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『働かざる美形、食うべからず』

掲載日:2026/10/31

『働かざる美形、食うべからず』


 初夏の陽光が、レンガ造りの厨房を眩しく照らしていた。


 大きな寸胴鍋の中では、牛肉のシチューがことことと煮えている。


 赤ワインと香味野菜をじっくり煮詰めた濃厚な香りが漂い、開け放した換気窓からは、中庭の小鳥たちのさえずりが聞こえてきた。


 実に平和な昼下がりだった。


 少なくとも、あの男が現れるまでは。


「――というわけだ、クララ! 君との婚約は、本日をもって破棄させてもらう!」


「……はい?」


 私は木べらを動かす手を止めずに、肩越しに振り返った。


 厨房の入り口に立っていたのは、金髪碧眼の美青年。


 仕立ての良いベルベットの上着に、宝石を散りばめた飾り剣。まるで肖像画から抜け出してきたような美貌の持ち主。


 フルーレ子爵家の嫡男、リュシアン・ド・フルーレ。


 つい先ほどまで、私の婚約者だった男である。


 その隣には、ふわふわの桃色のドレスを着た伯爵令嬢、アメリア様が寄り添っていた。


「クララ、聞いているのか!」


「聞いておりますとも。ですが、少々お待ちくださいませ」


「何だ?」


「今、鍋から目を離すと焦げますので」


「なっ……!」


 リュシアンの美しい顔が、みるみる赤くなった。


「君は婚約破棄を告げられているのだぞ! 鍋と私と、どちらが大切なのだ!」


「今は鍋です」


「即答するな!」


 私はシチューをゆっくりとかき混ぜた。


 うん。いい具合に煮詰まっている。


 あと少しで、肉が舌の上でほろりと崩れる柔らかさになるだろう。


 ここまで三時間かけて仕込んだのだ。くだらない話で台無しにしたくない。


「それで、婚約破棄でしたか?」


「あ、ああ! そうだ!」


 リュシアンは気を取り直したように胸を張った。


「王立学院を首席で卒業したこの私には、やはり高貴な血筋の女性こそが相応しい! 君のような商人の娘では、我がフルーレ子爵家の名誉に傷がつく!」


「まあ」


「毎日エプロンをつけ、粉まみれになって厨房をうろつくような女が、名門貴族の妻に相応しいと思うか?」


「思いませんねえ」


「そうだろう! ……ん?」


 リュシアンが瞬きをした。


 私は鍋の火を少し弱めながら答えた。


「私も、厨房で料理をしている時間が一番幸せですから。夜会で愛想笑いをするより、焼き立てのパンの香りを嗅いでいるほうが、ずっと楽しいですもの」


「そ、そういう意味ではない!」


 そのとき、アメリア様が一歩前へ進み出た。


「クララ様……どうかお許しくださいませ」


 潤んだ瞳。


 震える唇。


 胸元で組まれた白い指。


 実に見事な悲劇のヒロインぶりだった。


「わたくしたち、どうしても真実の愛を諦められないのです……!」


「まあ、真実の愛」


「ええ! 身分や財産では測れない、魂の結びつきなのです!」


「それは素晴らしいことですね」


 私はにっこりと微笑んだ。


「では、財産の問題もきっとございませんね」


「……え?」


 アメリア様の笑顔が、ほんの少し固まった。


 私は木べらを鍋の縁に置き、布巾で手を拭いた。


「リュシアン様。婚約を破棄なさるということは、我が商会からの生活支援も終了するということで、よろしいですね?」


「は?」


「毎月お届けしている食材、ワイン、衣類、調度品。それから使用人の給与補填も、本日をもって停止いたします」


 リュシアンは、何を言われたのか分からないという顔をした。


「なぜだ?」


「なぜ、と申されましても」


「婚約を破棄するだけだぞ? なぜ支援まで打ち切る必要がある!」


 私は思わず天井を仰いだ。


 ……ああ。


 本当に、この人は何も分かっていない。


「我が商会がフルーレ家を支援していたのは、婚約に基づく取り決めがあったからです。婚約が解消されれば、支援も終了いたします」


「馬鹿な! 君の家は裕福なのだろう!」


「ええ。おかげさまで」


「ならば、今までどおり金を出せばよいではないか!」


「お断りします」


「なっ……!」


 リュシアンは信じられないものを見るように私を見つめた。


「君は私を愛していたのではないのか!?」


「愛しておりましたよ」


「ならば!」


「ですが、婚約を破棄されるのでしょう?」


「それとこれとは別だ!」


「いいえ。同じです」


 私は厨房の戸棚から、革表紙の分厚い帳簿を取り出した。


 どん、と調理台に置く。


「こちらをご覧ください」


「何だ、この分厚い本は」


「フルーレ子爵家への支援記録です」


 私は頁をめくった。


「最高級の仔牛肉、熟成チーズ、特級ワイン。リュシアン様がお好きな南方産の白トリュフ。それから特注のシルクシャツ、舞踏会用の靴、宝石付きの懐中時計……」


「そ、それがどうした!」


「未精算の立替金は、金貨五百枚になります」


「ご、五百枚!?」


 リュシアンの声が裏返った。


「そんな大金、聞いていないぞ!」


「毎月、明細書をお送りしておりましたが」


「細かい数字など、いちいち見ていられるか!」


「そうでしょうね」


 私は頷いた。


「だから、こうなったのでしょう」


「何だと!?」


 アメリア様が慌てて口を挟んだ。


「リュシアン様、ご安心くださいませ! わたくしのお父様は伯爵ですもの。きっと助けてくださいますわ!」


「おお、そうだった!」


 リュシアンはぱっと顔を輝かせた。


「聞いたか、クララ! アメリアの父上は伯爵なのだ! 君のような商人の娘に頼らずとも、我が家は安泰だ!」


「それは何よりでございます」


 私は帳簿を閉じた。


 アメリア様の実家であるベルモント伯爵家。


 華やかな夜会と豪華な衣装で知られる名家だが、実情は借金まみれ。


 領地収入は年々減り、複数の商会から信用取引を断られている。


 先月など、我が商会にも融資の申し込みがあった。


 もちろん、お断りした。


 どうやら伯爵家は、娘をリュシアンに嫁がせることで、我が商会の資金を間接的に利用するつもりだったらしい。


 そしてリュシアンは、伯爵家の財産を当てにしている。


 ……まあ。


 なんとも見事な相思相愛である。


「それでは、お二人ともお幸せに」


 私は深く一礼した。


「本日をもって食材の無償搬入と給与補填を停止し、未精算分については正式な請求書をお送りいたします」


「ま、待て! それでは今夜の夕食はどうなる!」


「ご自分でご用意くださいませ」


「料理人は!?」


「給与をお支払いになれば、働いてくださるでしょう」


「金がなければどうする!」


「働いて稼ぐのです」


 リュシアンは心底驚いた顔をした。


「私が働くのか!?」


「ええ」


「子爵家の嫡男である、この私が!?」


「身分にかかわらず、人間は食べなければ生きられませんから」


 私は微笑んだ。


「我が商会の家訓をご存じですか?」


「知らん!」


「働かざる者、食うべからず。そして、払わざる者、飲むべからず、です」


「下品な商人の理屈だ!」


「お褒めいただき光栄です」


「褒めてなどいない!」


 リュシアンは顔を真っ赤にして叫んだ。


「後悔するぞ、クララ! 私ほど美しい男は、王都中を探してもそうはいない! 君は一生、私を失ったことを悔やむだろう!」


「そうですか」


 私は鍋の蓋を開けた。


 ふわり、と濃厚な香りが立ち上る。


「では、どうぞお幸せに。私はシチューが焦げるほうが困りますので」


「くっ……! 行くぞ、アメリア!」


「はい、リュシアン様!」


 二人は肩を寄せ合い、厨房を出ていった。


 私はその背中を見送り、そっと息を吐いた。


「……やれやれ」


 ようやく静かになった。


 木べらでシチューをひと混ぜし、小皿に取って味見をする。


 柔らかな牛肉。


 赤ワインの深い香り。


 野菜の甘みが溶け込んだ、まろやかなソース。


「うん。完璧!」


 私は思わず笑った。


 さて。


 これでようやく、余計な出費を気にせず、自分の店に力を入れられる。


「よーし! 今日から仕入れルートを全部見直して、美味しい食材は全部うちのお客様に届けるわよ!」


 厨房の奥から、料理人たちの威勢のよい返事が響いた。


「はい、クララ様!」


 こうして、私の新しい毎日が始まった。


     *


 それから一か月後。


 王都の一等地に店を構える、我が商会直営のレストラン『ラ・クララ』は、連日満席の大盛況だった。


 昼時ともなれば、店内には焼き立てのパンと肉料理の香りが漂い、客たちの楽しげな話し声が絶えない。


 貴族も商人も職人も、ここでは同じように食事を楽しむ。


 もちろん、値段に応じて料理の内容は違う。


 けれど、どの皿にも手を抜かない。


 それが私の信条だった。


「クララ様! 本日の仔羊肉のトマト煮込み、もう二十皿も出ています!」


「まあ、嬉しい! 追加の仕込みをお願いね!」


「はい!」


 厨房は活気に満ちていた。


 私は新しいソースの味を確かめながら、ふと窓の外を見た。


 初夏の爽やかな風が、テラス席の白いテーブルクロスを揺らしている。


 いい日だ。


 そう思った、そのとき。


 裏口の扉が、どんどん、と叩かれた。


「はーい! 少々お待ちください!」


 私は手を拭き、勝手口へ向かった。


 扉を開けた瞬間。


「クララァァァ……!」


 何かが足元に崩れ落ちた。


「きゃっ!?」


 思わず後ずさる。


 そこにいたのは、泥まみれの男だった。


 擦り切れたベルベットの上着。


 ぼさぼさに乱れた金髪。


 げっそりとこけた頬。


 目の下には濃い隈があり、靴は片方の踵が取れている。


 私はしばらく、その人物を見つめた。


「……どちら様でしょう?」


「わ、私だ……!」


「はい?」


「リュシアンだ! 君の愛した、麗しのリュシアン・ド・フルーレだ!」


「……まあ」


 私は目を瞬かせた。


 よく見れば、確かに元婚約者だった。


 ただし、麗しさは随分と目減りしている。


「リュシアン様。ずいぶんお痩せになりましたね」


「それどころではない!」


 彼は地面に膝をついたまま、私を見上げた。


「助けてくれ、クララ! 私はもう限界なのだ!」


「何があったのですか?」


「何もかもだ!」


 リュシアンは両手で頭を抱えた。


「君の商会が支援を打ち切った途端、屋敷に食材が届かなくなった!」


「それは当然ですね」


「料理人も侍女も、給与が払われないと辞めてしまった!」


「働いた分のお給料は、お支払いしませんと」


「それだけではない! 君の商会から請求書が届いた途端、ほかの商会まで一斉に支払いを求めてきたのだ!」


 私は小さく頷いた。


 予想どおりだった。


 我が商会が長年支援していたことで、フルーレ子爵家には十分な資金力があると誤解されていた。


 その支援が打ち切られたと知れば、ほかの取引先も信用状況を見直すだろう。


 ましてや、以前から支払いが滞っていたのなら、なおさらだ。


「それで?」


「父上が慌てて金策に走ったが、誰も貸してくれない! 仕方なくアメリアの実家を頼ったら……」


 リュシアンは唇を震わせた。


「あの伯爵家にも、金がなかったのだ!」


「まあ」


「それどころか、借金だらけだった! 伯爵は私に『娘の夫になるなら、借金の返済にも協力してもらう』と言い出した!」


「それは大変でしたね」


「大変どころではない!」


 彼は地面を叩いた。


「アメリアは毎日泣いてばかりだ! 料理もできない! 洗濯もできない! 紅茶一つまともに淹れられない!」


「そうですか」


「昨日など、庭に生えていたキノコを見つけて、二人で奪い合いになったのだぞ!」


「キノコですか?」


「ああ! アメリアが『わたくしが先に見つけたのよ!』と言い張って、私の手を引っかいたのだ!」


「……召し上がったのですか?」


「いや。庭師に毒キノコかもしれないと言われて、捨てた」


「それは賢明でしたね」


 私は真顔で頷いた。


 少なくとも、そこだけは正しい判断だったらしい。


「とにかく、もう耐えられん!」


 リュシアンは私の足元へにじり寄った。


「クララ! 君の料理が食べたい!」


「……はい?」


「あの牛肉のシチュー! 焼き立ての白パン! 口の中でとろけるローストビーフ! それから、君が作る甘い林檎のタルト!」


 彼の目が、夢見るように潤んだ。


「ああ……思い出しただけで腹が鳴る……!」


 ぐうううう。


 本当に鳴った。


 私は思わず厨房を振り返った。


 ちょうど焼き上がったばかりのガーリックトーストと、仔羊肉のトマト煮込みの香りが漂ってくる。


 リュシアンの喉が、ごくりと鳴った。


「頼む、クララ!」


 彼は両手を合わせた。


「もう一度、私とやり直そう! 婚約破棄はなかったことにしてやる!」


「……してやる?」


「そうだ! アメリアとは別れる! 君を再び婚約者に迎えてやろう! だから、早く何か食わせてくれ!」


 私は静かに彼を見つめた。


 そして尋ねた。


「リュシアン様」


「何だ!?」


「この一か月、何かお仕事をなさいましたか?」


「……仕事?」


「ええ。屋敷が困窮しているなら、働いて収入を得ようとは思われませんでしたか?」


 リュシアンは、心底信じられないという顔をした。


「何を馬鹿なことを!」


「馬鹿なこと、ですか?」


「私は子爵家の嫡男だぞ! 王立学院を首席で卒業した、この私が! 平民のように汗水垂らして働けるものか!」


「王立学院を首席で卒業なさったのでしょう?」


「ああ、そうだ!」


「でしたら、書類の代筆や計算のお仕事もできるのでは?」


「そんな下働きができるか!」


「家庭教師はいかがです? 学院での成績を生かせますよ」


「貴族の私が、人に頭を下げて教えるなど!」


「では、商会の帳簿整理は?」


「商人の仕事など、まっぴらだ!」


「なるほど」


 私は深く頷いた。


 能力がないわけではない。


 働く気がないのだ。


 それなら、話は簡単だった。


「ちょうどよかったです」


「……何がだ?」


「当店では、皿洗いの人手が足りておりまして」


「……は?」


 私はにっこりと微笑んだ。


「一時間働いていただければ、まかないのシチューとパンをご用意いたします」


 リュシアンは固まった。


 数秒後。


「さ、皿洗いだとぉぉぉ!?」


 裏路地に絶叫が響いた。


「この私に、汚れた皿を洗えと言うのか!」


「ええ。お湯も石鹸もございますので、難しい仕事ではありませんよ」


「私の美しい手が荒れてしまうではないか!」


「手袋をお貸しします」


「爪が傷つく!」


「爪を短く切ればよろしいかと」


「腰が痛くなる!」


「休憩時間もございます」


「そもそも、貴族が皿洗いなどできるか!」


 私は首を傾げた。


「お腹が空いているのでしょう?」


「空いているとも!」


「では、働けば食べられます」


「だから、働けないと言っている!」


「でしたら、お食事もご用意できません」


 リュシアンは口をぱくぱくさせた。


「き、君は……! かつて愛し合った男を、皿洗いに使おうというのか!」


「いいえ」


 私は穏やかに答えた。


「お腹を空かせている方に、お仕事をご紹介しているだけです」


「それが元婚約者に対する仕打ちか!」


「婚約を破棄なさったのは、リュシアン様でしょう?」


「うっ……!」


「それに、私はあなたを養う義務も、食事を無償で提供する義務もございません」


 私は厨房の中を指さした。


「当店の料理人たちは、朝早くから仕込みをしています。パン職人は夜明け前に起きて生地をこね、仕入れ担当は市場を歩き回り、給仕係は一日中立ち働いています」


 リュシアンは黙っていた。


「皆、自分の仕事に誇りを持っています。私は、その人たちの働きを大切にしたいのです」


「だ、だからといって……」


「リュシアン様。あなたはお腹が空いている。それなら、食べるために何ができるか考えるべきではありませんか?」


 しばらく沈黙が続いた。


 私は少しだけ期待した。


 もしかしたら、彼もようやく気づくかもしれない。


 王立学院を首席で卒業したというのなら、頭は悪くないはずだ。


 自分の能力を生かして働けば、生活を立て直す道もあるだろう。


 ところが。


「……分かったぞ」


 リュシアンが顔を上げた。


「君は私を試しているのだな!」


「はい?」


「わざと冷たいことを言って、私の愛を確かめようとしているのだろう!」


「……」


「まったく、素直でない女だ! だが安心したまえ。私は寛大だ。今すぐシチューを出してくれれば、すべて許してやろう!」


 私は静かに目を閉じた。


 ……駄目だ、これは。


 王立学院の首席卒業者という肩書きが、ここまで役に立たないこともあるらしい。


「リュシアン様」


「何だ?」


「お話は終わりです」


「なっ……!」


「皿洗いをなさるのであれば、厨房へどうぞ。なさらないのであれば、お引き取りください」


「こ、この私に二者択一を迫るのか!」


「ええ」


「では、三つ目の選択肢を要求する!」


「ございません」


「即答するな!」


 私は扉に手をかけた。


「それでは、ごきげんよう」


「ま、待て!」


 リュシアンが慌てて扉に手を伸ばした。


「パン! せめてパンの耳だけでも!」


「お仕事をなさるなら、焼き立てのパンをお出ししますよ」


「だから働きたくないのだ!」


「では、お渡しできません」


「悪魔めぇぇぇ!」


 私は扉を閉めた。


 かちゃり、と鍵をかける。


 扉の向こうから、しばらく怒鳴り声が聞こえていた。


「開けろ、クララ! 私は子爵家の嫡男だぞ!」


「この美貌を見ろ!」


「皿洗いなど、断じてせんからな!」


 やがて、巡回中の警備兵の声が響いた。


「おい、そこで何をしている! 店の営業を妨害するな!」


「私はリュシアン・ド・フルーレだ!」


「名前は聞いていない。騒ぐなら詰所まで来てもらうぞ」


「なっ! この私を誰だと思っている!」


「だから、名前は聞いていないと言っているだろう!」


 しばらく押し問答が続いたあと、足音が遠ざかっていった。


 私は小さく息を吐いた。


「……やれやれ」


 美しい顔というものは、確かに人を惹きつける。


 けれど、顔が良いだけでパンが焼けるわけではない。


 ましてや、借金が返せるわけでもない。


「さて、お仕事お仕事!」


 私はエプロンを締め直し、厨房へ戻った。


     *


「クララ様、お客様がお呼びです!」


 給仕係の少女が顔を出した。


「どなた?」


「いつもの荷運び職人さんです。今日もシチューをおかわりしたいそうで!」


「あら、嬉しい!」


 私は大きな皿に、熱々の牛肉のシチューをたっぷりと盛りつけた。


 柔らかく煮込んだ牛肉。


 とろりとした人参。


 香味野菜の旨味が溶け込んだ、深い琥珀色のソース。


 その横に、焼き立ての丸パンを二つ添える。


 客席へ運ぶと、窓際のテーブルに座っていた大柄な男が、ぱっと顔を輝かせた。


「おお、クララさん! 待ってたよ!」


「今日もお仕事帰りですか?」


「ああ! 朝から港で荷物を運んで、もう腹ぺこだ!」


 男は日に焼けた顔で笑った。


 大きな手には、いくつもの豆ができている。


「今日は重たい木箱ばっかりでな。腰が抜けるかと思ったよ!」


「それはお疲れ様でした」


「でも、ここでシチューを食べると思えば頑張れるんだ!」


 男はスプーンを手に取り、大きな肉を口へ運んだ。


 もぐもぐ。


 ごくん。


 そして。


「くぅぅぅっ! うまい!」


 店中に響く声だった。


「この肉の柔らかさ! ソースの濃さ! ああ、今日も働いてよかった!」


 私は思わず笑ってしまった。


「そんなに喜んでいただけると、作りがいがあります」


「本当だとも! クララさんの料理は、明日も頑張ろうって気持ちにさせてくれるんだ!」


 その言葉が、胸に温かく染み込んだ。


 私は料理が好きだ。


 美味しいものを作るのが好きだ。


 誰かが幸せそうに食べてくれるのを見るのが、何より嬉しい。


 けれど、かつての私は、その気持ちを少し忘れかけていた。


 リュシアンの好みに合わせ、贅沢な食材を揃え、どれほど手間をかけても、返ってくる言葉は決まっていた。


『今日の肉は少し硬いな』


『もっと高級なワインはないのか』


『私の舌に相応しい料理を出したまえ』


 美味しいと言われたことは、ほとんどなかった。


 感謝されたことも、思い出せない。


 けれど、今は違う。


 目の前には、心から料理を楽しんでくれる人がいる。


 私は、その笑顔が見たくて厨房に立っている。


「クララさん!」


 男が空になったパン皿を持ち上げた。


「すまないが、パンをもう一つ頼めるかい? もちろん、代金は払うよ!」


「ええ、もちろん!」


 私は微笑んだ。


「でも、今日は特別に一つおまけしますね」


「えっ、いいのかい!?」


「いつもご贔屓にしてくださっていますから」


「ありがたい! 明日も仕事を頑張れそうだ!」


 男は嬉しそうに笑った。


 私は厨房へ戻りながら、ふと思った。


 料理は、誰かを支配するためのものではない。


 恩を売るためのものでもない。


 美味しいものを食べて、元気になって、また明日を迎える。


 その小さな幸せを届けるために、私は料理を作っているのだ。


     *


 それから数日後。


 フルーレ子爵家について、少しばかり噂が届いた。


 屋敷の一部が売却され、残された使用人も大幅に減らされたらしい。


 ベルモント伯爵家との縁談も、借金の問題を巡って破談になったという。


 そしてリュシアンは、ついに父親から生活費の支給を打ち切られたそうだ。


「働かない者に食わせる飯はない!」


 そう宣言されたとか。


 ……まあ。


 どこかで聞いたような言葉である。


 さらに驚いたことに、リュシアンは王立学院の恩師を頼り、書類の代筆を始めたらしい。


 最初は散々文句を言っていたものの、背に腹は代えられなかったのだろう。


 文字が美しく、計算も正確なので、仕事そのものは意外と評判が良いという。


 もっとも、初めて受け取った報酬を見て、


『たったこれだけか!』


 と叫んだそうだ。


 それを聞いた恩師は、


『では、もっと働きなさい』


 と答えたらしい。


 私は思わず吹き出した。


 王立学院の首席卒業者。


 容姿端麗、家柄も申し分なし。


 そんな彼が、今さらながら働くことを覚え始めた。


 少しは世の中の仕組みを理解できるようになるかもしれない。


 けれど、それはもう私には関係のない話だった。


 私は私の仕事をする。


 彼は彼の人生を生きる。


 それだけのことだ。


     *


 その日の夕方。


 最後のお客様を見送り、私は厨房で明日の仕込みを確認していた。


 大きな鍋には、黄金色に澄んだコンソメスープ。


 じっくり時間をかけて引き出した肉と香味野菜の旨味が、湯気とともに立ち上っている。


 私は小さなスプーンで味見をした。


「……うん。美味しい」


 思わず頬が緩む。


 厨房の奥では、若い料理人たちが明日の献立について楽しそうに相談していた。


 誰かがパンの焼き加減を尋ねる。


 別の誰かが、新しいソースの案を出す。


 それぞれが自分の仕事に誇りを持ち、より良い料理を作ろうとしている。


 私はそんな光景が、たまらなく好きだった。


「クララ様!」


 給仕係の少女が顔を出した。


「明日も予約でいっぱいです!」


「まあ、本当に?」


「はい! それから、今日のシチューがとても美味しかったと、お客様からお手紙をいただきました!」


「嬉しいわねえ」


 私は手紙を受け取り、そっと胸に抱いた。


 かつて私は、顔が良く、身分が高く、華やかな世界に生きる男性こそが、素晴らしい結婚相手なのだと思っていた。


 けれど、今なら分かる。


 美しい顔は、確かに素敵だ。


 高貴な血筋にも、長い歴史があるのだろう。


 でも、それだけではお腹は膨れない。


 誰かが畑を耕し、誰かが小麦を挽き、誰かがパンを焼く。


 誰かが荷物を運び、誰かが店を掃除し、誰かが料理を作る。


 そうやって、たくさんの人の働きが重なって、ようやく一皿の料理が食卓に届くのだ。


 だから私は、働く人が好きだ。


 自分にできることを見つけ、誰かのために手を動かす人が好きだ。


 そして、そんな人たちに、美味しい料理を届けたい。


「さて!」


 私はエプロンの紐を結び直した。


「明日も忙しくなるわよ! みんな、今日はしっかり休んでね!」


「はい、クララ様!」


 元気な返事が厨房に響く。


 窓の外には、初夏の夕焼けが広がっていた。


 私はもう一度、コンソメスープを味見した。


 ああ、なんて美味しいのだろう。


 自分の手で作り、自分の力で稼ぎ、自分の好きな人たちと分かち合う食事は、どんな高級な夜会のご馳走よりも、ずっと幸せな味がする。


 そういえば、あの人は最後まで、自分の美貌に値段をつけようとしていた。


 けれど、残念ながら。


 当店では、美貌でのお支払いは受け付けておりません。


 私はくすりと笑い、厨房の明かりを一つ落とした。


 明日も、美味しい料理を作ろう。


 働いて、お腹を空かせて、幸せそうに笑う人たちのために。


 だって、我が商会の家訓は昔から決まっているのだから。


 ――働かざる美形、食うべからず。


 そして、働いたあとのご飯は、何よりも美味しい。


 ――完――



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― 新着の感想 ―
働かざる者食うべからず。その通りって思いました。 面白かったです。
お昼前でも作品を公開するんですね
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