第二十話 生きている者
片手に温かいココアを持ち、夜長を過ごす。甘く、どこか優しく体の内側を撫でつけていく。
叶にも何度か淹れてもらったが、印象に残っているのはやはり最初のものだった。初めて家に行った日の、あの味を。
「聞かせてよ、早瀬と付き合うまでのこととか」
数秒目を閉じ、何十年も前の記憶に思いを巡らせる。
叶とすれ違ったのはまだ肌寒い四月の初めのことだった。
仕事終わりに、散歩をしていたという叶と偶然すれ違った。元気かと問い、久しぶりに会えたという得体の知れないうれしさを覚えながらそのまま別れようと駅に歩みを進めたとき。
「先生、恋人になりませんか?!」背中にそんな言葉を浴びせられた。
振り返ると、自分で言い放った言葉に動揺する姿が映った。
そんな様子を見ながら、もらった手紙の感謝を伝え、恋人は流石に、と言った。それでも彼女は言ってしまったからには食い下がれないようで。今までにないしつこさで恋人に、と押された私は叶の家に行った。
「なんか最後おかしくないか」
「それは同感しよう。でも、目の前にそんな子が居たら放っておけないだろ。……それに、揺らいだんだ。なんというか、心が」
まだ幼かった叶の姿を思い浮かべると、涙は枯れたように出ない。居なくなった叶を思い、確かに存在していた叶を思い、またしても感情が掻き乱れていく。
「無理しなくていいよ。早瀬に怒られるのは私だからな」
深呼吸を数回繰り返し、一瞬だけ目を見て話しを再開する。
私の中だけで消えてしまうのが嫌だった。叶の居ない今、思い出すらも話せず無の地に眠ってしまうのは恐怖でしかない。思い出も、存在していたという証明も。
それが失われてしまえば彼女が一度でも望んだ消えたいという願いを、叶えることになってしまう。
「叶の家に行く道中、親御さんは?って聞いたら居ないって返ってきて。行った」
「だからおかしいよな。弱みにつけ込む狼みたいだ。お前じゃなかったらやばかったよ」
確かにそうだな、と思った。親御さんが居るなら何かしらの理由でもつけようと思っていた自分もかなり最低だが、私じゃなかったらどうなっていたのか。
防犯意識どころか殺されることを望んでしまいそうな少女につきまとうような最低な人が居たとしたら。考えるだけでぞっとする。
「夜、一緒に寝たな。そういえば」
「まさか初夜?」
「秒で寝たよ。叶は一睡もできなかったらしいけどさ」
高校生になったばかりの、それも卒業を見送った少女をその場で襲うわけがない。なんとも言えない笑いを浮かべ、過去を懐かしむ。
最初の数日間は少しだけ家にお邪魔させてもらった。気付けば一緒に住んでいた。
「恋人になるまでは親代わりだったし。といっても叶が親みたいなものだったけど。毎日のように恋人になってくれってせがまれた。……ほんと、無理させすぎた。私が背負うべきものをね」
「ま、それが早瀬にとっての生きがいだったんだ。感謝するだけしておけばいいよ」
感謝。どこまで感謝できただろうか。伝えられただろうか。後悔しても遅い。もう叶は居ないのだから。ただ、思い続けることはできる。それが届かない無意味なものだったとしても。
「私たちが思っていたより、叶の心身は傷だらけだった。最初に腕の傷見たときさ、たじろいだよ。なのにこんな無知で純粋だったみたいな白さは」
視線を落とし、言葉が濁る。
誰よりも傷付いてきた愛しい人。生きる理由も意味も好きだから、という想いだけで十分なんだと云っていた人。
痛みも苦しみも感じない場所に行けたのなら。それが一番いいのかもしれない。
「よくビルの屋上に登っててさ。学校の屋上にも登ってたんだって言ってた。勝手に色んな場所に行っちゃうから、もうどうしようもなくて」
「だから知らないうちに帰ってたんだな。……あれ、屋上の幽霊って」
頷き、笑みを向ける。そうだ、屋上の幽霊は叶だった。呪縛霊なんかにならなければいいが。
彼女のおかげで色々な場所に行った。何度探しに行ったか分からないほど。探しては見つけ、叱り。
線路に落ちかけたこともあった。何度も隠れて薬を買っていたこともあった。何度も自分を傷付けていた。そして傷付けられていた。心労が募る日々でしかなかったが今思えばそれも思い出。
誰にも書き換えることのできない人生、ひとつの物語。
もう夜も遅いというのに、インターホンが鳴った。雪里が先陣を切って誰何する。
「……元生徒だって?」
その言葉を聞いてソファから立ち上がった。叶の元生徒――もしかすると叶に告白したというあの頃の人物ではないか。
雪里の問いを遮り、少し待ってくれとドアの前に居る人物に告げた。
「ちょっと、知らない人家に上げたら駄目だって百も承知だろ」
「いいから黙ってろ。あの人は多分、すぐに答えが分かる」
怪訝な顔をされたが、特に興味はない。ドアを開けると細身の女性が姿を現した。
「突然ごめんなさい、こんな時間に。早瀬先生が亡くなったって聞いて、それで……」
殺気を醸し出す雪里と幾分やつれた私に気圧されたのか、たどたどしく言葉が並べられていく。目を合わそうともしない。というよりは合わせられないようだ。
最後まで聞くよりも早く口を挟む。
「早瀬に告白したっていう生徒か」
訊いてみると驚いた表情をしながら頷かれた。恩師の結婚した相手が女であったことにでも困惑しているのか、上から下まで視線が流れていく。
雪里に対しては誰なのか見当もつかないといった表情を見せている。それも当然だ。
ああ、それにしてもこの人があの呑気な女子生徒か。なんでなのか生徒に好きだって言われたと、少し困った様子を見せながらまんざらでもない笑みを浮かべていた叶を思い出す。
とりあえず部屋に通した。冷える夜にいつまでも玄関先に立たせていては三人で風邪を引いてしまう。
椅子に座らせ、余っていたココアを雪里が差し出した。恐る恐る口をつける名前も知らない人物を観察する。
話を聞いて二十年以上といったところ。叶の教え子は立派な大人になっていた。
「空野葵と申します。今は小学校で、一応教師として働いています」
礼儀正しく挨拶をされた。一応、私たちも挨拶を返す。
一瞥してから、空野という人は話を進める。
「早瀬先生には本当によくしていただいて。家庭のことで悩んでいたときも、親身に話を聞いて助言してくださったんです。告白したのも、本気でした。呆気なく振られましたが」
わざわざ私に視線を向けたと思えば頬が固くなるのが見えた。諦めることしかできないと悟ったようだった。もう叶うことはない。それでも、本当に居なくなった実感は今この瞬間に訪れている。
もう一度私を見て、負けたとでも思われたように感じた。多分、私の表情を見てのことだろう。
ずっと一緒に生きてきた人が居なくなった。そして愛していた。ともなれば、こうなるのも当然だと。
「もっと早く、早瀬先生に会ったらよかった。ちゃんと伝えたったです。ごめんなさい、先生の家は人づてに聞き回って、来ました。……最後に挨拶をしてもいいでしょうか」
誰が駄目だと言えるのか。私の元生徒の、元生徒。そして叶を好きになった人物に。
叶の遺影を前に、背筋を正して正座する姿をぼんやり眺めながら色々な感情が交錯していく。
叶もきっとうれしいだろう。教え子が教師の道を選んだことも、今をしっかり生きているということも。何より、悩みに悩んだことが知らない場所で実を結んだのだ。
教師冥利に尽きるな、叶。今も生きてくれていたら――と考える。お前は望んでいないかもしれない。それでも思うんだよ、叶。
声に出さないと気が済まないのか、一人座して語り始める空野。
叶だけに語りかけているわけではないらしい。私はともかく雪里の正体など知らないままに、人目もはばからず語れるものなのか。
「先生に憧れて、私も先生になりました。早瀬先生と比べたら何年経っても未熟なままですが。先生は新任で私の担任を受け持ってくれたのに、ね。先生に告白して、振られて。何事もなかったように卒業してそれっきりになってしまって。会いに行こうと思っても、諦めきれていないのに。無理じゃないですか」
嗚咽を漏らす姿は何とも弱々しかった。この子も本気で好きになってしまったのだろう、叶わないことを分かっていながらも諦められずに。だからここまで来てくれた。
隣の椅子に腰を掛ける雪里を横目で見てみた。同じ感情を抱いている雪里に、私に、叶に。そして空野を繋ぎ止めたなにかが揺れる。
「もっと早く会いに行けばよかった。きっと先生は私のことを覚えていてくれた。私も忘れたことなんてなかった。なにも返せなかった。なにもできなかった。生かしてもらっておきながら、好きなままでいさせてもらいながら。……あまりに、早すぎます。『生きてくれてありがとう』って云ってくれてありがとう。だから私はここまで来れました。本当に、大好きでした。ありがとう、先生」
重く、冷たい空気が漂う一室の部屋。涙を流す三人を前に、叶はなにを思っているのか。泣いていそうだな、君のことだから。そしていつものように笑って、と言ってくれるんだろう。
絞り出すように唸る空野を見ていると、感情が揺れ動く。
重荷を背負わせすぎたのではないか。本当に幸せだと思ってくれていたのか。私はなにができた。なにをした。なにを伝えられた。
それらの疑問は手紙に答えがある。分かっていても、ただただ苦しい。叶の想いを知ることはもうできない。
「すみません、長居させてもらって。また来てもいいですか」
「いいよ。叶に会いに来てくれてありがとう」
涙をこらえながら、叶の生徒はカバンを手に持ち、帰ろうとした。なにか声をかけたかった。同じ人を好きでいる者に。
「生きてくれてありがとう。叶はこれからもそう言い続ける。よく思い出してたよ、あの子元気かなって。元気ならなんでもいい、って。辛くなったらまた来たらいい。叶も、私たちも居るから。だから生きて」
頷き、無理矢理に作った笑顔を見せられた。丁寧に礼を伝えられ、雪里が駅まで送っていった。明日も仕事があると言っていたが、泣き腫らした目で教壇に立てるのだろうか。まあ、大丈夫か。みんな一人ではない。
玄関まで見送ったこの足で、閉められたカーテンをめくった。結露した窓が目に入り、思い出す。結露した窓に、大好きとよく書かれていたあの冬を。
窓の鍵を開け、白い息が空気に触れる。
夜空に煌めく星は今にも凍りつきそうなほどに瞬き、三日月は暗い世界に光を落としていた。
誇りに思うのは自分自身だなんて思えるはずもなかった。
誇りだと思えるのは君だけだよ、叶。やっぱり君は誰よりも優しくて、そして無知だ。
叶はもっと自分に自信を持ってよかったんだよ。何人もの命を繋ぎ合わせたんだから。




