第二十一話 叶って叶えて叶わない
「ただいま。やっぱり外は寒い」
「早かったな。ただいまって言ってもここはお前の家じゃないから」
駅から走って帰ってきたのか、顔を紅潮させて息を切らしている。そんなに老体にムチを打たなくても、と思った。
後追いされては困るのだと言われても、それは雪里のエゴでしかない。
ふと、思い出す。後追いだけは駄目だと生前に言われていた。手紙にも書かれていた。当の本人が居ないのだから、どうでもいい。死後の世界で怒られるなら本望とさえ思えてくる。
「よからぬことを考えるのはやめろ。空野さんだったか、言ってたよ。私たちが早瀬先生の分まで生きないといけない、って」
彼女の分まで生きる。それは不可能でしかない。それでも生きていけと言うのなら、やはり神様は意地悪だ。何なら悪魔だ。私の大切なものを奪っておきながら。
椅子に座ったままの私をひと目見てため息を吐く雪里。どこか意を決したように思えた。
「馬鹿って言ってよ。叶わないの、分かってるのにさ。どれだけ泣いても叶いやしない。願っても意味ない。それなのにお前ときたら何にも気付きやしない。早瀬はすぐに気付いてたよ。きっと前から」
頬を紅潮させてはそこに涙を流して次々と言葉が放たれていく。
こいつは私のことが好きだった。それに気付くでもなく、適当にあしらいながらここまで来た。
今生きているのは誰のおかげだ?叶であるのはもちろんだが。この冬を共にしてくれている雪里のおかげじゃないのか。雪里が居なければとっくの昔に後追いしていた。
それか叶と一緒に死んでいた。
”今一緒に居てくれている人”それは紛れもなく、雪里凪。
今、大切にするべき人は長年一緒に居てくれた雪里なのだと、隣でそう言われたような気がした。
「苦しいよな、悲しいよな。やりきれないのは私もだ。早瀬はもっと生きて、教師を続けるべきだった。痛みを知っているからこその人望があった。あいつ、私に言ったんだ」
天井を見上げたまま一呼吸置いた。
「先生からしたら自分なんて一生徒。自分一人居なくなろうと、先生の周りには素敵な人がたくさん居る。それなら、きっと大丈夫だって。そう思ってた、思ってます。そんな考えは身勝手なんでしょうか。ってさ。電話越しだったから分からないけど泣いてたんじゃないかな」
花の芽吹く季節がすぐそこにやってこようとしていても、誰かを失くせば時は止まったままになる。
人がひとり居なくなるということは、どれだけ周りに人が居たとしても辛いもの。長い教師人生を歩んでそれを知った。それが何よりも大切な人だったとしたら、より辛い。
雪里も辛いのだろう。叶の代わりになれもしないことを分かっていながら私を生かさないといけないのだから。
そんな重荷を背負わなくてもいいのに。見捨ててくれたらいいのに。
「身勝手だって答えた。お前は綾音のなにを見てきたんだ?って訊いた。余計に泣かれたけど、早瀬も分かってたんだ。何十年も一緒に生きてきた人が居なくなるなんて、嫌に決まってる。……ほんとに、どれほど特別で大切なのか、お前らは分かっていない」
叶も私も、人を傷付けてきてしまったのかもしれない。
挟み打ちにされた雪里が一番、私たちの理解者だった。言いたい放題に言って、甘えて。それでも受け止めてくれるという確信があった。誰よりも優しく、そして強い人。
「お互い一番大事な人でありたかった。でも無理だった。二番目にもなれないようじゃ、私は何者でもない」
「そんなことない。凪は私にとって大切な人、実際に今私と居てくれてるじゃない」
初めて凪と呼んだ。自分でも驚いた。それ以上に困惑とうれしさをあらわにしている張本人。目を見開いて固まっている。
何者でもないはずがない。何者でもないのなら、生かしてくれるはずがない。
「凪……。ずっと一緒に居て、ずっと」
「馬鹿だな、ほんと。ずっとそばに居るから、いつか。そうだな」
一拍間を置いて、抱き合った。
「義務でも仕事でもなく、ここまで生かしてくれるなんて、ばかな人だった。そう早瀬は言ってた。本当に馬鹿だな、馬鹿すぎる。当たり前のように当たり前じゃないことをするお前のそばに居る。だから元気出せ。笑顔が一番、いいんだよ」
ゆっくりと進んでいく時間を噛み締める。なぜ雪里を凪と呼んでしまったのかと心に暗雲が立ち込め始めたとき、身体を離された。
悟ったような表情にはやるせなささえ滲んでいる。どう足掻いても救うところまではできないと思っているように見えた。そんなはずがない。もう十分救ってくれている。
いつまでも拭いきれない心の暗雲は広くなりすぎた部屋まで飲み込んでいくようだった。
いつの日か聞いた、「海と空は交わらない」。本当にそうなのかも知れないとさえ思えてくる。煌々と輝く星が、この深い海に沈んだような心に交じることはない。
やっと叶の辛さを、思っていたことが分かったような気がする。
なにかを失った者だけに見えるこの景色。深い海の水面の向こうの景色を馳せることもしない。できるわけがない。
青い空も雨の降る暗い空も。雪のちらつく寒空も。もうなにも見えない。
「さてと。聞かせて、話の続き」
叶の教え子が来る前の話題にまで戻る。
無機質に響く時計の針の音をかき消すように、声を出した。
「やっぱり叶が親だったのかな。先生は疲れてるから、って私の荷物すら片付けてくれるの。でも仕事中とか、目の届かないところでよくよからぬことしてさ。尽きなかったよ、色々と」
「早瀬はすごいな。だってお前、多分一緒に暮らし始めたときくらいから生き生きしてたもん。ていうか親代わりというよりは、もうその時点で恋人だろ」
環境が変わればよくも悪くも人というのは変化する。目に見えるほどに自分が変わっていたことには気付かなかった。
どれもこれも、叶のおかげだった。
フォトウェディングの写真を手に取り思う。
長い間開いていないアルバムも数冊手に取り、ソファに座った。
どんな写真でも構わず印刷してきたせいもあって、膨大な量になってしまったものたち。時空が歪んでいるのかと思うくらいにブレていようと、人には見せられないようなものであろうと、なんでも詰まっている。
ある意味で叶の手紙以上の黒歴史。
勝手にページを捲っていた雪里に声をかけられた。
「なにこれ、仮装?猫耳?メイド?えげつないなお前ら」
「ドン引きするな。話の続きを聞きたいなんて言うから出したのに」
行事ごとはほぼ毎年、毎回全力でやった。よくもまあここまで純粋に仲良く過ごせたものだ。
衝突もほぼなく、喧嘩もほぼなく。気を遣っていたからだろうと言われるとそうかもしれないが、波長が合っていたのだと思う。
元同僚にこんな黒歴史を見せびらかすとは思っていなかった。ただ今は、黒歴史でもなんでもない。形に残された思い出たちだ。
若い日の自分に目を落とすと、随分と幸せそうだった。叶とともに笑っている写真。隠し撮りされているものも多くある。目も当てられないものもある。それらを黒歴史だと言えば地獄に突き落とされるだろう。
辛いことよりも幸せなことのほうが多かった。
「鬼の仮面かよ、これ。こっちは花火か。浴衣だし。……妬むしかできない」
「勝手にしろ。それにしても、幸せだったのにな」
笑ってほしいだけだったはずの雪里は真顔に戻った。
妬むこともできなくなった人の隣で蘇る思い出に胸を焦がす。
もう思い出の中でしか、叶には会えない。夢の中でしか、話すこともできない。いっそのこと後追いできれば。何度考えても、答えは同じだった。
叶の遺志を無駄にしては、それこそもう二度と顔向けできなくなる。
片付けられた彼女の部屋に入り、辺りを見回す。
散乱していた書類も全て捨てられ、家具にもほぼ物が置かれていない。
机の上にあるのは私が無意識下に置いた指輪と、ひまわりの咲く公園で撮った一葉の写真。
「暮らし始めてから最初の叶の誕生日祝ったとき、指輪あげてさ。気付いてくれてたか分からないけど、最初からそのつもりだった」
「そう、相変わらずなにをしでかすか想像もできない奴らだな」
よく分からない笑みを浮かべて、視線を落とす。そうだ、あの言葉を投げかけられた日から決めていた。
必ず幸せにすると。叶が居なければその思いも意味がない。
「手紙、どこで見つけたの」
「一応言うけど大分探したんだよ。どこかの箱にありますから、としか言われてなくて。その棚にある箱に入ってた」
一人でぶつぶつと文句を連ねる元同僚を無視して、棚の一番下に置かれている箱を開けてみる。
「これ全部手紙か」
「らしいね。今までにもらったもの全部取ってあるのもすごい話だよ」
大切に仕舞っていたらしい、手紙の山。クラスの子たちからもらった、とうれしそうに教えてくれたものもまだ残っていた。残すべきものは残していた。大切なものは、特に。
教職から退いたときは春が始まるところだった。あれからもうすぐ一年が経つことになる。
修了式の日にもらったのにまたくれた子が居て、と云っていた手紙も残されている。
「叶の手紙以外どこにやったか分からないよ」
「それはそれでどうかと思うけど、私もそうだ」
意外にも薄情だな、と互いに笑った。一応は取ってあるはずだが、なんせ片付けも苦手な人間だ。探してもそう簡単には出てこない。
箱が置かれていた棚はかつて大量の本があった。日に日に増えていく本を、少ない手持ちの時間で読んでいた彼女。それらもまた売られたか処分された。
人生というものは呆気ない。
「あれなに?」
本棚の上に置かれている埃の色をした物を指差して雪里は問う。答えは簡単。動かなくなったペットカメラだ。
「なんでそんなもの」
当たり前のように怪訝な顔をされる。それも答えは簡単。叶のため。動かなくなって何年経ったか分からないにもかからわず、だ。気付けばそれも必要はなくなっていた。彼女が病に倒れるまでは。
手紙が入っていた箱にもう一度手を伸ばすと、空野葵と書かれた封筒が目に入った。読むような真似はしないが……。手紙をもらったことがあっても私から書いたことはなかった。
「今更手紙なんか書いても、意味ないか」
無意識にそう呟くと、しゃがみ込んだ雪里に抱きしめられた。
「最期はお互いに最悪だったな、って笑って終わればいい。早瀬にそう伝えられたらいい。だから、早瀬の分まで生きていこう、綾音」
肩に寄せられ、連なる涙は雪里の肩を濡らしていく。
この長い夜もまた明けてしまうのだろう。いくら途方もない、海底のようなこの世界でも。
いつか、叶にまた会えるのなら。なにを言えるだろう。どんな人生をこれから送っていくのだろう。なにも分からない。それでも、叶の望みを私がこの手で壊すことはできない。
叶った。二人の想いは。叶えた。叶の言葉を。叶わなかった。彼女だけには生きていてほしいという、私の願いは。
「桜が咲いたら、見に行こうか。願いが叶うかもしれない」
なぜここでそんな話をするのか、含意が掴めない。
生前はたまに散歩にも行った。病気になってからのほうが外に出たがってくれた叶。また桜が見たいと口にしていたのを思い出す。
命の芽吹く季節。その願いすら叶えてあげられないのは嫌だ。
伝えないといけない。くだらないこれからの人生を。
もしもなにか叶ってくれるなら。その思いは一筋の希望となり、生きる意味になる。
懐かしい夢を見た。
「先生、恋人になりませんか?!」背中にそんな言葉を浴びせたあの少女――幸せな日々を過ごした、傷だらけの彼女。
笑顔を見せて、元気な頃の姿で云った。
「生かしてくれてありがとう」
夢の中だというのに、涙が伝う感覚がした。視界は滲むこともない。なにか言わなければと、思い浮かぶ言葉を次々と声に出していく。
「おつかれ、叶。君が居てくれて幸せだったよ。一緒に居た時間は楽しかったかな、どうだろう」
笑みを崩さず、春の風を浴びながら真っ直ぐに私を見つめる。なにか言いたそうにしているように見えた。
抱きしめに行きたくても、足が動かない。もどかしさを感じながら必死で言葉を探す。
「私の台詞でもあるんだよ。……生かしてくれてありがとう。どうか幸せのまま、いい夢を」
そう言った途端、まるで走馬灯のようなものが脳裏を駆け巡った。桜の散る公園、茹だるような暑さから逃れようと買ったかき氷機。
秋の夜を散歩しながら問われた言葉。「死にたいとかほざいたら――」なにがあっても止める。目の前に居る彼女に言った。
冬のある日に叶は云った。「大切な人を置いて行くようなことはしません。約束です」と。
なんでこんなに大切な約束を破ってしまうのか。神様というのは意地悪だ。
「約束をしましょう。私はあなたをずっと愛してる。そして願ってます。あなたがまた、心から笑える日が来ることを」
両手を手繰り寄せられ、そっと握られた。あたたかい手が涙を誘う。約束なんて、もう懲り懲りだというのに。嫌だとは言えない。
笑える日なんてもうほしくもない。それでは叶の願いはひとつも叶わない。それでも。
数秒を置いて、その手をほどかれた。そっと微笑み小指を差し出す彼女は云う。
「約束です。私はずっとそばに居ます。もし、なにかあったら。辛くて仕方がなくなったら。必ず夢に会いに行きます。あなたの人生に自分が居られたこと。私の人生にあなたが居てくれること。これを幸せって言うんでしょうね」
小指を交わし、契られた。
「だから、生きて。ひとりじゃないよ」
優しく抱擁された瞬間、目が覚めた。
朝焼けの空は叶の居ない寝室を包み込むように眩い光を落とす。
ベッドのそばに置かれていたオルゴールは人知れず悲しげな音色を流していた。
筆を取り、回想する。いつかこの手紙が叶の目に触れることを願って。
軌跡が繋いだ奇跡。奇跡があったからこそ紡がれた軌跡。キセキに、ありがとう。




