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第5話 前沢

前沢の携帯が震えた。画面には北川の名前が淡く光っている。

「……もしもし」

受話器の向こうで、北川の声はいつもの明るさを失い、かすかに掠れ、緊張で震えていた。病院にいるから迎えに来てほしい。その短い言葉に、前沢の胸の奥で何かが跳ねた。


彼は長いあいだ北川を想ってきた。強く、静かに燃えるような恋慕を胸に抱きながらも、常に頭の片隅には岸谷の存在があった。整った顔立ち、落ち着いた振る舞い、すべてが自分よりも優れている。だからこそ、北川への想いを口にできず、ただ心の奥に押し込んでいた。


だが今は迷いがなかった。ハンドルを握る手に力を込め、前沢は夜の街を走らせる。窓の隙間から冷たい風が流れ込み、ジャケットの肩をひんやりと撫でた。街灯が濡れたアスファルトを照らし、光の輪が車内の革張りシートに揺れる。


病院の駐車場に車を滑り込ませると、北川に電話をした。北川は安堵の表情を浮かべて静かに助手席に乗り込んだ。北川は小さく礼を言ったが、口元は陰を帯びている。車内は深い沈黙に包まれ、前沢は事情を問いかけずに黙って走らせる。


だが、どこまで送ればいいのか? 道すがらの夜気はひんやりとして、前沢の掌に微かに汗を滲ませる。視線をそっと向けると、北川は窓の外の暗闇に目を落とした。

「……どこに行く?」


北川の声は小さく、冷えた窓ガラスを撫でる風のように弱々しかった。

「……前沢さんの部屋でいい」


一人暮らしのアパートの部屋に足を踏み入れた北川はしばらく沈黙し、やがて重い口を開き、経緯と事情を説明した。妊娠した子供は、自分の子供だったかもしれない。その告白が、前沢の胸を締めつける。


悲しみと、北川が受けた暴力への怒りが一気に体を駆け巡った。ひんやりした床を踏みしめる感触や、静まり返った部屋の空気の重さが、胸の内の決意をさらに鮮明にする。前沢は静かに覚悟を決めた。岸谷と向き合い、すべてを問いただす。胸の奥でくすぶっていた想いと怒りが、夜のアパートに重く漂う空気の中で、確かに形を成していくのを感じた。

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