第4話 北川
北川は、ここしばらく続いていた吐き気の理由を悟っていた。
それでも確かめずにはいられず、震える指先で箱を裂き、細長い検査薬を取り出す。安物のプラスチックは頼りなく軽く、だが手のひらの中でやけに重く感じられた。浴室の蛍光灯は白々しく光り、タイルの冷気が素足からじわじわと這い上がってくる。やがて、白地に赤い線が浮かび上がったとき、胸の奥で血が沸き立つように脈が乱れた。やはり妊娠していた。
大学時代から五年、岸谷と共に暮らしてきた部屋。そこに染み付いた洗剤と男物の整髪料の匂いが、急に遠いものに思える。けれど、心の奥にはどうしても消せない影があった。あのアルバイト先の懇親会。酒精に喉を焼かれ、熱気と煙草のにおいが渦巻く狭い座敷。頬を火照らせたまま、日頃から親身になって相談に乗ってきてくれていた前沢の肩に寄りかかった夜。シーツのざらつきまでが今も指先に残っている。
どちらの子供なのか分からない。その不安を飲み込み、北川は岸谷に妊娠を告げた。
「子供ができたの」
声は乾ききっていて、自分のものとは思えなかった。
岸谷の目は曇りガラスのように冷ややかで、湿った部屋の空気さえも一気に凍りつかせた。彼は結婚も子供も望んでいない。硬く閉ざした口元が、その答えを突きつける。北川が縋りついた腕は、布の下から骨ばっていて冷たく、振り払われた瞬間に体は無力に床へ沈んだ。古いフローリングが背に痛みを跳ね返す。
そして次の瞬間、腹部に重く鈍い衝撃に息が詰まった。じわりとした熱が下腹に広がり、冷汗が額を濡らす。岸谷は吐息すら残さず、ドアを叩きつけるように閉めて去った。
部屋に残されたのは、自分の荒い呼吸と壁時計の音だけ。胸の奥を締め付ける恐怖に、北川は震える手で電話を取り、救急車を呼んだ。
搬送された病院。消毒薬の匂いが刺すように鼻をつき、ベッドシーツは冷たく硬かった。医師が低く抑えた声で告げた言葉は、冷鉄の刃のように心臓を裂いた。
「残念ですが、お子さんは・・・それと、もう今後は妊娠は望めません。」
その瞬間、世界が薄い氷に閉じ込められたように遠ざかっていく。視界は涙で滲み、白い天井の蛍光灯が滲んだ光の輪となった。冷え切った布団を握りしめながら、北川はただ深い悲嘆に沈んでいった。




