第八話 手紙
久しぶりに手紙を開く。
叶が家を空けている間、気持ちを紛らわせたかった。
何年も持ち歩いていたが、どこかに落とされたら恥さらしだと一喝を入れられ鍵付きの引き出しに仕舞われることになったもの。
ペットカメラのデータをブルーレイに保存したのも叶にはバレている。前の家で私はそれを床に落としたまま仕事に行ったのだ。
咄嗟に誤魔化してみたが、あの反応はきっと見ていたに違いない。昨日の出来事のように思える記憶が、随分前のものになっていることに驚愕する。その分思い出はたくさん増えた。落とし物はもうしない。
幼い早瀬が書いた一通目の手紙。小さく、どこか寂しさを物語るような文字に視線を落とす。
よくある感謝が冒頭に書かれ、それ以降は試行錯誤しながら書いたのであろう言葉が並べられていた。冒頭から頭を悩ませた痕跡が残されているのも、あの少女らしくて頬が緩む。
一文、様子のおかしいものがあった。
「先生の前で、いや、なんでもないです。今瀬先生のことが、ずっと大好きです」
なにを思って書いてくれたのか。
大好きという一語は、最初読んだときは当たり前に恋愛感情だとか、そういうものだとは思っていなかった。教師冥利に尽きる、と思った。
誰よりも気にかけていた生徒に、そう言ってもらえたこと、思ってくれたこと。教師という立場はそんな甘いものではない。だからこそ、報われたような気がした。大変なことのほうが多いとはいえ、この瞬間があるからこそ続ける価値がある。続けてよかったと思える。
まぁ、この”大好き”というのはそう軽いものでなかったのは確かだ。
私はと言えば、生徒にそんな感情を持つなんて言語道断であるし人を好きになったことすらないような大人だったのに、なにかを期待してしまっている自分がそこに居た。無論、それは呆気なく砕け散るのだが。
連絡先くらい書いたって損はなかったのではないかと数年経ってから訊いてみると、「悩んだ挙げ句の結果だった」と伝えられた。「後悔せずに中学校生活を終えて、先生との関係も教師と生徒のままで終わらせようと思っていた」のだと。
まさかこの関係で安定するとはお互いに思ってもみなかったし、私も私でなぜ叶の家に転がり込んだのか自分で疑問に思う。
便箋を封筒に戻し、叶の部屋に立ち入った。独断で個室に入ることは許さない、と互いに契った約束を勝手に無効にした。掃除をしに、という目的ならば許されるだろう。
辺りを見渡しながら部屋の真ん中に座る。叶の匂いを胸に溜めながら白い天井を見上げた。脳裏に声が響いていくように感じる。
腰に限界が来る前に椅子に掛け、机にちらばった紙類に目を通す。教材研究をしっかりしている様子だった。流石は私の教え子、抜け目がない。付箋にメモに、重要なのであろう部分に何重にも線が引かれていた。
中学生の頃より真面目に勉強してます、そう苦笑しながらも嬉しそうにしているのを見るのは私としても喜びを覚えた。
中学時代の叶は成績が悪いことで職員室の間では評判になったりもした。「どうせ死ぬのになんで勉強なんてしないといけないんですか」と呟かれたときは反応に困った記憶がある。
確かにそうだな、とも思った。死ぬまでの時間をどう使うかは君次第だと、私は言った。
「いつか頑張ったって言えるようになる」後の授業で二人組みを組ませて余った早瀬を呼んだとき、そう言われた。以前よりも明瞭で真っ直ぐな視線で。頑張れ、と声をかけたのを覚えている。
今思えば、助けてほしかったのかもしれない。否定も肯定もしないところがいいんだとよく言われる。果たしてそうだろうか。結局は受け取り手次第。成長を手助けできたのなら、それで十分だ。
高校生活での叶は、私と暮らし始めたのを境に勉学に励むようになった。たまにテスト勉強の対策も一緒にしたが、私のほうができなくなってやめた。
出勤した後、一人だったら暇だからとよく机に張り付いて、疲れたら家事を進める、という優等生の姿をペットカメラ越しによく見ていた。
大人の私でもできることではないが故に感心ばかりして壊滅的な料理の腕前は壊滅のまま。そろそろ本当に呆れを通り越されてしまいそう。
そして成績優秀とまではいかなくとも、確かに努力が実り、大学も自力で入った。やればできる子なのだと、感嘆を漏らす。
受験費用さえもどちらが出すかで随分揉めた。出世払いで、と言ったのにバイト代ですぐに返ってきたときには苦笑いした。あまりに真面目すぎだ。
「綾音様、まさか私の部屋に入ってないですよね?」
突如として通知を鳴らすスマホに焦りながら返信を打つ。もちろん「入ってない」と送った。なぜ分かったのだろう、と背筋が寒くなるのを感じた。
そして突然鳴り出すスマホに慌てながら応答のボタンを押す。電話をする機会はたまにある。耳に直接飛び込んでくる叶の声にはまだ慣れない。胸がかき乱される。
「絶対入ってますよね」
「入ってないってば」
もしもし、と言い合ってから、ちゃんとご飯を食べたか、体調は大丈夫かと質問攻めを食らった。心配性なのはお互いにだが、あまりに心配されるとついからかいたくなる。
「電話してて大丈夫なの?それに叶もだよ、体調には気をつけて」
「両方大丈夫です。ちゃんと布団かぶって寝るんですよ、綾音様」
多少の会話をして、電話を切った。彼女は環境が変わるとすぐに体調に失調をきたす。果たして本当に大丈夫なのか。心配しながら、静かな家が寂しさを漂わせていく。
すっと息を吸い込み、腰を上げる。視界の隅に入ったアルバムの元まで足を運び、指先を掛ける。叶が通っていた中学校の卒業アルバム。
叶の死んだような表情の映るクラス写真。笑いもせず焦点もどこか合っていない個人写真。かくいう私も教師陣の写真では目も当てられないほどの表情をしていたはずだ。
ページを捲ると、一枚の紙が落ちた。随分と年月の経った紙に見える。
「好きになってたくさん悩んで苦しんで。それでも愛して大好きで、今を生きている人生のほうが当たり前にいい。好きになったのは必然だから」
殴り書きのようにそう記されていた。
叶の心はどこにあるのだろう、と思った。
光もない暗い世界で生き延びてきた彼女。今を生きているのは私のおかげだと笑っていた彼女。
君の心の場所はどこだ、どこにある。触れることも癒やすこともできない場所になんて行かないでいい。そこに居てくれたらなんでもいい。
そう思っても、今ここに居ない叶に言うことはできない。もどかしいが、わざわざ連絡する必要もないように思えた。
紙を裏返してみると見覚えのある筆跡があった。私がいつだかに書いたもの。
記憶を馳せてみると、「カッター買ったんです」と言われたあの日を思い出した。そう、とだけ言ってその場は終わった。
問題はその後だ。なんとも形容しがたい不安に駆られ、「なにかあったら相談するように」と紙切れに書いてこっそり手渡した。相談なんてものは当たり前にされなかった。でも、まだこれを持っていたとは。
二通目の手紙も読み返す。高校を卒業したらくれるはずだった。が、卒業しても年度末まではお前は高校生だと言った私に、それなら恋人になってから渡すと先延ばしにされた代物。
反抗されることも滅多になかったせいでそれすらうれしかった。こいつも年相応の人間なんだと安心した。
感謝の綴られた文を読み上げると彼女は怒ったが、その反応も愛おしかった。
やはり感謝が綴られて、胸の内に秘められていた葛藤も書かれていた。一緒に居ていいに決まっているのに、本当にいいのかとずっと考えていたらしい。気持ちは分かるが、親代わりとして三年間を共にした私にそれを言うか。
毎日のように好きだと言いながら抱きついてきて、恋人になってくれとせがんできた少女を思い浮かべると自然と口角が緩む。生きるのに必死だったのだ、叶は。恋人になって数年、今の叶はなにを目標に生きているのだろう。
読みやすいように丁寧に書いたのだと後に聞いた。じゃあ前のは?と茶化すとまた子犬のように吠えられたんだったか。どれも無意味で幸せな時間。
そんな時間が意味を持つようになるのもそう遅くはない。既に生きる糧になっている。
夜が深まっていく中、一通の通知が入った。
「今日もお疲れさまです、綾音様。夢にでも遊びに行くので!遊び散らかしたらすみません」
なんだこれは、と思いながら返信を打つ。待ってる、いや、なんと送るのが正解か。叶らしいユーモアの混じった文面とにらめっこしながら悪戦苦闘する。
悩みに悩んだ挙げ句にじゃあ私は君の夢で遊び散らかす」そう送った。一瞬で既読がつくのも彼女の優しさだ。
一人で眠る夜はやけに静かで空気が冷たく感じられた。
叶がいつも使っている枕を抱きしめ、日頃の疲れが眠りに誘った。なにをして遊ぼうか。そんなことを考えながら、朝が来る速さに打ちひしがれるまで眠りについた。




