優しい聖女様”でいるのはもうやめます。あなた方の“当たり前”が国を支えていただけなので
深夜の第三結界点は、墓場のような静寂に包まれていた。
王都の華やかな喧騒は遠く、聞こえるのは石畳の隙間から漏れ出す魔力の不気味な唸りだけ。私は冷え切った地面に膝をつき、感覚のなくなった両手を押し当てた。
(……熱い。頭が、割れそう……)
肌の下を灼熱の魔力が駆け抜けていく。指先から地脈へ、命を削るようにして魔力を注ぎ込む。
綻んだ結界の網目を一本ずつ手繰り寄せ、針を通すように塞いでいく作業。
三夜連続の徹夜。昼間の広域浄化で底をつきかけた魔力を、枯れた井戸から泥水を啜るようにして絞り出す。
「……キュウ」
その時、足元で小さな獣が動いた。
ふわりとした白い毛並みの小獣、ルミだ。神殿の裏庭で震えていたのを拾って以来、この子だけが私の孤独な夜に寄り添ってくれる唯一の味方だった。魔力も持たず、役にも立たない。けれど、その小さな体温だけが、私がまだ「人間」であることを繋ぎ止めていた。
「ごめんね、ルミ。もう少しだけ、頑張るから……」
結界維持の感覚を手放さないまま、私はルミの背を撫でる。
聖女として、みんなのために尽くす。その代償がこの孤独だとしても、ルミさえいれば耐えられる。
この時の私は、まだそんな献身を信じていたのだ。
◇
翌日の午後、神殿の定期点検が行われた。
そこにいたのは、隣国テルナ王国の軍事顧問、ユリウス・ヴァルト。
鉄のような意志を感じさせる鋭い瞳を持つその男は、並み居る高位神官たちの愛想笑いには目もくれず、ただ一点、私の「手元」をじっと見つめていた。
「……一人に依存しすぎている。欠陥だらけの運用だな」
すれ違いざま、彼は吐き捨てるように言った。
魔力欠乏で青白く、細かく震えている私の指先を、彼は見逃さなかった。
「君の魔力残量と、この区画の維持強度が計算に合わない。……死ぬ気か、君は」
周囲の神官たちが凍りつく中、ユリウス様は私を「聖女」ではなく、壊れかけの「国家インフラ」を見るような厳しい目で射抜いた。
初めてだった。私の献身を「美徳」ではなく「異常」だと断じた人間は。
◇
「あら、おかえりなさいエリナ。今日も『縁の下の力持ち』、ご苦労様」
五日後。不眠不休の浄化作業から戻った私を待っていたのは、上位聖女イルゼだった。
彼女の足元には、籠に入れられて怯えるルミがいた。
「……イルゼ様、ルミをどうするつもりですか?」
嫌な予感に心臓が早鐘を打つ。イルゼは美しい顔を歪んだ悦びに染め、手にした薄い書類をひらつかせた。
「神殿規律の改正よ。聖域への動物同伴は、穢れの観点から『厳禁』となったの。……でも、エリナ。あなたが本当に神殿に忠誠を誓うというなら、特例を認めてあげてもいいわよ?」
「本当……ですか?」
「ええ。あなたの『聖女としての覚悟』を見せてちょうだい」
イルゼは笑いながら、籠からルミを掴みだすと、鋭利なナイフをその首筋に当てた。
「自分の手で、この汚らわしい獣を殺しなさい。私利私欲を捨て、公に尽くす聖女としての決意を、今ここで証明するのよ」
「な……何を……!? そんなこと、できるわけがありません!」
「できないの? 街の人たちのために尽くす『優しい聖女様』が、たかが一匹の獣のために、神殿の規律を破るなんて……。がっかりだわ。神官の皆様も、あなたの『わがまま』には困惑していらっしゃるのよ?」
背後に控えるヘルト神官たちが、冷ややかに頷く。
「エリナ、君が我慢すれば済む話だ」「君は優しいから、理解できるだろう?」
聞き飽きた言葉が、今度は刃となって私に突きつけられる。
「さあ、選びなさい。聖女としての義務か、それとも自分勝手な愛玩動物か!」
「やめて……やめてください!!」
叫びは届かなかった。
イルゼは楽しそうに目を細め、私の目の前で躊躇なくナイフを突き立てた。
「キュッ……!」
短い、悲痛な悲鳴。
私の指先を温めてくれたルミの白い毛並みが、どろりと赤く染まっていく。
「あら、手が滑っちゃった。……まあいいわ。さあ、片付けておいてね。あ、今夜の結界更新も忘れないで? みんな、あなたの『優しさ』を頼りにしているんだから」
冷たくなったルミをゴミのように投げ捨て、イルゼは取り巻きを連れて、清々とした顔で去っていった。
私の中で、何かが、完全に死んだ。
涙すら出なかった。ただ、今まで守ってきたすべてが、耐え難いほど汚らわしいものに見えた。
その夜、私は結界を更新しなかった。
そのまま、冷たくなったルミを抱いて、王都を後にした。
◇
三日後。隣国との国境近くにある宿屋で、私は「それ」を耳にした。
王都の結界が、中心部から完膚なきまでに崩壊。溢れ出した瘴気が神殿を飲み込み、逃げ遅れた神官たちは魔物の餌食となった、と。
イルゼ率いる聖女達は、結界の維持すらできない無能の集まりで、瞬く間に敗走。王都は地獄と化したという。
「……無様ね」
私は、隣で私の新しい結界術師としての登録証を準備している男、ユリウス・ヴァルトに視線を向けた。
彼は、崩壊の直前に私を見つけ出し、スカウトという名目で保護してくれたのだ。
「あの国は、君という『システムの心臓』を自ら抉り出した。死にゆくのは当然だ」
その時、宿屋の扉が荒々しく開いた。
「……エリナ!! やっと見つけた!!」
現れたのは、泥と返り血に汚れ、かつての美貌が無残に崩れたイルゼだった。背後には数人の神官が這いつくばるようにして続いている。
「エリナ! さあ、早く戻りなさい! 結界が壊れて、私の寝室まで魔物が入ってきたのよ! あなたがいれば、あんなもの一瞬で消せるでしょう!?」
イルゼの顔は恐怖で引きつり、かつての傲慢な命令口調だけが虚しく響く。
「……私はもう、聖女ではありません」
「何を言ってるの!? あなたがいないせいで、王都は全滅寸前なのよ! 私たちの地位も、財産も、すべて失われかけているの! あなたは『優しい聖女』でしょう!? 私たちを助けるのが義務でしょうに!」
私は、氷のような瞳で彼女を見下ろした。
彼女の足元にある泥、それがかつて彼女が「穢れ」と呼んだものより、よほど汚く見えた。
「イルゼ様。……あの日、あなたがルミの命を奪った時、何て仰いましたっけ?」
「そ、そんなの忘れたわよ! たかが獣一匹のことでいつまで―」
「『あなたの覚悟を見せなさい』。……そう仰いましたね」
私は一歩、彼女へ歩み寄った。彼女は私の気圧され、尻餅をつく。
「今度は、あなたの番です。聖女の誇りがあるなら、逃げずに自分の命を捧げて王都を守ればいい。……私はもう、あなたたちのために指一本動かすつもりはありません。あ、今夜は野宿ですか? 魔物が近くまで来ているようですが」
「そ、そんな……! 待って、行かないでエリナ! お願い、助けて! 謝るわ、何でもするから! お金が必要なの? それとも地位!? 戻りなさい!!」
泥に塗れて泣き叫ぶイルゼ。
その背後から、王都を食い荒らした瘴気の霧が、すぐそこまで迫っている。
「ユリウス様、行きましょう。ここはもう、私の守る場所ではありません」
「ああ。君の力を正しく評価し、守る場所へ行こう」
ユリウスは私の肩を抱き、迷いなく背を向けた。
背後でイルゼの絶叫と、魔物の咆哮が重なったが、私は二度と振り返ることはなかった。
◇
テルナ王国の国家魔導管理局に着任して三ヶ月。
私の生活は一変した。
勤務は週三日、交代制。魔力使用量は分単位で記録され、少しでも基準を超えればユリウスから「即時帰宅」の厳命が下る。
「エリナ、休憩だ。……今日は、これを持って行け」
執務室に現れたユリウスが、ぶっきらぼうに菓子パンの袋を差し出す。
「甘いものは脳の活性化に良い」と理屈を並べているが、彼がわざわざ私の好みを調べて買ってきているのは、周囲の職員には公然の秘密だ。
執務室に併設された私の私室では、新しい相棒――ルミによく似た、けれど少し勝気な白い小獣「アルバ」が丸まって眠っている。
この国では、担当者の私的空間に口を出す者などいない。むしろ「精神衛生の維持は業務の一環だ」と推奨されるほどだ。
窓の外、夕日に輝くテルナの強固な結界を眺めながら、私は穏やかな紅茶の香りを吸い込んだ。
私の指先は、もう二度と、凍えるように青ざめることはなかった。




