第七話 好きの形
滅多に声を上げることはしないが、この日ばかりは絶叫に近い声を上げた。
「なんでなのか生徒に好きだって言われました」
「は?」
電子レンジで作り置きのおかずを温めながらそう話す私の彼女。
私も卒業を見届けた生徒に「先生、恋人になりませんか?!」なんて言われたけども。どこのどいつだ懲らしめてやりたい。叶は私のものだ。
止まらない思考を見透かすかのような眼差しを向けられる。
本当に似てきた、というよりもう分身まである。優しく、甘いだけではない芯のある眼差しに心を掴まれるのも仕方がない。だからといって、だ。
「びっくりですよね」
笑いながらそう言われてもびっくりしているのはこの私だ。
話を聞いてみると告白してきたのは女子生徒らしい。そこにも驚いた。それより驚いたのは叶が私と同じように生徒と接していたこと、と思ったわけではなくそう言われたことである。
「綾音様が、今瀬先生がよく『元気?』って訊いてくれたのが当時の支えだったんです。だから私もよく真似してるんですけどね。一見なんでもない一言が心を救ってくれる。多分その子もそうだったんだろうな」
一つの言葉で誰かの人生を良くも悪くも変えることができる。私は叶にも、他の生徒にも元気かとよく訊いていた。今もたまに言っている。
知らないうちにロールモデルに設定され、私が言った言葉が知らない誰かに繋がっていく。誇らしいようで栄光なようで。だからといって叶に告白するとは。
「ちゃんと見てくれて、否定せず、まっすぐに。それが当たり前のように接してくれる人って早々居ませんし。私は綾音様に出会えて本当によかったです」
「それはそうと、ちゃんと断ったんだろうね?」
当たり前じゃないですか、と頭を撫でられながら答えられた。そりゃそうだ、教師と生徒である以上、一線を越えることは許されない。断ることも教育である。
私は別に、叶が卒業していたからセーフであろう。きっと、多分。そうだと思いたい。
「先生結婚してるよ?って言ったら腰抜かされました」
それを聞いてこの日ばかりは大笑いした。絶叫したり笑ったり、この短時間で感情がころころと変わっている。それも彼女が居てくれるからだ。無で過ごすような時間はない。
結婚か。叶は指輪を職場に着けていかないから生徒が気付くはずもない。男気のない叶だから、生徒に言い寄られたのだろう。
私という人間が居ることも知らずに呑気な生徒だな、全く。勉強でもしておけばいいのに。
誰よりも寄り添って、一線を引いているのに立場を感じさせない。私よりも上手く生徒と接しているのでは、と思うほどに早瀬は成長していた。
言葉よりも大切なのはそこに居る人を信じること。それを彼女はすでに分かっていて、それをこなしていた。
告白してきたのはこれまた一軍女子、それもかなりの美人と周りから一目置かれている子であったらしい。何の罰ゲームだと叶も訊いたようだが、本気だと言う。
彼女もすごい先生になったものだと感心した。空気と同化したがっていたのに。あれほど人間を嫌っていたにも関わらず、教職という仕事に就いて随分と変わったように思う。
「職員室まで来て話しに来てくれるとか流石陽キャだなー、って思いますけどね。私には接するのが精一杯だというのに……」
やっぱりあまり変わっていないように見えた。
生徒の前で空気になるわけにもいかない。必死で耐えている光景が目に浮かぶ。言葉を選び、へつらいの笑みを見せでもしていそう。そんなことを口に出せば間違いなくあの目で睨まれる。
教室の隅で存在を消していた生徒が、教壇に立って授業をして生徒の話を聞いて――次第に彼女が超人に見えてきた。神に匹敵するかそれを越している。
それにしても女子にモテたのか、こいつは。努力家な一面は生徒から見ても分かるはずだ。どこに惹かれてどこを好きになったのかは知りたくもないが、分からなくもない。
「私だけだよ」
「当たり前です」
温め終わった主菜を取り出し、ラップを外しながら顔を見合わせる。
一度きり人生に居させてくれてありがとう。心からそう思える人に出会えたキセキを噛み締めながら、そっと背中に腕を回した。
鼓動と体温を感じられるこの瞬間はとてつもない安心を全身に浴びせた。
何年経ってもまるで新婚のように愛し合っている。と言うと少し恥ずかしいし馬鹿だとも思えてくる。自分的にはそれでいいし叶からしてもそれが日常。それならもうなんでもいいという腹づもりになっている。
年も離れているからこうして生活ができているのかもしれない。それなら、年の差も悪くないかもしれないと思えた。
晩ご飯を食べ、何年振りかに見つけられたフリスビーを持ち、昔たまに行っていた公園に出向いた。忙しない日々が続く私たちにもたまの休息は必要だ。
それに運動不足の人間がすぐそばに居る以上、見過ごすわけにもいかない。
「準備運動はしっかりね」
「分かってます、今瀬先生」
不意打ちの先生呼びは心臓に悪い。ただこうして準備運動をしていると、教師と生徒であったあの頃の面影が浮かび上がってくる。あの頃はあの頃で楽しかった。いつも目が死んでいた早瀬を一番心配していたのはこの私だろう。
冷たい手は今も健在。包み込むと口角を緩ませた。
過去に戻りたいかと問われたら戻りたくないと答える。今が結局一番いいのだ。
「相変わらず下手だな」
「悪かったですね」
叶の運動音痴は今に始まったことではない。ずっと見てきているからこそ言えるが、この子は生粋の運動音痴。見ていると大変面白い。ぴょこぴょこ飛び跳ねては取り損ねる姿は見ていて飽きない。
真剣なのがまた愛しさを爆発させる。天性の才能だ。
「綾音様にあの夜、あんなこと言って完全に終わったって思いましたよ」
あの夜は私も、教師という立場に立ってから一番驚いた。恋人になりませんか、なんて言われると思っていなかった。それも早瀬に。
叶うどころか壊れるところだったと苦笑いする彼女。
立ち去ろうとした瞬間に後ろから言われた言葉は、流石の私も後ろ髪を引かれた。こんなに大胆な奴だったか、と思いながら冷静に対処したつもりだった。その結果がこれだ。思いもよらぬことが起きた。人生なにがあるか分からない。
「家行くとか思ってなかったんだけど、若気の至りだな」
「今はもう無理です、流石に」
あれほど毎日のように恋人になってくれとせがんでいた少女はそのまま大人になった。
恋人になってくれと言われることは今ではなくなってしまったが、大好きだから一生一緒に居てくれと言うようになった。そう言われなくともそうするつもりだ。大体何処かに行くのは彼女の方だと思うが。
恋人になった。結婚しているも同然の関係になった。ゴールなんていうものは、最初からなかったのかもしれない。
「多分、振り返ってくれなかったら。自分は区切りをつけれたかもしれない。多分、自分だけだった、って思った。でもそうはならなかった。現にこうなってますし」
あそこで振り返らなければ。いや、振り返らない人なんて居るか?恋人になりませんか、などと言われることなんて何度もあるはずもない。
投げるのも受け止めることも下手な彼女との思い出話は唐突に始まり唐突に終わる。
若かったからというだけで幕を閉じられるものでもない。仕事の話に切り替わったと思えばまた話が変わる。これもまた日常、いつもの幸せな時間。
「綾音様、恋人になってくれてありがとうございます」
「こちらこそだよ。ありがとう」
恋人になることは高校を卒業するまで許さなかった。だが、恋人になるという覚悟は疾うの昔にできていた。
何度も目の前から消え、知らないところで自分を傷付け。それが叶の日常だったのだろうが、私からしたら心労がすごかった。飛び出して行っては捕まえ、傷付けては叱り。いつ自ら命を投げ出すか分からない恐怖。
名もないようなどこかにほっつき歩き、どこかのネオン街に彷徨い、雨の降りしきる夜道へと走り去る。
そんなことでしか痛みを表現できなかったのだとしても。こっちの身にもなれ、と思っても。憎めるどころか安心ばかりが募っていく。生きてくれているのが当たり前などではない。
ただ、共に時間を過ごしていくうちに「これ以上迷惑をかけたくない」と心労を覚える回数は減っていったように思う。
教師の立場からでは見えなかった姿が、恋人未満としてその姿がはっきりと見えた。
「自分で自分を肯定する術を教えてくれた人。感謝してます」
誰かのためなら命をかけられる。叶も私も互いのためならなんでもできた。
「出会って、好きになって。今までの人生を否定したら、あなたまで否定してしまいそうで。そんなことできないから、したくないから。後悔するんじゃなくて、それも必要なことだったって思えるようになった。ありがとう、先生」
どちらかが欠ければ崩れ落ちる人生も悪くはないだろう。危うさしかないかもしれない。でもそれ以上に幸せに、安寧に過ごしている。今を選んだのは紛れもなく私たちだ。
否定も肯定もしない人。それは案外、叶のほうだった。




