キサマの不幸はこの俺と出会い、結婚してしまったことだ
仕事が遅くなってしまった!
早く……早く帰らないと!
そう叫ぶように思いながら、アパートに辿り着くと、窓の明かりが点いていた。
『今日もまた……あのひとに先に帰られてしまった……!』
痛いわけでもないのに頭をおさえながら、自分たちの部屋の前までフラフラと歩き、おそるおそるドアノブを回すと、鍵は開いていた。
夫の後ろ姿が見えた。
エプロンを着け、何か料理をしている。
私が帰ったことに気づいてないわけはないのに振り返らない。
「た……、ただいま」
消え入りそうな声で私がそう言うと、ようやく顔だけ振り向いた。
いつもの高圧的な口調で、低いその声が言った。
「遅くまでご苦労なことだな」
黒いような笑いがその顔に浮かぶ。
「ごめんなさい」
私は心から申し訳なく思い、頭を下げた。
「どうしても終わらない仕事があって……」
「フフフ」
彼がまた黒い笑い声を漏らす。
「頑張るキサマのために今夜はビーフシチューを作ってやったぞ」
赤ワインのいい匂いが漂ってる。
お腹が空いていた私は美味しそうな香りに負けて椅子に座りそうになってしまったけど、気力を振りしぼって彼の隣へ歩いた。
「ごめんなさい。洗い物だけでも手伝います」
「その必要はないぞ」
見ると彼の言う通り、シンクには汚れたまな板すらなく、しかもピカピカだった。
神業だ……。料理をしながら洗い物も完璧に片付け、おまけにシンク磨きまでしているのだ。いつもならまな板と味見をしたスプーンの一本ぐらいはあるのに、今日はいつも以上の完璧さ──
なんておそろしいひと!
私は床にへたり込んだ。
つむじを見下ろしながら、勝ち誇ったように彼が言う。
「諦めろ。キサマの不幸はこの俺と出会い、結婚してしまったことだ」
「で……でもっ……!」
私は思わず泣き声になってしまいながら、彼の言葉に抗うように、反論した。
「だめよ、こんなの……。いつも何もかも家事をやってもらって……っ! 私にも何か手伝わせてくれたっていいじゃないですか……っ!」
彼の口調が不機嫌そうに変わった。
「敬語やめろ」
「だって……!」
彼が私の前にしゃがみ込んできた。
あったかくておおきな手が、私の頭をぽんと撫でる。
そして黒い笑いを含むその声が、優しく言う。
「いいか、嫁よ。俺とキサマは対等なのだ」
「でも……っ! あなたはスーパーマンすぎて……」
「確かに俺は年収1,300万円の仕事をこなしながら家事もすべてやる」
悔しくて泣きそうになった。
「私なんて……年収350万円の上に、家事をやる気があっても先にあなたにされてしまうのに……っ!」
「しかし、対等だ。どちらが主人でも、どちらが扶養家族でもない。いわば俺が魔王でキサマは女王なのだ。敬語など使うな」
「でも……っ! 私、あなたには何もかも敵わなくて……」
抱きしめられた。
あごを指でくいっと上を向かされ、熱烈にキスをされた。
そしてその悪い目つきに優しい色を浮かべて、言われた。
「何もかも俺に敵わないだと? 笑わせるな。俺の心はキサマのものだ。俺の心はキサマに敗北しているのだぞ」
「不幸よ……」
涙を流しながら、私は訴えた。
「帰ってみれば洗濯物も、掃除も──すべてが完璧にやってあって、私、することないじゃない……。私の手料理もあなたに食べさせたいのに……。私、やる気はあるのに……。私にも何かやらせてよ、あなたのために」
「キサマは何もしなくていいのだ」
「こんな不幸……、私、もう耐えられない!」
「フッ……。そうか、それなら……」
彼の声が少しかわいくなった。
「完璧超人に見えるこの俺様だが、じつは苦手なこともある」
着ているワイシャツの、胸のあたりを見せながら、言う。
「じつは裁縫は苦手だ。……ボタンが取れた。つけてくれるか?」
「ハハッ……!」
私は思わず笑い声をあげてしまった。
「やるわ! やらせて! あなたのためにボタンをつけてあげる!」
そうだった。彼にも隙はある。衣食住の食と住は完璧だけど、衣にはつけ入る隙があるじゃない。考えてみれば着ている服だっていつも白と黒ばっかりでお洒落さがない。それでもかっこいいんだけど……
そうよ。今はまだ季節があったかいけど、寒くなったらマフラーを編んであげるわ!
このまま不幸でいさせられてたまるもんですか!




