最終話 下村
下村と前沢はタクシーを降りると、夜気に押し込まれるように足を前へ運んだ。
湿った土の匂いが鼻を刺し、靴裏は砂利を踏むたびにざり、ざりと冷たい音を立てる。
ヘッドライトに照らし出された石像の群れは、苔むした表面に夜露をまとい、光を鈍く反射していた。石肌はざらつき、ところどころ剥がれ落ちた欠片から灰色の地肌が覗いている。
前沢は、その異様な光景に怯えたように声を上げた。
「こっ……これは?」
下村は胸の奥に絡みつく混乱を必死に抑え、乾いた喉を鳴らして答えた。
「……水子地蔵ですね。」
その瞬間、闇の底から布擦れの音とともに人影が浮かび上がった。
寺の住職と思しき老人である。月明かりに照らされたその顔は深い皺に覆われ、皮膚は土気色に乾ききっていた。
老人は眼窩の奥に濁った光を宿し、全てを知り尽くした者のように前沢を見つめた。
「……お待ちしておりました。」
湿り気を帯びた低音が耳にまとわりつくと、前沢の膝は砕けるように折れた。
冷えた石畳に額を擦りつけるようにして、言葉が吐き出される。
「あの夜……北川は避妊具を付けて欲しいと言ったのに、俺は強引に……」
「俺は北川を誰よりも愛していた……その自信はあった。でも……」
「なのに俺は彼女を守れなかった。自分の子供だったかもしれない、あの子さえも……」
懺悔の声は湿った夜の空気に沈み込み、石像の間で淀んだ。
横で聞いていた下村は、重い呼吸をひとつ洩らし、石像へと手を合わせた。
その時、今まで静かだったタクシーの中から再び赤ん坊の泣き声がし始めた。
そして、下村の脳裏に焼きつくような映像が流れ込む。
母の胎内、狭く暗い水の中。
重く圧迫されるような衝撃と苦痛。
冷たい刃物が肉を裂き、濁った血が漂う。
小さな体が乱暴に掴み取られ、ざらりとしたビニール袋へと押し込まれる。
「やめろ!!」
下村は叫んだ。
手を合わせていた右手に異様な重みがのしかかっていることに気づき瞼を開いた。
そこには、手に余るほどの大きな血に濡れた石。
傍らには頭蓋を砕かれた前沢の亡骸が横たわっていた。
そして、老人の姿も、赤ん坊の泣き声も消え失せていた。
耳を満たすのはタクシーのエンジン音だけ。低い唸りが生き物の呼吸のように鼓膜を震わせる。
北川を乗せたタクシーは、ヘッドライトの光を揺らしながら、ゆっくりと夜の闇へ滑り出していく。
下村はただ立ち尽くし、血に濡れた石を抱えたまま、その後ろ姿を茫然と見送るしかなかった。
やがて、闇の奥から乾いた轟音が響き渡った。
金属がひしゃげ、岩肌に擦り潰されるような音。
崖下へ車が転落していく残響だけが、永遠の呪詛のように下村の耳に焼きついた。




