存在の輪郭
自分が何者かであることより、何者ではないということのほうが定義しやすい。例えば、善人であると言い切る自信はないが、悪人ではないとは言えるものだ。
私は、深夜のコインランドリーの、あの独特な温い湿気と洗剤の香りが混ざり合った空気の中に座り、回転するドラムを眺めていた。
午前二時。世界は寝静まり、稼働しているのはこの二十四時間営業の店舗と、私という、定義しがたい個体だけのように思える。
私の名前は、どこにでもある平凡な二文字だ。年齢は三十を少し過ぎた。職業は、特筆すべき点のない事務職。年収は平均並みで、趣味は「散歩」と履歴書に書ける程度には無趣味だ。こうして書き連ねてみても、やはり自分を肯定的に表現する言葉は見当たらない。
しかし、「ではない」ことならいくらでも挙げられる。
私は、ギャンブルに溺れる人間ではない。他人に暴力を振るう人間でもない。嘘をついて誰かを陥れるような狡猾な人間でもないし、かといって、社会をより良くしようと情熱を燃やす活動家でもない。
私は、何者でもない。
ガタ、と乾燥機が止まった。洗濯物を取り出し、プラスチックの籠に入れる。温かいタオルを畳んでいると、自動ドアが開き、一人の青年が入ってきた。彼はひどくやつれた顔をしていて、手には大きなボストンバッグを抱えていた。
「……あの、すみません」
彼が声をかけてきた。私は手を止め、彼を見た。
「洗剤、切らしちゃって。自販機も壊れてるみたいで。もし余ってたら、分けてもらえませんか」
私は自分のカバンから、使い切りのジェルボールを一つ取り出した。予備として持ち歩いていたものだ。
「どうぞ」
彼は深々と頭を下げ、それをひったくるようにして洗濯機へ向かった。私は再びタオルの端を揃える作業に戻った。青年は洗濯機を回し始めると、私の隣の椅子に力なく腰掛けた。
「ありがとうございます。本当に助かりました。……今、家を追い出されて、行くところがなくて」
聞いてもいない身の上話が始まった。私は適当に相槌を打ちながら、靴下を左右揃えて丸めていく。彼の話は、要約すれば「夢を追って都会に出たが、挫折し、人間関係に疲れ、家賃を滞納して夜逃げ同然で飛び出してきた」という、これまたよくある物語だった。
「僕、何やってるんですかね。何者かになりたくてここに来たのに、今はただの浮浪者寸前です」
青年は膝に顔を埋めた。私は最後のタオルを畳み終え、籠の中に綺麗に整列した衣類を見つめた。
「何者かになる必要なんて、あるんですかね」
独り言のつもりだったが、彼は顔を上げた。
「……え?」
「あなたは、泥棒ではないでしょう? 誰かを傷つけて逃げているわけでもない。ただ、家を借りるお金が一時的にないだけで。それなら、今のあなたは『家がない人』であって、それ以外の何者でもないはずです。善人でも悪人でもない。ただ、そこにいるだけだ」
青年は呆然として私を見ていた。私は籠を抱えて立ち上がった。
「私が持っているのはジェルボール一つ分の余裕だけです。だから、それ以上のアドバイスはできませんが。少なくとも、あなたは今日、見ず知らずの人間に洗剤を借りることができる程度には、まだ『まともな人間』の範疇にいますよ」
私はそれだけ言って、コインランドリーを後にした。外の空気は冷たく、深夜特有の静寂が心地よかった。
自宅までの帰り道、街灯の下を歩きながら考える。
私は、誰かを救うようなヒーローではない。しかし、困っている人間にジェルボールを一つ手渡すことを拒むような冷血漢でもない。
結局、人生とは「ではない」を積み重ねていく作業なのかもしれない。
人を殺さない。
法を犯さない。
約束を(できるだけ)破らない。
そうやって消去法で残った、形容しがたい僅かな何かが、結果としてその人の輪郭になる。
アパートに着き、鍵を開ける。部屋は狭く、生活感に乏しい。
私は洗濯物を棚にしまい、一杯の白湯を飲んだ。鏡に映る自分は、やはり何者でもない顔をしていた。誇れるものもなければ、恥じるべき大きな傷もない。
明日もまた、定刻に起き、電車に揺られ、定義しがたい事務作業をこなすだろう。誰かに感謝されることも、誰かに恨まれることもなく、ただそこに在る。
私は照明を消した。暗闇の中で、自分の呼吸音だけが聞こえる。
私は聖人ではない。しかし、今夜は穏やかな眠りにつくことができるだろう。なぜなら私は、自分の平穏を乱すような「何者か」に、まだなり果ててはいないのだから。
窓の外では、夜明け前の静かな雨が降り始めていた。それはアスファルトを濡らし、街の汚れを静かに流していく。雨もまた、意志を持って降っているわけではない。ただ、重力に従って落ちているだけだ。
私もまた、その雨と同じように、ただ流れていく日々を肯定しようと思った。
特別な色を持たない透明な存在として、この世界という巨大なキャンバスの一部であり続けること。
それが、私が私であるための、唯一の定義なのだ。




