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第2話 コンビニ

タクシーは、町の灯が途切れがちになり、夜の闇がじわじわと濃さを増してゆく道を走っていた。

フロントガラスの向こうに広がる景色は、黒々とした森と、遠くで瞬く外れの住宅の明かりだけ。街灯はまばらで、舗装の継ぎ目を踏むたびに車体が小さく震えた。


下村は、ハンドルに添えた手の力を緩めながら、後部座席の赤ん坊を気遣ってカーラジオを切った。

車内には、エンジンの低い鼓動と、窓をかすめる風のざわめきが充満する。

しかし、その中にあるはずの柔らかな寝息は一向に耳に届かない。


女の膝に抱かれた赤ん坊は、まるで眠りの深みに沈んでいるようだった。だが、その静けさはあまりに完璧で、どこか不自然だった。

長年、乗客に不快を与えぬよう神経を張りつめ、路面の小さな段差にさえ注意を払ってきた下村には、かえって異様に思えたのだ。


女が静かに声をかけたのは、その時だった。

「すみません。この先にあるコンビニで、一度停めてもらえませんか」


「はい。コンビニエンスストアですね。かしこまりました」

下村は即答した。彼の声は、夜の冷えた空気に押しつぶされるように低く響いた。


やがて前方に、暗闇を押しのけるようなコンビニの白い光が浮かんだ。

緑と赤の看板が夜露に濡れ、滲んだ輪郭を描いている。


「あのコンビニでよろしいでしょうか」

「はい」


駐車場に車を滑り込ませると、照明に照らされたアスファルトは湿り気を帯び、鈍い反射を返した。

しかし女は降りようとせず、窓の向こうの闇を交互に見やり、気配を探るように周囲を確かめていた。


「友人と待ち合わせをしているんです」


その声は小さく、まるで自分自身に言い聞かせるようでもあった。

携帯電話を取り出して耳に当てると、彼女は短く言葉を交わす。


「もしもし。今、着いたから。うん。」


その直後、駐車場の端にある植え込みの影が揺れ、一人の男が姿を現した。

照明に照らされたその顔には疲労の色が濃かったが、後部座席の女を見つけると、足取りが急に確かなものへと変わる。靴底が湿ったアスファルトを押し、細かい水滴が跳ねた。


下村は心得たようにドアを開けた。

男は黙って乗り込み、しばらく呼吸を整えた後、女を見つめて言葉を落とした。


「これで、良かったんだよな」


その言葉は車内に沈殿するように響き、女は小さく頷いた。

そして下村に向かって、囁くように告げる。

「運転手さん、ありがとうございます。車を発進させてください」


長年の経験の中で、客同士の諍いや酔客の無茶には幾度も遭遇してきた下村だったが、今目の前にある沈黙は、それらとはまるで異質なものだった。

それでも、この峠を越えれば目的地の高級住宅街だ。高額の運賃を受け取れば、後は帰って眠るだけ。そう言い聞かせるように呼吸を整える。


「かしこまりました。それでは」


そう応じてギアを入れると、タクシーはゆっくりと照明の輪から抜け出し、闇に沈む峠道の入り口へと滑り込んでいった。

コンビニの光は、バックミラーの奥でじわじわと小さくなり、やがて夜の闇に飲み込まれた。

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