第九話 闇と光
珍しく体調を崩した。幸いに休日だったのがせめてもの救い。
体調を崩すとどうも弱気になる。叶がしんどそうにしているのを見ることも苦手だ。自分もそんなに強い人間ではないということを思い知らされる。
「食べられそうなものがあれば言ってください。なんでもしますから」
テキパキと経口補水液と氷枕を用意していく叶。
教師になったから、というのもあるのか手つきが慣れている。あとは私が滅多に体調不良に陥らないためか、全力で看病するという意気込みをよくしていた。シミュレーションでもしていた甲斐あってのことだろうか。
そんなところも彼女らしいと思いながらあまりのしんどさに目を閉じる。体調がいいに越したことはない。若くはない身にこたえる。
最初はテキパキとしていたはずが次第にうろたえていく同居人。
そんな様子が面白い、がそんなことを思える余裕もない。しんどいとしか言いようがないのに、脳内は叶を求める。
声にならないほどの呟きを叶はすぐさま耳に拾った。超特急で駆けつけてくる純粋無垢な彼女に手を握られた。
「綾音様、今日はしっかり休んでください。いつも私のことを心配してくれる割にあなたは無理をしすぎです。たまにはちゃんと寝るのも大事ですよ」
額を撫でられ、寝室に置かれている椅子に腰をかける物音が聞こえた。近くに居てくれる、それだけで人は安心するというもの。
力が切れる感覚とともにまぶたが下がった。すぐ近くにぬくもりを感じることができたからか、さほど苦しむことなく眠りに落ちた。
目が覚めると、すっかり日が落ちていた。暗くなった部屋に点けられた豆電球。
誰もいない静寂さにどこか哀切さえ感じる。まだ怠さは残るが幾分マシになった。叶はどこだろう、と身体を起こすと嫌な予感がした。
その予感はすぐに的中することになる。
「今瀬綾音、調子はどう?」
「なんでお前がここに居るんだ。誰が家に上がっていいと言った」
気配を隠す気もなく呑気に現れた元同僚。
喉の痛みをこらえながら、目の前に立ちはだかる雪里凪に歯向かった。叶の代わりにこいつが現れるなんていう悪夢は見たくない。
なぜここに居るのか。鍵はどうした。聞きたいことが山のように積もっていく。
「綾音のお守りに来ただけだしそんな顔するな。早瀬に頼まれただけ、というかそんな殺気立つのやめて」
叶が買い物に行くからと召喚したのがこいつだったわけだ。
……待てよ、なんで叶が雪里の連絡先を知っている?接点もない、雪里は一教師であり叶は一生徒の関係だろう?関係も接点も随分とないはずだが。まさか、いや、そんなまさか。ああ、喫茶店か?でも交換なんてしていなかったはずだ。
「なんで連絡できたんだ、って?私が言い寄った、っていうのは嘘で。部活の大会でばったり会ったついでにな。というか本当に殺されそうで怖いんだけど。そんな目で見るな」
殺意の湧いた目をしていたらしい。だがそれも仕方がない話だと思いながら瞬きをして気持ちを整える。
病人の目になった、と笑われた気がした。
少しでも二人を疑った自分が悪かった。そんなはずもない、叶はそんな器用ではないし雪里もまた不器用だ。まずそんな関係になるはずがない。叶は私だけを愛している。
それに、私の愛する人が一番そんなことをするはずがなかった。
親がまともでないが故の苦悩にいつも苛まれていた。自分だけはそんな人になりたくないと、ならないでくれと泣きついてくるのだから。
それにしてもこんな体調の悪い醜態をさらけ出してしまうとは人生の恥だ。消えてしまいたい、と思った瞬間に叶が帰ってきた。
「綾音様、起きたんですね。雪里先生、忙しいのにありがとうございました」
「いいよ、体調悪い姿とか超レアだし」
ベッドを降りて胸ぐらを掴もうとしたが叶に制されてしまった。その隙に手のひらを向けて逃げ帰っていく元同僚。なんだか一気にどっと疲れた。
ベッドに崩れるようにして天井を仰ぐ。揺らいだ視界に彼女が映った。
「雪里先生に買い物行かせたほうがよかったですね、そうすればよかった。ごめんなさい、綾音様。気が利かなくて」
何故彼女が自己嫌悪に陥っているんだ。悪いのは体調を崩した私だというのに……。ああ、こうなるとお互いに自己嫌悪で苦しむことになる。どうにかこの悪循環から逃れなければいけない。が、この状態では頭が働くどころか余計に悪化するだけだ。
「いいよ、一人にしないでくれたんだから。人選はミスってたけど」
「絶対よくないですよね、それ」
苦笑しながら布団を被らせてくれる彼女が守護天使のように見えてきたあたり、大分しんどいらしい。
「あなたが思っている以上に私はあなたが好きなんですよ」
そう云って軽く口づけをされた。熱がみるみると上がっていく。布団を深く被るとドアが静かに閉まった。
閉じられたドアの向こうに叶はまだ居る。きっと立ったまま悶えているのだろう。病人に口づけをするとは、困ったやつだ。
胸の鼓動を抑えられないまま私もまた悶々と考える。
私の心情を察知しての行動があれだった。本当に疑う余地すらないのに、いくら体調が悪いからといってそんな思考に陥って申し訳ない。
「無理をしすぎるのもよくないです。そんなこと、微塵も感じ取れていないんでしょうけど。綾音様は無理をしてでも休むことを知ったほうがいいんじゃないですか」
再び眠りにつきそうなとき、虚ろな視線の先に叶が居た。
頭を撫でられているはずなのに強めの口調と言葉が合わさっていることにどこか安心を覚える。
確かに最近は働き詰めだったかもしれない。疲れを感じる暇も与えられないまま限界を超えて今に至るわけだし。
「甘えていいんですよ。大丈夫、もうどこも行きませんから」
優しさにすがるように抱きつく。あたたかくて、心地よい。今安心できる場所はここだと、心が言う。
膝の上に寝転がって腰に腕を回す。うとうととまぶたが閉じそうになるのに反抗しながらぼやけた輪郭へ手を伸ばした。
「ずっといっしょ、いてね」
そしてまた眠りについた。
「否定も肯定もしない、それでも真面目で、でも優しくて、誰よりも痛みを知ってて、傷付いてきた人」目が覚めたとき、耳に残っていた言葉。一体何の夢を見ていたのだろう。熱がある割に、幸せな夢を見ていた気がするのは気の所為ではないようだ。
後から聞いた話によると、どうも私が珍しく甘えたせいで叶はしばらくベッドの上で硬直していたらしい。朝に目が覚めるとまだ膝の上で寝れていたのはそういうわけだったのか。妙に納得した。
硬直しながら永遠と頭を撫でて何度もその瞬間をリピートしていたと言う叶は一睡もしていなかったせいで特に変わらぬ顔を見せた。疲れてもなければ疲れが飛んでいったらしい。彼女の言うことは稀に意味が分からない。
結局なにもできなかったと嘆いていてもいたが、十分なほどに手厚く優しくしてくれたと思う。一人だったら床に這いつくばったまま死体と化していただろう。
そんな冗談を言うと今にないくらいの低いトーンで咎められた。この世で一番怖いのはこの子かもしれない。
これもまた後で聞いた話だが本当に何の役にも立たなかった雪里は大会で叶を見つけ、わざわざ今瀬綾音の親友であり元同僚だと言い放ったらしい。そこは一応嘘ではなかったようだ。
元同僚なのは叶も知っていること。元は私たちの生徒であったのだから。
「やっぱり好きなんでしょうねー、あなたのこと。駄目ですよ、綾音様。あんな人に口説かれたらろくなことがありません」
「好きとかないと思うけどな。ただ邪魔したいだけだろ、あんなの」
一瞬身を固まらせ、屈託のない笑顔を向けられた。その意味することは分からない。だが、重い枷を外されたように見えた。なにがともあれ心身ともに健康でいるのが一番いい。
「しんどすぎて叶の名前ひたすらなんか念じてた」
冗談交じりでそう言ってみると、驚くような顔をして笑われた。何気にショックを受けていると、違うんだと弁明された。
「私もそうですよ。高校生のとき、結構体調崩してたし……。公園で倒れたこともありましたっけ、あれは本当に謝っておきます。しんどいときって一番大切な人を求めてしまうんでしょうね、生きるために」
ひたすら綾音様と思っていたのだと、抱きつかれながら言われた。悪い気はしないし、特別になれたようでうれしくもある。ただもう倒れた、という知らせを受け取りたくはない。こっちが死ぬかと思ったくらいだ。
それからも雪里がなにを考えて叶に近寄るのか、私に言い寄るのか。意味が分からないまま時は過ぎていき、そんなことがあったこともすっかり忘れてしまった。
思い出すことも、しばらくないだろう。




