第8話 地蔵
前沢は最初、北川の膝に置かれたものをただのカバンだと思い込んでいた。
しかし、それが全く違うものだと気づいた瞬間、背筋を氷で撫でられたような恐怖に襲われた。
喉が勝手に震え、言葉が噛み合わぬほどの慌てた声を上げる。
「う、うっ……運転手さん! 車を止めてくれ!」
必死の叫びに、前を向いたままの下村でさえ顔色を失い、冷静さを保てなかった。
ハンドルを握る手が汗で滑りながらも、彼は正直に告げる。
「そ、それが……! ハンドルもブレーキも効かないんです!」
言葉と同時に、車体が悲鳴をあげるようにカーブへ突っ込む。
無謀な速度で峠道を駆け抜けるタクシー。
車内には赤ん坊の泣き声が満ち、鉄と闇を切り裂くように響き渡った。
前沢は北川の横顔に縋るように問いかける。
声は震え、言葉は擦れ、今にも消えそうだった。
「それは……いったい、何なんだよ?」
北川は窓の外に焦点の定まらぬ眼差しを漂わせ、虚ろな声で答えた。
「……赤ちゃん」
その一言は、背後に潜んでいた何かの存在を確定させる印のように響いた。
やがて赤子の泣き声が細くなり、途絶えると同時に、タクシーは不自然なほど静かに減速していった。
タイヤが砂利を擦る音が止み、闇の奥でようやく停止する。
ヘッドライトに照らし出されたのは、無数の石像だった。
湿った苔と風化の傷をまとい、こちらを凝視するかのように並んでいる。
息を呑む間もなく、車内を包んだのは異様な静寂――生き物の気配すら消え失せた空白の時間だった。
その時、不意にドアロックが大きな音を立てて外れた。
「降りろ」と誰かに命じられたかのように。
下村は喉を詰まらせながらも、前沢へと視線を送る。
「……降りましょう」
息を吸うのさえ重苦しい空気の中、前沢は従うしかなかった。
二人はほとんど引きずられるようにタクシーを降り、冷たい夜気に身を晒した。




