第1話 下村
下村は、週末の夜の繁華街であれば乗客を見つけることが出来ると思いタクシーを流した。
車窓の外では、濡れたアスファルトにネオンが溶け、赤や青の光が水溜りの膜にゆらゆらと揺れていた。金曜の夜なら酔客で道端は騒がしく、手を上げる者も多いはずなのに、その夜は違った。信号待ちのたびに聞こえるのは、遠くから漂う笑い声やカラオケの掠れた歌だけで、誰ひとり下村のタクシーには目を向けない。
気づけば、車は繁華街の明滅する光を背に、静まり返った住宅街へ入り込んでいた。ハンドルを握る掌にじんわり汗が滲み、合皮のステアリングがしっとりとした抵抗を返す。道を誤ったわけではない。だが、車体を包む夜気はどこかよそよそしく、窓越しに漂う湿った土の匂いが、胸の奥に小さな違和を残した。
そのとき、歩道に人影が立った。
街灯の下、白っぽいワンピースの胸に赤子を抱いた若い女が、ゆっくりと片手を上げていた。深夜の住宅街で乗客を見つけるなど、常識的にはあり得ない。下村は不思議に思いながらも、女の傍に滑り込むようにゆっくりとタクシーを寄せた。
ドアが解錠される軽い音に続いて、後部座席が軋んで開き、女が乗り込む。シートの古びた布地がわずかに擦れ、赤子を抱く腕の影がヘッドライトの余光にかすかに揺れた。その小さな顔は、暗がりに沈んでいて判然としない。
「どちらまで、でしょうか?」
ルームミラー越しに声をかけると、女は静かに隣町の高級住宅地の名を口にした。
そこへ向かうには峠道を越えねばならない。下村はバックミラーに視線を残しつつ、慎重に告げた。
「ここからですと、長い峠道を通らなければなりません。運賃が高額になりますが、よろしいでしょうか?」
女は息を呑む気配もなく、低い声で答える。
「はい。それで構いません。」
その一言に、下村の肩から力が抜ける。今夜初めての上客。そう思うと、胸の奥にじんわりと温い安堵が広がり、気分良くタクシーを発進させた。エンジンの唸りが車内を震わせ、古い芳香剤の甘ったるい匂いが鼻を掠める。タクシーは静かに住宅街を離れ、黒々とした峠道へ向かっていった。