妹が“完璧な令嬢”を演じているのを、私だけが知っている。彼も気づき始めている
王都の大舞踏会は、夜が深まるほど光が増す。
クリスタルのシャンデリアが天井から降るように輝き、音楽家たちの弦が高く澄んだ音を響かせる。
私は、壁際の控えめな位置で、手袋をした指先を静かに組み合わせながら、その光景を見つめていた。
中央に立つのは、私の妹――レナイル・ソレーネ。
月明かりを宿したような銀色のドレス。お辞儀ひとつ、視線ひとつ、呼吸すら作法にかなった優雅さ。
彼女が笑うたび、令嬢たちは憧れを、紳士たちはため息を落とす。
私は、その中心から離れた場所で、目立たぬよう口元に笑みを作った。
――完璧だわ。今日も。
完璧な令嬢。完璧な妹。
けれど、その“完璧”がどれほど計算され、練られ、磨き上げられた仮面か。
それを知っているのは、きっとこの場で私ひとりだ。
視線の先で、彼――王太子アドリアン・カサドール殿下がゆっくりと歩み寄り、レナイルの手を取った。
その仕草すら絵画のように美しい。周囲がひらめきに包まれたようにざわめいた。
「ソレーネ嬢。本日も見事な舞を」
「恐れ入ります、殿下。私など、まだまだ勉強の途中にございます」
控えめな声で微笑むレナイル。
わずかに伏せた睫毛。頬に宿した紅の量まで計算されたそれは、まるで舞台女優のようだった。
――この子は本当に天才だわ、と私は思う。
天性の美しさと頭の回転、そして“誰が何を求めているか”を瞬時に掴む感覚。
それらすべてを、妹は武器として使う。気取られず、悟られず。
そして一番の標的は、他でもない“姉の私”だった。
アドリアン殿下の視線がちらりとこちらに向いた。
私は思わず姿勢を正す。目が合うとは思っていなかった。
殿下は、ほんのわずか、首を傾けるようにして私を見つめた。
……ほんの一瞬、何かに迷うような、そんな眼差し。
(どうして私なんかを見るの?)
胸の奥がざわついた。
その視線の意味を考える暇もなく、レナイルが殿下との会話を終え、こちらへ歩み寄ってくる。
周囲に向けていた完璧な笑みが、姉である私をひと目見るだけで、温度の低いものに変わる。
「お姉さま。ずいぶん壁際がお好きなのね」
言葉は柔らかいのに、刃のような軽さ。
これを“嫌味”と見抜ける者はまずいない。
「レナイルこそ、中心で輝いていたわ。とても素敵だった」
「まあ。お姉さまに褒められるなんて、珍しいこと」
レナイルは微笑む。だがその笑みは、私にしか見えない冷たさを含んでいた。
「でも……あまり隅にばかりいると、皆さま不思議に思うわよ?」
「ええ、気をつけるわ」
「いいえ。“気をつけてさしあげる”のが妹の務めでしょう?」
軽く肩に手を添えながら、彼女は囁くように言った。
「――お姉さまは、今日こそ邪魔をしないでね」
私の胸に小さく刺さる警告。
私が殿下の視線を引いた、その“たった一瞬”すら彼女は許さないのだ。
その時だった。
「ソレーネ嬢……ああ、姉上のほうだ。よければ少し、よろしいだろうか」
アドリアン殿下の声だった。
レナイルの表情が固まる。殿下の手が、明確に私へと伸びていた。
「わ、私に……ですか?」
「ええ。あなたに伺いたいことがありまして」
レナイルが殿下と私を交互に見つめる。
その目の奥に、完璧な令嬢の皮の下から覗く“焦り”が、わずかに揺らめいた。
「では、少し失礼しますわ。……レナイル、すぐ戻ります」
妹は微笑む。だがその視線は私の背中に、まるで細い針のように突き刺さっていた。
殿下の案内で、私たちはホールの端にある廊下へ移動した。
音楽が遠のき、空気が静まる。
「驚かせてしまったかな?」
「い、いえ……あの、私にどのような……?」
殿下はしばらく言葉を探すように沈黙し、
やがて少しだけ柔らかい声で言った。
「今日、あなたが会場の隅で、落としたカップを拾っていたのを見た。
あれは……あなたがやったのか?」
「あ……はい。放っておけなくて」
「それだけではない。人の動きをよく見ていた。
レナイル嬢が注目される隙であなたが補っていた。……違うか?」
胸が熱くなった。
家族でも誰も気づかない“小さなこと”を、殿下だけが見ていた。
「いえ……そんなつもりでは……」
「謙遜はいらない。私は、あなたのような人を……見落としたくない」
その言葉に、心臓が跳ねた。
だが――。
「――殿下。姉には何かご用でしょうか?」
背後から、レナイルの声がした。
振り返ると、完璧な令嬢の仮面を取り戻した妹が立っていた。
ただし、その瞳の奥に潜む色は、私にだけ分かる“怒り”に近い。
「お姉さまを、長く独占されるのは心配ですので」
完璧な笑みを浮かべながら、妹は殿下の腕にそっと触れた。
――その指先が震えているのを、私は見逃さなかった。
殿下は答えず、少しだけ私を見た。
その瞳の奥に確かにある“違和感の火”が、ゆっくりと燃え始めていた。
私は胸に手を当て、呼吸を整える。
妹の完璧な仮面が、今日、わずかに軋んだ。
それを見たのが、私だけではなかったことが――何よりの救いだった。
舞踏会の翌朝、ソレーネ家の屋敷は、いつもより少しだけ騒がしかった。
理由は簡単だ。
昨日の夜、王太子アドリアン殿下が「完璧な妹」ではなく、「地味な姉」である私に歩み寄ったからだ。
朝食の席で、父がナイフとフォークを置く音が、やけに耳についた。
「……王太子殿下が、マリエッタにお声を?」
テーブルの向こう側で、父が信じられないものを見るように私を見た。
「ほんの少し、ですわ。会場の片隅で、お話を」
嘘はついていない。けれど、殿下が私の“行動”を見ていたことまでは口にしなかった。
言ったところで、信じてもらえる気がしなかったからだ。
「お姉さまは、落ちたカップを拾っていらしたのよね?」
レナイルが、にこやかに口を挟んだ。
朝の光の中でも、その微笑は眩しい。
「さすがだと思うわ。人が気づかないところに気づけるなんて。殿下も、そういうささやかな優しさをお褒めになったのよね?」
父の視線が、また私に戻る。
期待と困惑が混ざった目だ。
「……ええ。そう、だったと思います」
「まあ。お姉さま、本当によかったわね」
レナイルは嬉しそうに手を打った。
ただし、私の胸には、別の意味で冷たいものが広がる。
――この子はもう、昨夜の“違和感”を埋めにかかっている。
殿下が私を見た理由を、「ささやかな善行への賛辞」という、誰も傷つかない形に矮小化していく。
それさえしてしまえば、私の存在はあくまで“ついで”に過ぎなくなる。
「でも……」
レナイルはナイフをそっと持ち上げ、焼いた肉を優雅に切り分けながら続けた。
「私、少し心配なの。殿下のお目に留まるのは光栄なことだけれど、お姉さまは、あまり宮廷の作法に慣れていらっしゃらないでしょう?」
「……努力しているつもりよ」
「ええ、分かっているわ。だからこそ、ね」
レナイルは顔を上げ、父に視線を向けた。
「お父さま。もしよろしければ、今度のお茶会には、私がご一緒してお姉さまをお守りしてもよろしいかしら?」
“守る”という言葉に、私は思わず手を止めた。
「マリエッタは、少し不器用なところがあるから。殿下の前で失礼があっては、わたくしたち一家の名折れになってしまうわ。だから、妹として支えたいのです」
完璧な令嬢の口から紡がれる、完璧な忠告。
父はあっさりと頷いた。
「そうだな。レナイル、お前に任せよう。マリエッタ、お前も構わないな?」
「……ええ。お願いするわ」
反論したところで、どうにもならない。
私が「ひとりで大丈夫です」と言えば、それこそ「分不相応に舞い上がっている」と見られるだけだ。
私は、唇の裏側をそっと噛んだ。
食後、使用人たちが食器を片づけていく中、レナイルが私の隣に歩み寄ってきた。
周囲には、誰もいない。
「ねえ、お姉さま」
さっきと同じ、柔らかい声。
けれど、その中身はまるで違う。
「昨夜の殿下、とても優しかったわね。お姉さまにまで、あんなふうにお声をかけてくださるなんて」
「……“まで”、ってなにかしら」
「そのままの意味よ?」
レナイルは笑った。瞳の中だけが冷たい。
「殿下はきっと、お姉さまの“良いところ”を見つけてくださったのね。
でも、それで勘違いしては駄目よ?」
胸の奥がチクリと痛んだ。
彼女は、その痛みの場所を知っている。
「殿下が本当に選ぶのは、家の将来を考え、宮廷を歩き、人付き合いを完璧にこなせる相手。
……そういう人を、見てくださる方だから」
それはつまり、自分こそが相応しい、と言っているのだ。
「だから、お姉さま。昨夜みたいに、目立つ真似はしないでね。
殿下が困ってしまうもの。いいわね?」
圧のある微笑み。
私は息を吸って、吐いた。
「目立つつもりはなかったわ。ただ、手が空いていたから、カップを拾っただけよ」
「ええ、そうね。お姉さまは“そういうところ”だけは優しいもの」
“だけは”。
その一言が、刃のように心に残った。
その日の午後、私はいつものように家の書庫にいた。
埃を被った古い帳簿を整理し、献上品の記録と照らし合わせる。
ソレーネ家は侯爵家とはいえ、決して裕福ではない。
贅沢をすれば、すぐに財政が傾く。
父は外見の威厳こそ保っているが、数字にはあまり強くない。
だから私は、奥向きの仕事を手伝うことが多かった。
誰に感謝されるでもない、地味な作業。
けれど、不思議と嫌いではなかった。
「マリエッタ様、その帳簿でしたら……」
侍女のひとりが、遠慮がちに声をかけてきた。
「いえ、大丈夫よ。ここを直さないと、また来月も同じところで困るわ」
私は笑い、ペン先を走らせた。
夕方になる頃、屋敷に一台の馬車が到着した。
窓から外を覗くと、王宮の紋章が光っている。
「……殿下?」
心臓が、嫌な意味でも高鳴る。
だが実際に玄関ホールに現れたのは、アドリアン殿下の付き人である若い文官だった。
「ソレーネ侯爵閣下。殿下がお召し上がりになったお茶会の手配について、礼状をお持ちしました」
父と話すその文官の背後で、レナイルが優雅に階段を降りてくる。
「まあ、殿下から? わたくしに、でしょうか?」
「いえ……今回の手配と対応について、“ソレーネ家に”とのことです」
文官は丁寧に頭を下げ、封蝋の施された封筒を差し出した。
父がそれを受け取り、中身を確認する。
私も少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
「……ふむ。ほう」
父の眉が僅かに上がる。
「なんと書いてあるの、お父さま?」
「“先日の舞踏会における場の整えと、細やかな配慮に感謝する。
特に、周囲の者の動きに目を配り、場の乱れを即座に正した者には重ねて礼を述べたい”だと」
私の心臓が跳ねた。
それは、間違いなく“あのとき”のことだ。
倒れたカップを拾い、こぼれた飲み物が足元を汚さないように人々を誘導した――ほんの些細な行動。
殿下は、それを覚えていた。
「まあ、殿下ったら……」
レナイルが顔を輝かせる。
「きっと、お父さまやわたくしが場を整えたことを覚えていてくださったのね。
ねえ、お父さま、そうでしょう?」
「そうだな。レナイル、お前はいつもよく動いていたからな」
「恐れ入りますわ」
胸の奥で、何かがひどくきしんだ。
――違うのに。
――あれは、私が。
けれど、その言葉は喉で止まった。
私が「それは私のことだ」と言えば、どうなるだろう。
場はきっと、気まずい空気に包まれる。
父は困り、レナイルは“残念そうに”微笑み、後で私を責める。
その光景が、ありありと想像できてしまった。
「……お父さま」
代わりに私は、少しだけ声を出した。
「殿下は、“場の乱れを正した者に”とお書きになっているのよね?」
「ああ、そうだが」
「それなら、誰か特定の名を書かれなかったのは、きっと……
ソレーネ家全員への評価、という意味ではないかしら」
父が目を瞬かせる。
「そう、なのか?」
「ええ。殿下はとてもお優しい方ですもの。
誰かひとりの名を挙げて、他の者を傷つけるようなことはなさらないでしょう?」
自分でそう言いながら、胸が痛んだ。
それでも、それが一番角が立たない答えだと分かっていた。
「……そうか。なるほどな」
父は納得した様子で頷いた。
「さすがはお姉さま。物事を落ち着いて見ていらっしゃるのね」
レナイルが、横で小さく笑った。
その目が、一瞬だけ私を射抜く。
――“余計なことを言わないでくれて、ありがとう”
そんな意味を、私はそこに読み取ってしまった。
その夜、私の部屋の扉が、控えめに叩かれた。
「マリエッタ様、よろしいでしょうか」
文官――昼間の彼とは別人だったが、王宮からの使いだ。
「はい。どうぞ」
入ってきた青年は、丁寧に一礼すると、小さな包みを差し出した。
「殿下より、こっそりお渡しするようにとのことでございます」
「……私に?」
「はい。ほかの方にはお見せにならぬように、とのお言付けで」
鼓動が早まる。
包みを受け取ると、青年はそれ以上何も言わずに部屋を後にした。
震える指先で紐を解くと、中には小さなメモと、布で包まれた何かが入っていた。
メモには、殿下の筆跡でこう記されていた。
『あのとき、場を整えてくれたのが誰であったか、私は知っている。
名を記さなかったのは、あなたを守るためだ。
どうか、自分の働きを軽んじないでほしい。
――アドリアン』
胸が熱くなった。
何度も文字をなぞり、ようやく布を開くと、中には小さなブローチが入っていた。
簡素だが上品な、白い石の飾り。
「……殿下」
呟きが漏れた。
誰にも聞かせるつもりのない小さな声。
でも、その瞬間だけは、私の沈黙が救われたような気がした。
けれど――。
この“秘密”は、長く守られることはないのだと、どこかで分かっていた。
翌日、廊下の角を曲がったところで、私はレナイルと鉢合わせた。
妹は、私の胸元にある小箱を、鋭く一瞥した。
「それ、なに?」
「ただの……文房具よ」
「嘘」
即座に否定され、心臓が跳ねた。
「お姉さまは、嘘が下手だから。表情に出ているもの」
レナイルは一歩近づき、私の耳元に顔を寄せた。
「殿下から、なにか頂いたのでしょう? ――わたくしに隠して」
声は甘く、吐息は冷たい。
「……」
「大丈夫。誰にも言わないわ。
その代わり――お姉さま」
囁きが鋭くなる。
「二度と、わたくしの邪魔だけは、しないでね」
その言葉に、私の沈黙が、今度は“首輪”のように重くのしかかった。
私は、返事をしなかった。
できなかった。
ただ胸元の小さな箱を、ぎゅっと強く握りしめた。
――沈黙は、私を守る盾でもあり、私を縛る鎖でもある。
そのことを、痛いほど思い知らされた一日だった。
朝、鏡に映る自分の顔が少し痩せた気がした。
レナイルの圧力が強まったせいだろうか。
それとも、胸元の引き出しにそっと隠してある“白い石のブローチ”が、私の心を落ち着かせてくれているからだろうか。
どちらにしても、今日も私は沈黙を選ぶ。
それが、ソレーネ家の長女として正しいと思っていたから。
……この時までは。
午前のうちに、私は母とともに屋敷の小客間で来客を迎えることになっていた。
相手は、伯爵家の令息――グラシアル家の若君ロベルト。
温和な性格で知られ、悪意とは無縁の青年だ。
ただ、人の言葉を鵜呑みにしやすいところがある。
だからこそ、私は少し緊張していた。
最近、レナイルが誰かとひそひそ話す姿を何度か見かけていたからだ。
扉がノックされる。
侍女に導かれてロベルトが入ってきた。
「ソレーネ侯爵夫人、マリエッタ嬢。お招きいただき光栄です」
礼儀正しい青年。その横で、母は落ち着いた笑みを浮かべる。
「いらしてくださってありがとう、ロベルト様。どうぞお掛けになって」
「ありがとうございます」
ロベルトは席についた。
その顔に、どこか緊張の色が見える。
(……なにか、知っている?)
胸がざわつく。
お茶が運ばれ、会話が始まった。
政治の近況、王宮での噂、先日の舞踏会の話。
けれど、ロベルトの視線は何度も、私のほうへ向く。
「ソレーネ嬢……失礼ですが、先日の舞踏会での件、噂になっておりますが……」
「噂?」
思わず聞き返すと、母が眉をひそめた。
「ロベルト様、それはどういう……?」
「あ、いえ、その……」
青年は言いにくそうに口ごもる。
だが、彼は悪意のある人物ではない。
だからこそ、口を滑らせたのだろう。
「……マリエッタ嬢が、グラシアル家の騎士を侮辱した、と……」
空気が凍りついた。
「え?」
「侮辱って……わたくしが?」
思わず言葉がもれた。
「い、いえ! 私は信じていません! あなたがそんなことをするはずが……!」
ロベルトは慌てて手を振った。
母は青ざめ、私はただ呆然とした。
(そんな……誰がそんな――)
ひとりしか思い浮かばなかった。
そのとき、小客間の扉が静かに開いた。
完璧な所作で現れたのは、私の妹――レナイルだった。
「まあ、ロベルト様。ようこそいらして」
優雅な微笑み。
「レナイル……」
母の声が震える。
「お母さま。昨夜、ロベルト様とお話ししていて……
お姉さまの誤解が広まっていると伺いましたの。
心配になって、お力になれればと思いまして」
柔らかな声。
けれど、その目は冷たく私を見つめていた。
「誤解って……」
私は声を失っていた。
レナイルはロベルトに近づき、涙を滲ませた。
まるで舞台のヒロインが感情を込めるように、完璧な表情で。
「ロベルト様……お姉さまのことで、あまり誤解を広めないでいただけますか?」
「い、いえ、私は誤解だと思っています!」
「ありがとうございます……でも、苦しいのです。
お姉さまは優しい方なのに……なぜか、周りが誤解してしまって……」
彼女は瞳を伏せた。
その涙は美しすぎて、嘘だとは誰も思わない。
「――レナイル、あなた……」
私は立ち上がる。
妹が、私の名誉を守るふりをして、私を“疑わしい存在”として固定しようとしていることが、直感で分かった。
レナイルがゆっくりとこちらを見る。
その瞳の奥に、誰にも見せない“本当の色”が宿る。
「……お姉さま。わたくしは、ただ……お姉さまが悲しまないように」
優しい声。
けれど、私にだけは分かる。
――これは罠だ。
母が震える声で、私の名前を呼んだ。
「マリエッタ……本当に、なにも……?」
「もちろんです! そんなこと――」
「でも、お姉さまは、人にきつい言い方をするときもあるから……
知らず知らずのうちに、誰かを傷つけてしまったのかもしれません。
ねえ、お姉さま?」
レナイルは、愛おしむように微笑んだ。
なにひとつ相手を否定せず、マリエッタ“自身が悪いわけではない”という構図にして。
そのうえで、周囲に「姉は無意識に人を傷つけるかもしれない」という印象を植えつける。
この子は天才だ。
悪意を持った天才。
「……レナイル」
私は、声を押し出す。
「わたしは……そんなこと、言っていない」
「お姉さま……」
レナイルが悲しそうに眉を寄せた。
「わたくしを責めるの?
ロベルト様も、お母さまも、お姉さまがそんな人ではないと信じたいと思っているのに……
どうして、わたくしを……?」
部屋が揺れるように感じた。
私が責めたことになっている。
そんなつもりなど一度もないのに。
「ち、違う……私は――」
「お姉さま。お姉さまは優しい方。でも……嘘が、とても下手なの」
囁くように告げて、妹は涙を零した。
その瞬間、私は悟った。
“沈黙”では、もう守れないのだと。
このままでは、私は本当に失脚する。
しかし――。
「マリエッタ様」
突然、廊下のほうから聞き慣れた声が響いた。
アドリアン殿下の近衛騎士、ガブリエルだった。
「殿下がお呼びです。至急、王宮へお越しください」
空気が一変する。
「……殿下が?」
「はい。重要なお話があるとのこと」
レナイルの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
その変化を見逃すほど、私は鈍くない。
殿下が私を呼ぶ理由は、分からない。
けれど――。
もしかしたら。
もしかしたら殿下は、妹の仕掛けた“嘘”の網に気づき始めているのかもしれない。
私は小さく息を吸い、皆に頭を下げた。
「……行って参ります」
レナイルは微笑みながらも、爪が手袋をわずかに押し破らんばかりに握りしめていた。
妹の罠が動き出した日――
その糸を断ち切るための一歩が、ようやく踏み出された。
王宮に向かう馬車の中、私は何度も深呼吸をした。
殿下の急ぎの呼び出し――その理由は、まだ分からない。
けれど、レナイルの罠が本格的に始まったこのタイミングでの召喚は、どう考えても偶然ではなかった。
外の景色は初夏の光を帯びているのに、胸の内は重く冷えていた。
“沈黙では守れない”と悟ったばかりの私に、殿下は一体何を求めているのか。
馬車が止まり、近衛騎士が扉を開く。
差し出された手を取ると、私の指先がかすかに震えていることに気づいた。
「……大丈夫よ、マリエッタ。落ち着きなさい」
小さく自分に言い聞かせ、王宮の石段を上った。
案内されたのは、王宮図書室――政治と歴史の文書が保管され、立ち入る者も限られた一角だ。
殿下はそこで、少し疲れたような表情で書冊子を閉じ、私を迎えた。
「来てくれて感謝する。こんな形で呼ぶことになってしまって、すまなかった」
深い紺色の瞳が私を捉える。
いつもの無表情に近い落ち着きの中に、ごくわずかな迷いが見えた。
「いえ……殿下がお呼びなら、いつでも」
「座ってほしい。話が少し長くなる」
私は促されるまま、殿下の対面に座った。
テーブルには何枚もの報告書が積まれている。
「マリエッタ」
殿下は私の名を静かに呼んだ。
「君にとって、今日ここに来るのは、もしかしたら辛いかもしれない」
「……辛い、ですか?」
「まず、先日の舞踏会のことで伝えたいことがある。
君が“騎士を侮辱した”という噂が、王宮内で囁かれている」
喉がつまった。
やはり、王宮にまで――。
「だが、私はその噂を信じていない。
むしろ――君が、この件で誰かに狙われているのではないかと考えている」
殿下の声は淡々としたものだったが、その奥には確かな“怒り”が潜んでいた。
「殿下……なぜ、そう思われるのですか」
「理由は二つある」
殿下は報告書のひとつを開いて見せた。
「一つは、当夜の騎士団の動線だ。
侮辱されたとされる騎士は、舞踏会の時間帯、ずっと演奏者の護衛に付いていた。
が、噂では『君がその騎士に暴言を吐いた』とされている。
……物理的に不可能だ」
胸の奥が熱くなる。
(殿下……そこまで調べてくれていた……?)
「もう一つは、証言の整理だ」
殿下は静かに続けた。
「複数の貴族が、『君が鋭い口調で誰かを叱責していた』と証言している。
だが、その“叱責された相手”の具体名が一人も出てこない」
私は思わず息を呑んだ。
(……それは、明らかに“仕組まれた証言”)
「君をよく知らない者は騙せても、私は騙せない。
君は、そんな形で人を傷つける人間ではない」
殿下の言葉は、私の胸を温かく締めつけた。
「ありがとうございます、殿下……」
「だが、状況は君に不利だ。
だから、君には一つだけ聞きたい」
殿下の視線はまっすぐだ。
「――誰か、心当たりはあるか?」
その言葉に、私は息を呑んだ。
妹の名前が喉までせり上がる。
でも、言えない。
レナイルは家の“看板”だ。
妹の名を出すことが、どれほど大きな波紋を呼ぶか分からない。
殿下は私の沈黙を見て、静かに笑った。
「……言えないか。
君の性格からすれば、当然だろう」
「ち、違います……私は……」
「いや、責めているのではない」
殿下は首を振った。
「君が誰かを疑っていると知っていても、言わせるつもりはない」
その優しさが、逆に胸を締めつける。
「ただ。それでも私は、君を守りたい」
殿下は、一枚の紙を差し出した。
そこには、証言をしたとされる者たちのリストが記されていた。
「ここにある名は、すべて“証言したと噂されている”人物だ。
だが、私はまだ対話していない。
真相を確かめるには、彼らから直接話を聞く必要がある」
「……殿下がお一人で?」
「もちろん、君にも同席してほしい」
「わ、わたしが!?」
思わず声が上ずる。
「噂の渦中にいる君こそ、その場にいるべきだ。
それに――」
殿下は少し視線を逸らし、小さく息をついた。
「君の表情を見れば、一言で嘘かどうかが分かる」
「へ……?」
「君は嘘が下手だ」
「っ……!」
レナイルにも同じことを言われた。
でも殿下の言葉は、不思議と痛くなかった。
まるでそれが“美点”でもあるかように言われたからだ。
「――失礼します、殿下!」
廊下から声が響く。
殿下の側近ガブリエルが慌ただしく入ってきた。
「例の件……追加の証言が。
“ソレーネ家の長女が、裏で人を見下している”と、新しい証言が出て――」
私は顔が青ざめた。
「誰がそんな……!」
「殿下。おそらく意図的な情報操作かと……」
ガブリエルの報告は続いた。
その内容は、明らかに私を貶めようとする“作られた証言”ばかりだった。
殿下は目を閉じ、息を長く吐く。
「……マリエッタ」
「はい……」
「ここまで露骨なら、もはや“偶然”ではない」
殿下はゆっくりと立ち上がり、私の前に来る。
手袋越しに私の指先へそっと触れる。
「君を守る。必ず」
殿下の声は低く、強かった。
その言葉に、胸が震えた。
だが次の瞬間――。
「――殿下」
図書室の扉が静かに開き、透き通る声が響いた。
振り向くと、端正なドレスに身を包んだレナイルが立っていた。
「お邪魔をしてしまって、ごめんなさい」
柔らかな笑顔。
淀みない所作。
その完璧さに、私は息を呑む。
「わたくし、とても心配で……姉が殿下にご迷惑をおかけしているかと思いまして」
殿下の顔が険しくなる。
(……来た)
妹の“第二の罠”が動き出した。
レナイルは殿下と私の距離を見て、わずかに目を細めた。
「殿下。お姉さまは本当に良い人です。
ただ、時々……ご自分の行動が周囲にどう映るか、分からなくなることがあって」
言葉は優しい。
けれど内容は、私を“空気の読めない、問題のある人物”に仕立てるものだった。
(……やめて)
そう言おうとした瞬間、殿下が一歩踏み出す。
「レナイル嬢」
殿下の声が、冷たいほど静かだった。
「君の言葉は、どれも“私の知るマリエッタ”とは一致しない」
レナイルの笑みが固まる。
「どれだけ周囲が君を称賛しても、私は自分の目で見たものしか信じない。
そして今日、君がここに来た理由は――
“マリエッタの失脚を早めるため”ではないのか?」
図書室の空気が変わった。
妹が、初めて追い詰められた表情を見せた。
「レナイル」
殿下は淡々と告げる。
「君には、まだ聞くべきことがある」
「わ、わたくし……!?」
「侮辱事件の証言者の中に、“君と親しく言葉を交わしていた者”が複数いる」
レナイルの顔から血の気が引いていく。
「これは偶然か?」
「……あの、わたくしは……」
「レナイル」
殿下の声が強く響いた。
「――マリエッタの前で嘘はつくな」
妹の瞳が揺れた。
完璧な令嬢の仮面に、細い亀裂が入った瞬間だった。
私は息を呑む。
殿下の視線が、今度は私のほうへ向く。
「マリエッタ。これから証言者たちへの聞き取りを行う。
君にも来てほしい」
「はい……」
「君の沈黙は尊いが、それが君を傷つけるのなら――
私は君の代わりに声を上げる」
胸が熱くなる。
誰かが、自分のために声を上げてくれる。
それが、こんなに救われるものだとは思っていなかった。
レナイルはその様子を見つめ、唇を震わせた。
その表情は、怒りとも恐怖ともつかない。
(……大丈夫)
(殿下は、真実を見ている)
その確信が、私の中に静かに灯った。
だが同時に――。
レナイルの目に、極めて危険な光が宿るのを私は見た。
妹は、このまま黙って引き下がるような人間ではない。
必ず“第三の罠”を仕掛ける。
その予感が、背筋を冷やした。
王宮の窓の向こうで、雲が厚く陰り始めていた。
――嵐は、まだ序章に過ぎない。
王宮の廊下は、いつもより静かだった。
けれどその静けさは、落ち着きではなく、嵐の前に張りつめた空気だった。
これから行われる“聞き取り”――証言者たちとの対話は、ただの確認作業ではない。
私を陥れるために編まれた嘘の網を、ひとつずつほどいていく作業だ。
殿下と並んで歩くのは、場違いなほど緊張する。
ただ、殿下は歩調を合わせてくれていた。私が転ばないように、気負わないように。
「……怖いです」
思わず小さな声が漏れた。
「怖いのは当然だ。だが、君は一人ではない」
殿下の言葉は淡々としているのに、不思議と心がほどけていくようだった。
最初の証言者は、伯爵家の令嬢ミリアムだった。
華奢な身体に緊張を浮かべながら、彼女は殿下の前に座っていた。
「……ミリアム嬢。あなたは“マリエッタが騎士を侮辱した”と聞いた、と証言しているな」
「は、はい……」
「誰から聞いた?」
「それは……」
ミリアムは目を伏せた。
(……レナイルの名前を出すはずがない。妹はそういう人間じゃない)
むしろ、レナイルは“彼女たちが自分で考えたと思い込むように”話を誘導する。
「ミリアム嬢」
殿下の声が静かに空気を揺らす。
「私の横にいる彼女を見て、侮辱などできると思うか?」
ミリアムは驚いたように私を見た。
その視線には、迷いと恥じらいが混じっていた。
「……たしかに。マリエッタ様は……優しい方です。
でも、わたし……その……」
「“レナイル嬢が心配していたから”、か?」
その一言に、ミリアムの肩が震えた。
殿下は続けた。
「“お姉さまを責めないであげてください”と、レナイルが言ったのだな?」
「……っ」
ミリアムは顔を覆った。
「悪気はなかったんです……!
わたくし、ただ……レナイル様があまりに心配そうだったから……」
私は呼吸を止めた。
レナイル、やはり……。
次に呼ばれたのは、男爵家の青年で、噂を広めた中心人物とされるレオンだった。
「レオン。なぜ“マリエッタが叫んでいた”などと証言した?」
「え、いや……その……」
「レナイルが“見た”と言ったのか?」
「……言ってました」
殿下の表情がついに冷たくなる。
「君は、その“見た”という言葉を確かめずに、噂として広めたのだな」
「も、申し訳ありません……」
三人目、四人目……証言者たちは、どこかに“レナイル”の影を落としていた。
妹は直接私を悪者にしたのではない。
彼らの前で“悲しそうに姉を庇い”、その涙で印象操作を行ったのだ。
(……なんて巧妙なの……)
私は唇を噛む。
(こんなの、私ひとりじゃ絶対に勝てない)
殿下が隣にいてくれるからこそ、真実がほどけていくのだ。
殿下は最後の報告書を閉じると、深く息を吐いた。
「これで十分だ。証言の根は分かった」
「殿下……わたし……」
「違うと言え。今度は君自身の言葉で」
殿下の瞳がまっすぐに私を見つめた。
「マリエッタ。君の沈黙は美徳だった。しかし――
それが君を傷つけるなら、沈黙でいる必要はない」
「……でも」
「君は何も悪くない」
その言葉は、胸の奥深くに染み込んだ。
そのときだった。
「――殿下。少しよろしいでしょうか」
扉の向こうから、透き通るような声。
レナイルだ。
私は息を呑む。
妹は薄い青のドレスを揺らして入室した。
動揺などない――かと思われたが、瞳の奥がかすかに揺れている。
「殿下。証言者の一部が、わたくしの名を……」
「レナイル嬢」
殿下の声は低い。
「君にも聞く。なぜ彼らは、“君がマリエッタを庇っていた”と言った?」
「わたくしは……ただ、姉が誤解されていると思ったからで――」
「なぜ、誤解だと確信した?」
レナイルの表情が、明らかに硬直した。
「そ、それは……お姉さまがそんなことをする方ではない、と思って……」
「ならば――なぜ、その“誤解”が生まれたのか考えなかった?」
「……」
レナイルは一歩後ずさる。
殿下は、さらに踏み込んだ。
「証言者たちは皆、君に同情していた。
しかし、君はその涙の裏で、“姉の印象を曖昧にする言葉”を残している」
「そ、そんなつもりは――!」
「彼らの言葉は揃っていた。
“レナイル嬢は姉を庇っていた”
“レナイル嬢は姉の行動を心配していた”
“レナイル嬢は姉のために涙ぐんでいた”
……だが同時に、“姉は人を傷つけるかもしれない”と言っていた、と」
レナイルの頬が青ざめる。
「それは、庇い方ではない。
君は、姉を救おうとしたのではない。
――ゆっくり沈めたのだ」
「や、だ……そんな……!」
妹は震える。
完璧な令嬢の顔が、崩れかけている。
「違う……違うのよ、殿下……!」
「私は……私は、ただ……!」
「ただ?」
殿下の問いが鋭い。
レナイルは、まるで糸を失った操り人形のように膝を震わせた。
「お姉さまが……殿下に近づくから……!
殿下が……お姉さまを見ている気がしたから……!」
室内の空気が揺れた。
妹は声を上げてしまったのだ。
「どうして……?
わたくしがこんなにも努力して……完璧になって……
殿下の隣にふさわしいのは、わたくしなのに……!」
あまりにもはっきりと。
あまりにも本音が過ぎて。
レナイル自身、口にした瞬間に気づいたのだろう。
手で口を覆ったが、もう遅い。
そのとき、私は初めて、妹が“なぜ私を憎むのか”理解した。
(……そう、だったのね)
レナイルは、私が殿下の視界に入ることすら耐えられなかった。
完璧な自分ではなく、私に殿下の視線が向く瞬間が怖かったのだ。
だから、私を沈めた。
家のためでも、評判のためでもなく――
私という“可能性”を消すために。
「……レナイル」
私は震える声で妹の名を呼んだ。
「あなたは……最初から、殿下が好きだったの?」
レナイルは私を見た。
その瞳は、幼い頃の彼女のように、泣きそうだった。
「ずっと……ずっと、努力してきたの……
お姉さまには分からないわ……
わたくしがどれだけ、完璧でいなければいけなかったか……!」
涙が頬を伝う。
けれど、それは哀れみを誘う涙ではなかった。
むしろ、悲しいほどの本音だった。
「わたくしのほうが綺麗で、賢くて、殿下にふさわしいのに……
どうして……お姉さまのほうを見るの……?」
殿下が静かに息を吸った。
「理由は一つだ」
レナイルは殿下を見る。
その瞳は期待と恐怖で揺れている。
「私は、君の“完璧さ”には興味がない。
だが――マリエッタの誠実さには、心を動かされた」
レナイルの瞳が大きく開く。
「お姉さまの……?」
「君が完璧であろうとする努力は、美しい。
だが、その裏で誰かを沈める行為は、決して美しくはない」
殿下の言葉は、刃ではなく真実だった。
だからこそ、痛かった。
「マリエッタは完璧ではない。
だが、誠実だ。人を思いやる心は誰よりも強い。
……私はその姿に惹かれた」
心臓が跳ねた。
胸が、熱く、痛いほど震えた。
(殿下……そんな……)
「レナイル」
殿下は最後の言葉を告げる。
「君は今日、この場で“仮面”を失った。
これ以上、姉を苦しめることは許さない」
レナイルは唇を噛み、震える声で言った。
「……わたくしなんて……最初から誰も見ていないのね……」
その瞳は、泣いているのに、どこか空虚だった。
私は一歩近づく。
妹の肩に手を伸ばす――けれど、触れる前にレナイルは後退した。
「触らないで……!
お姉さまに慰められるなんて……耐えられない……!」
その叫びは、哀れで、痛々しかった。
でももう、その心を癒せるのは私ではない。
殿下は側近に指示を出し、レナイルは侍女に伴われて部屋を出ていった。
その背中は、あれほど完璧だった令嬢のものとは思えないほど、弱々しかった。
静寂が落ちる。
私は震える手を胸元に当てた。
「……殿下……わたし……どうしたら……?」
殿下はそっと近づき、言う。
「マリエッタ。君はもう、沈黙に戻る必要はない」
その瞳は、真実を見抜いた者の静かな強さを湛えていた。
「ここからは――
私と共に、歩んでほしい」
胸に溢れたのは、
“救い”なのか“恋”なのか、私にはまだ分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
完璧という仮面は、今、確かに割れた。
レナイルが王宮の部屋を後にしてから、数日が過ぎた。
その間に起こったことは、私が想像していたよりも早く、そして静かに片づけられていった。
伯爵令嬢の証言は撤回され、男爵家の青年たちは正式に虚偽の報告で叱責され、王宮内に広まっていた噂は、殿下の指示で「誤報」として否定された。
噂は不思議なほど早く消えていった。
まるで、あれほど私を苦しめた出来事が最初からなかったかのように。
しかし――。
レナイルだけは、消えなかった。
彼女は今、ソレーネ家の離れにいる。
療養という名目だが、実際は“表に出さないため”の隔離に近い。
(……会いに行かなきゃ)
心のどこかで、そう思い続けていた。
妹の行いは許されるものではない。
けれど、彼女がすべてを暴露したその姿は、あまりに痛々しかった。
殿下にも、相談はした。
彼は静かに頷いてくれた。
「君の選択を尊重する。だが……危険だと思ったらすぐに戻るんだ」
その言葉を胸に刻み、私は離れへ向かった。
離れは、夕陽を受けて静かに沈んでいた。
扉に近づくと、侍女が深く頭を下げた。
「マリエッタ様……レナイル様は、ずっと部屋に籠ったままで……」
「ありがとう。少し、話してみるわ」
私は扉をノックした。
「レナイル。入るわよ」
返事はなかったが、静かに扉を開ける。
レナイルは、大きな鏡の前に座っていた。
鏡の中の彼女は、あの“完璧な令嬢”とは別人のように見えた。
髪は整えられているのに、どこか力が抜けている。
目の下には薄い影。
頬は少し痩せて見えた。
「……お姉さま」
鏡越しに、レナイルの声がした。
こちらを見ようとはしない。
「来たのね。わたくしを慰めに?」
「いいえ」
私は首を振った。
「話をしに来たのよ」
「ふふ……相変わらずね。優しいけれど、甘くはない」
レナイルはゆっくりと振り向いた。
その目には、怒りでも嫉妬でもなく、ただ深い疲れが漂っていた。
「殿下の前で……あんな恥を晒してしまったのね、わたくし」
「……レナイル」
「全部、全部わたくしが悪いのよね?
お姉さまを陥れようとしたことも……
殿下に選ばれなかったことも……
“完璧な令嬢”を演じなければ愛されないと信じ込んでいたことも……」
レナイルの声は、まるで壊れたガラスが転がるようだった。
「愛されるために完璧でいなければいけない、そう思っていたの。
そうしていれば、誰かがわたくしを見てくれると思ったの。
……でも、全部間違いだった。
完璧であろうとした私には、殿下の心は一度も向かなかった」
その言葉に、胸が痛んだ。
「でもね、お姉さま」
レナイルは私に一歩近づいた。
揺れる瞳が、私を捉える。
「わたくしがあんなにも努力して得られなかったものを……
どうして、お姉さまは、何もしないで手に入れるの?」
声は震えていた。
でも、そこに憎しみはなかった。
(……ああ、この子は)
やっと気づいた。
私が見ていたのは、完璧な令嬢ではなく、
“完璧であることを求められ続けた少女”だったのだ。
「レナイル」
私はそっと手を伸ばした。
「何もしなかったわけじゃない。
私はただ……私でいることをやめなかっただけよ」
「お姉さまには、それが……できたのね」
「あなたにも、できるわ」
レナイルの目に涙が溜まった。
「……無理よ。
わたくしは、完璧でなければ誰にも見てもらえない」
「違うわ」
私は首を振る。
「殿下だって、あなたの努力を否定したんじゃない。
ただ……その裏で誰かを傷つけたことだけを、責めただけ」
「……でも、それはもう戻らない」
「戻らないわ。でも、変わることはできる」
レナイルはうつむき、涙を落とした。
「ねえ、お姉さま」
レナイルは震える声で言った。
「殿下は……本当に、お姉さまを……?」
「……それは」
私は言葉に詰まった。
(殿下の気持ちは、まだはっきり形になっていない)
でも、あの人は――
私に向けた視線も、言葉も、すべて嘘ではなかった。
「殿下の気持ちは……殿下が決めることよ」
「そう……」
レナイルは薄く微笑んだ。
それは、これまで見たどの笑みよりも脆く、儚かった。
「お姉さま。ひとつだけ言ってもいい?」
「ええ」
「……わたくし、負けたのね」
その言葉は、敗北ではなく、解放のように響いた。
「いいえ」
私は静かに答える。
「あなたは、ようやく“完璧である必要”から解放されたのよ」
レナイルは驚いた表情を見せ、そして、ゆっくりと泣いた。
子供の頃のように、声を殺して、涙を流した。
それ以上、言葉は必要なかった。
私はレナイルのそばに座り、彼女が泣き止むまで静かに寄り添った。
その日の夕方、殿下が私を迎えに来た。
離れの庭に立つ殿下は、まるでその場の空気ごと穏やかにするような表情だった。
「話は……できたか?」
「はい」
「君の目が……少し軽くなった気がする」
私は思わず笑った。
「殿下のおかげです」
「違う。
私は導いただけだ。
君が自分の力で、真実に向き合った」
殿下は一歩近づき、私の手をそっと取った。
「マリエッタ。君が沈黙を選ばず、言葉を届けるようになったなら……
私は、その歩みに寄り添いたい」
胸が震えた。
その言葉は、明確な“答え”だった。
「殿下……ではなく、アドリアン様」
私は意を決して言う。
「……これからも、私を見ていてくださいますか?」
殿下――アドリアンは、ゆっくりと微笑んだ。
「もちろんだ。
完璧ではなく、誠実な君を――」
彼の手が、私の手を優しく包む。
「私は、選びたい」
夕陽が沈むその瞬間、
私は初めて、誰かに選ばれる温かさを知った。
――嘘と真実の先にあったのは、“誠実な恋”だった。
完。
よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。




