第二話 どんな日々でも
朝起きると叶が居ないことに気が付いた。してやられた。
広くなった部屋中を探し回るがどこにも姿がない。呼びかけようと返事が返ってくることもない。こんなときはGPSだとスマホを取り出す。至るところに今もつけさせてもらっているが今回はどこに行ったのだろう。
もう飛び出さないと何回も云っていたくせに、それをなかったことにするのがうちの彼女。困った奴だ。本当になにをするか分からない。
「叶、なにしてるの」
早朝五時。息を切らせながら探していると、小さな人影が見えた。走り寄って呼びかける。
「おはようございます、綾音様。やっぱり見つかるんですね」
家から少し離れた場所にある眺めのいい場所に叶は立っていた。声を掛けるとすぐさま振り返って笑顔をみせる。遠くを見つめる眼差しが捉えた日の出。
視線を移すと一瞬のうちに逃げられてしまいそうで両手首を強く握った。日に照らされながら握った手をほどかれ、手先を絡められる。心臓に悪いことばかりをする叶のことをなぜか叱る気にもなれなかった。
額を重ね合わせ唇に触れる。もうそれだけで、なにかが伝わるような気がした。
「勝手に抜け出してごめんなさい。見つけてくれてありがとうございます」
「次はないって私は何回言ったらいいんだ」
ですね、と眉をひそめて言葉を漏らすとともに手をほどかれた。離れるというのはどうも心をざわつかせる。なにかが途切れてしまいそうな気がして。
互いに忙しない日々を過ごしているせいで二人の時間、というものが少なくなってしまっている。分かりきっていることではあった。それでも寂しいものは寂しい。
叶の居ない時間がこれほどにも心を寂しくさせるのか、と気付かされた。
毎日のように「おかえりなさい」と言ってくれた少し前までの少女は少しずつ、確実に大人に近付こうとしている。
ああ、私は彼女の居ない暮らしにはもう戻れないのだ。そう思うとまた彼女の手を握りしめていた。
「好きだよ」
「私も大好きです。なんでそんな顔をするんですか、笑ってください」
小さくひんやりとした手が頬に触れる。やさしく、両手で包み込むようにして。不意に涙が零れ落ちた。らしくないのは自分でも分かっている。不思議と涙は止まらなかった。いくら拭ってもまた溢れ出してしまう。
撫でられながら、抱きしめられながら。ゆっくりと時間は流れていった。落ち着きを取り戻したとき、叶は口を開いた。
泣いている間、ただ静かにそこに居てくれた。私がそうしてきたように。
「ずっと夜なら、星の輝く夜なら。綾音様とずっと一緒に居られるのにな、って。私、朝が来るのは今も苦手なんです。先の見えない未来が、暗い道のりが。明るい日差しに飲み込まれてしまいそうで」
まだ涼しい朝の空気を感じながら、彼女の目の先を追う。こういう話をするときは必ずと言っていいほど目を合わせてくれない。一瞬合ってもまたすぐに逸らされる。だから追い続ける。見えている世界は、私とは違う。
陽に透ける頬になにかが光った。
「綾音様と居られるなら、なんでもいいです。あとごめんなさい、よく寝てたから行けるかって思って」
「いいよ、もう。抱えきれなくなったら飛び出すんでしょう、その重さを分けてくれてもいいんだよ」
きっと分けてはくれない。それを見越しての発言は叶の目を揺らがせた。思いが届いてくれるならどれほどいいだろう。
晴れるまでずっと一緒、晴れてもずっと一緒に居たい。雨だろうが、晴れていようが。曇っていても泣いても笑っても。ずっと一緒に居てほしいのに。
たとえ世界が終わったとしても。明けない夜が来たとしても、叶は月のように心に明かりを灯してくれる。だから、もう。
独りでどこかへ行ってしまうのは怖くて仕方がない。
「今瀬先生、大丈夫ですか?体調でも悪いのでは」
「あぁ、大丈夫。ちょっと考え事を」
夜の職員室は少しずつ人もまばらになっていく。位置情報を確認してみてもやはり叶もまだ学校だ。
教室の鍵を手に取り、階段を駆け上がる。暗い教室を一斉に照らす蛍光灯。静寂な空気が身を包む。
生徒であった叶もこうして教壇に立っているのかと思うと感慨深いものを感じた。私みたいになりたいと今でもよく言ってくれるが、とうに越されている気がする。
仕事に対する姿勢もそうだが彼女は歳不相応な考え方をするのだ。今まで置かれていた環境が影響しているのか。そういう素質を持っているのか。ともかく叶は新任にしてよくやっている。
窓から見える景色。窓に映る自分の姿に気後れしながら、思いにふける。たまにこうして意味もなく外を眺めたりする。
また階段を駆け下り、叶が作ってくれたチャームを揺らしながら家路についた。元々このチャームは髪飾りであった。少し可愛すぎるとも思う。それでも目に入るたび口角が緩む。
不器用だと思っていた叶は私のことになると本領を発揮する。実際は器用なのだろう。やる気の問題だけで。
暗い玄関が出迎え、明かりのない部屋に入った。ソファに体を預け、動かない位置情報を見つめる。早く帰ってくればいいのに、そう思った。叶もこうして私を何年も毎日待ってくれていたのだろう。今なら分かる、心配もひとりという孤独も。
「電気も点けずになにをしているんですか。あと鍵は閉めてください」
「ごめんって」
あまりにも位置情報が動かないせいで寝落ちていたらしい。手に持ったままのスマホを見ながら思う。
反省をする素振りを見せながらお叱りを受けた。大人になると怒られることはあまりなくなる。教師という立場に立つと怒るほうがどうも多くなる。怒ってくれる人が居るということは幸せなことだと、私たち教師はよく言うが本当にその通りだと実感した。
「幸せですか」
「申し訳ないが答えはYESだ」
これといったお咎めもなくルーティンをこなす。問いた瞬間の表情からなにかを見て取れた。それを反芻しながら明日の準備を進めていく。よく考えたら咎めるのは私の方でもある。ただ、半日以上経っている以上もう忘れるべきかもしれない。
暇をしていた時間にペットカメラの様子を見てみたが当たり前に自分が映っていた。暗闇でスマホを見る自分が。こういう意味のないものは消しておく。
叶の様子を見るために置いていたものなのに、ターゲットが居ないのでは話にならない。今の家では広くなった分、できるだけ分散させて置いている。もちろん叶の部屋にも。前の家では密集させすぎていたな、と少しだけ反省した。広さに対して数が多すぎた。死角をなくそうとするとそうなってしまったのだ。
「ありがとうで終わりたいですね。最期は、笑って。そんな遠い未来なんて来なくていいけど」
ベランダに出て涼を求めながらアルコールを身体に入れる。腕をひやりと冷たい柵に載せながら微笑む彼女。
いつか必ず来る最期。怯えずに、笑って終わりたいと話す強さを、その中にある弱さを感じながら相槌を打つ。
「誇ってください、今瀬先生。一人の生徒をここまで生かして成長させたことを」
髪をなびかせながらそう口にする彼女。言い切った後、微笑まれた。その笑顔に苦衷が滲むのも見た。
誇りに思う。思っている。教師として出会った早瀬を、今では人生のパートナーとして共に歩んでいる叶を。生きているのも、成長し続けているのも叶自身である。それを私のおかげなのだと云う。一パーセントくらいはそうだとして、残り九九パーセントは叶の努力だと思う。
先生、と呼ばれたことで過去のものの距離感ができた。どこかもどかしさを感じながら月の見えない空を仰ぐ。
ずっと前、一緒に暮らし始めて少し経ったくらいの日に言われたことがあった。
「先生の前だから自然体で、そのままの自分で居られる。もしいつか死んだとしても、先生のおかげで楽しかったって、笑って終われる気がするんです。先生のことを好きになっていなかったらやっぱり人生なんて楽しくなかったって言ってた。辛かった、嫌だったで終わってた。何なら生きていないです。自分は、ほんとは、先生みたいな人になりたかった」と。
人知れず涙を零していた叶を抱き止めた。
いつまでも一緒に居たい。一生一緒に居たい。この子を置いていくことはできない。置いていかれるのはもっと嫌だ。苦しみも悲しみも、もう感じたくない。人間は孤独だ。灯火なんて呆気なく消えてしまう。
空になった缶を指先で持ったまま、ぴくりとも動こうとしない恋人。吐息だけが首筋にかかる。
布団に入り、強く抱きしめ合って眠りについた。
どこにも行かないで、叶。私の手から離れるな。君が生きていてくれてること、それがなによりの私が頑張れる理由なんだから。どうか、この夜が明けませんように。




