばらく怒鳴り声が聞こえていた。
「開けろ、クララ! 私は子爵家の嫡男だぞ!」
「この美貌を見ろ!」
「皿洗いなど、断じてせんからな!」
やがて、巡回中の警備兵の声が響いた。
「おい、そこで何をしている! 店の営業を妨害するな!」
「私はリュシアン・ド・フルーレだ!」
「名前は聞いていない。騒ぐなら詰所まで来てもらうぞ」
「なっ! この私を誰だと思っている!」
「だから、名前は聞いていないと言っているだろう!」
しばらく押し問答が続いたあと、足音が遠ざかっていった。
私は小さく息を吐いた。
「……やれやれ」
美しい顔というものは、確かに人を惹きつける。
けれど、顔が良いだけでパンが焼けるわけではない。
ましてや、借金が返せるわけでもない。
「さて、お仕事お仕事!」
私はエプロンを締め直し、厨房へ戻った。
*
「クララ様、お客様がお呼びです!」
給仕係の少女が顔を出した。
「どなた?」
「いつもの荷運び職人さんです。今日もシチューをおかわりしたいそうで!」
「あら、嬉しい!」
私は大きな皿に、熱々の牛肉のシチューをたっぷりと盛りつけた。
柔らかく煮込んだ牛肉。
とろりとした人参。
香味野菜の旨味が溶け込んだ、深い琥珀色のソース。
その横に、焼き立ての丸パンを二つ添える。
客席へ運ぶと、窓際のテーブルに座っていた大柄な男が、ぱっと顔を輝かせた。
「おお、クララさん! 待ってたよ!」
「今日もお仕事帰りですか?」
「ああ! 朝から港で荷物を運んで、もう腹ぺこだ!」
男は日に焼けた顔で笑った。
大きな手には、いくつもの豆ができている。
「今日は重たい木箱ばっかりでな。腰が抜けるかと思ったよ!」
「それはお疲れ様でした」
「でも、ここでシチューを食べると思えば頑張れるんだ!」
男はスプーンを手に取り、大きな肉を口へ運んだ。
もぐもぐ。
ごくん。
そして。
「くぅぅぅっ! うまい!」
店中に響く声だった。
「この肉の柔らかさ! ソースの濃さ! ああ、今日も働いてよかった!」
私は思わず笑ってしまった。
「そんなに喜んでいただけると、作りがいがあります」
「本当だとも! クララさんの料理は、明日も頑張ろうって気持ちにさせてくれるんだ!」
その言葉が、胸に温かく染み込んだ。
私は料理が好きだ。
美味しいものを作るのが好きだ。
誰かが幸せそうに食べてくれるのを見るのが、何より嬉しい。
けれど、かつての私は、その気持ちを少し忘れかけていた。
リュシアンの好みに合わせ、贅沢な食材を揃え、どれほど手間をかけても、返ってくる言葉は決まっていた。
『今日の肉は少し硬いな』
『もっと高級なワインはないのか』
『私の舌に相応しい料理を出したまえ』
美味しいと言われたことは、ほとんどなかった。
感謝されたことも、思い出せない。
けれど、今は違う。
目の前には、心から料理を楽しんでくれる人がいる。
私は、その笑顔が見たくて厨房に立っている。
「クララさん!」
男が空になったパン皿を持ち上げた。
「すまないが、パンをもう一つ頼めるかい? もちろん、代金は払うよ!」
「ええ、もちろん!」
私は微笑んだ。
「でも、今日は特別に一つおまけしますね」
「えっ、いいのかい!?」
「いつもご贔屓にしてくださっていますから」
「ありがたい! 明日も仕事を頑張れそうだ!」
男は嬉しそうに笑った。
私は厨房へ戻りながら、ふと思った。
料理は、誰かを支配するためのものではない。
恩を売るためのものでもない。
美味しいものを食べて、元気になって、また明日を迎える。
その小さな幸せを届けるために、私は料理を作っているのだ。
*
それから数日後。
フルーレ子爵家について、少しばかり噂が届いた。
屋敷の一部が売却され、残された使用人も大幅に減らされたらしい。
ベルモント伯爵家との縁談も、借金の問題を巡って破談になったという。
そしてリュシアンは、ついに父親から生活費の支給を打ち切られたそうだ。
「働かない者に食わせる飯はない!」
そう宣言されたとか。
……まあ。
どこかで聞いたような言葉である。
さらに驚いたことに、リュシアンは王立学院の恩師を頼り、書類の代筆を始めたらしい。
最初は散々文句を言っていたものの、背に腹は代えられなかったのだろう。
文字が美しく、計算も正確なので、仕事そのものは意外と評判が良いという。
もっとも、初めて受け取った報酬を見て、
『たったこれだけか!』
と叫んだそうだ。
それを聞いた恩師は、
『では、もっと働きなさい』
と答えたらしい。
私は思わず吹き出した。
王立学院の首席卒業者。
容姿端麗、家柄も申し分なし。
そんな彼が、今さらながら働くことを覚え始めた。
少しは世の中の仕組みを理解できるようになるかもしれない。
けれど、それはもう私には関係のない話だった。
私は私の仕事をする。
彼は彼の人生を生きる。
それだけのことだ。
*
その日の夕方。
最後のお客様を見送り、私は厨房で明日の仕込みを確認していた。
大きな鍋には、黄金色に澄んだコンソメスープ。
じっくり時間をかけて引き出した肉と香味野菜の旨味が、湯気とともに立ち上っている。
私は小さなスプーンで味見をした。
「……うん。美味しい」
思わず頬が緩む。
厨房の奥では、若い料理人たちが明日の献立について楽しそうに相談していた。
誰かがパンの焼き加減を尋ねる。
別の誰かが、新しいソースの案を出す。
それぞれが自分の仕事に誇りを持ち、より良い料理を作ろうとしている。
私はそんな光景が、たまらなく好きだった。
「クララ様!」
給仕係の少女が顔を出した。
「明日も予約でいっぱいです!」
「まあ、本当に?」
「はい! それから、今日のシチューがとても美味しかったと、お客様からお手紙をいただきました!」
「嬉しいわねえ」
私は手紙を受け取り、そっと胸に抱いた。
かつて私は、顔が良く、身分が高く、華やかな世界に生きる男性こそが、素晴らしい結婚相手なのだと思っていた。
けれど、今なら分かる。
美しい顔は、確かに素敵だ。
高貴な血筋にも、長い歴史があるのだろう。
でも、それだけではお腹は膨れない。
誰かが畑を耕し、誰かが小麦を挽き、誰かがパンを焼く。
誰かが荷物を運び、誰かが店を掃除し、誰かが料理を作る。
そうやって、たくさんの人の働きが重なって、ようやく一皿の料理が食卓に届くのだ。
だから私は、働く人が好きだ。
自分にできることを見つけ、誰かのために手を動かす人が好きだ。
そして、そんな人たちに、美味しい料理を届けたい。
「さて!」
私はエプロンの紐を結び直した。
「明日も忙しくなるわよ! みんな、今日はしっかり休んでね!」
「はい、クララ様!」
元気な返事が厨房に響く。
窓の外には、初夏の夕焼けが広がっていた。
私はもう一度、コンソメスープを味見した。
ああ、なんて美味しいのだろう。
自分の手で作り、自分の力で稼ぎ、自分の好きな人たちと分かち合う食事は、どんな高級な夜会のご馳走よりも、ずっと幸せな味がする。
そういえば、あの人は最後まで、自分の美貌に値段をつけようとしていた。
けれど、残念ながら。
当店では、美貌でのお支払いは受け付けておりません。
私はくすりと笑い、厨房の明かりを一つ落とした。
明日も、美味しい料理を作ろう。
働いて、お腹を空かせて、幸せそうに笑う人たちのために。
だって、我が商会の家訓は昔から決まっているのだから。
――働かざる美形、食うべからず。
そして、働いたあとのご飯は、何よりも美味しい。
――完――




