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ケシの花は、夜に揺れる  作者: 芙蓉


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第一話



 --追えば追うほどに、彼女は不確定になっていった。

 伸ばした腕は、いつも空を切る。掴めたと思った瞬間には、もうそこにいない。


 夜の街は、湿った熱を孕んでいた。アスファルトの上で街灯が滲み、空気が揺れている。彼女はその揺らぎの中に紛れ込むみたいに、俺の少し前を歩いていた。


 距離は、ほんの二、三歩分。

 それなのに、やけに遠い。


 腹部まで伸びた髪が風に吹かれて、ふわりと揺れる。その仕草ひとつで、胸の奥がひくりと痺れた。理由なんてわからない。ただ、ただ、視線を外せなかった。


 彼女は振り返らない。

 振り返らないから、俺は歩き続ける。


 追っているのか、縋っているのか、自分でも区別がつかなかった。


 その瞬間、ふと、彼女が足を止めた。

 俺も慌てて止まり、あと一歩の距離を残したまま、立ち尽くす。


 夜風が吹き抜ける。

 彼女の体温が、そこにあったはずの気配だけを残して消えた気がした。


「ねえ」


 名前を呼ぼうとして、やめた。

 呼んだところで、届かない気がしたからだ。


 彼女はゆっくりと振り返った。街灯の光が、彼女の艶やかな黒髪を、瞳を、薄く照らす。その表情は、穏やかで、どこか他人事のようだった。


 ――ああ、だめだ。


 胸の奥で警鐘が鳴る。

 これは近づいてはいけないやつだ、と。


 彼女の纏う微かな色気は、甘い匂いをしていた。花のようで、毒のようで、吸い込めば戻れなくなると、本能が告げている。


 それでも、俺は目を逸らせなかった。


 彼女は可愛らしい顔で、何も言わずに立っている。ただそれだけなのに、思考が鈍り、舌が重くなる。身体の奥から、じわじわと何かが侵食してくる。


 ――神経毒。


 そんな言葉が脳裏を掠める。

 呼吸をするたびに、意識が彼女で満たされていき、心拍が乱れるのを感じる。


 逃げなければならない、と頭では分かっていた。

 けれど足は動かない。


 彼女は、まるでケシの花のようだった。

 風に揺れて、綺麗で、無害そうで、触れた相手にだけ麻薬を刷り込む。


 中毒になって藻掻く人間を、ただ眺めるだけ。


「……触らないで」


 静かな声と、穏やかなままの表情だった。拒絶とも、忠告ともつかない。


 その一言で、俺の身体は完全に彼女に支配された。

 求めてはいけないと分かっているものほど、どうしようもなく欲しくなる。


 伸ばした指先は、彼女の袖にすら届かなかった。


 彼女は俺を見つめたまま、一歩、後ろに下がる。

 そして、煌々と眩しく光る夜の街へ、踵を返して歩き出す。

 追えば追いつける距離だったはずなのに、俺の足は動かなかった。

 街灯と、街へ近づく度に増えていく人影に紛れたその背中は、まるで陽炎のように、俺の視界から滲んでいった。


 取り残された自分だけが、散布された毒の中に立ち尽くす。


 ああ、吸い込んでしまった。

 もう、遅い。


 彼女を求める衝動が、狂おしいほどに身体を満たしていく。


 ――それでも、次の夜も、俺は彼女を探すのだろう。


 揺れる花が、そこにあると信じて。

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