第十九話 希望
目を閉じると、淀んだ空気に張り詰めるような冷たさが混じった。
閉め切っていた部屋に新しい風が吹いていく。遅れて肺が冷えていくのを感じた。
「空気を入れ換えないと息が詰まる」
「ああ」
直に春が来る。眠っていた命が動き出す季節。それなのに叶は居ない。孤独だ。
二度と目が覚めなければいいのに。覚めるたびに空虚な空間が視界に入ってくるのがとても嫌だ。
「もう帰っていいよ、もう独りにしてくれていい」
「あんたをここで見捨てるわけにはいかない。いくら興味がないからって、そろそろ気付いてくれてもいいでしょ。私はあんたを愛してる」
泣く子も黙るほどの声が背中に突き刺さる。そしてその声の中にあった言葉を疑った。
愛している、それはどういう意味なのか。
愛している、愛している。数秒の間で何度もそれを反芻した。
叶の手紙に綴られた「今一緒に居てくれている人」それは雪里を差しているのか。
そこでやっと気が付いた。雪里はこの私に好意を寄せていたのだ。私が知らないだけで、この人はずっと好いてくれていた。
だからか、だから叶との関係が見破られた。連絡をこまめに取ってくれていたのもそういうことだ。
「好きになってくれとか、流石に言わないけどさ。早瀬が願っているのはあんたの幸せだろ?後追いするなって書いてたじゃん」
「それでも叶の居ない人生なんて人生じゃない。生きる意味もない。生きたくない」
背を向けたまま声を張り上げた。固く握った拳に涙が落ちる。
叶が居なくなって、自分でも人が変わったと思うほど消極的になったと感じる。生きていることが嫌になった。本当になにもできなくなった。そんな姿を誰かに見られたいわけがない。
雪里はなにを思ってそばに居てくれるのか。叶を信じ続けることしかできなかった私と同じように、信じてくれているのだろうか。もしそうだとすれば、私は愛されているということか。
うれしくない、思わず口をついて出そうになったのを寸前で飲み込んだ。
心が凍るようだった。私は愛する人を失った。そしてここに居る雪里は、好きになった人が、人が変わったようになってしまった。
またいくつもの時間が過ぎていく。
叶の居ない人生をそう長く送ることもできるはずもない。
死という光に惹かれるようにして、ベランダの柵を掴んだ。冷えていく足元に震える手先。止める立場にあった私がこんな真似をするとは。
ベランダに置かれた植木鉢。叶が病に倒れてから、あの頃のように色々な植物やらを買っては植え替えていた。ちゃんと私が育てた。叶の希望になるならば。
もう花も枯れた。乾いた土だけが残されているだけ。命なんて、呆気ないものだ。
買い物から帰ってきた雪里と目が合った。これは怒られるパターン。叶もこんな想いをしていたのかと思うと冷たい地面に崩れ落ちていた。
「死ぬな。お前が死んだら私は早瀬に殺されるんだぞ」
急いで階段を駆け上がってきたのか、息を切らしながら雪里はベランダに飛び込んできた。
……思っていた言葉と違った。死ぬな、と言われるのは分かっていたが。
”早瀬に殺される”それも結構真剣に言っている。嘘ではないのだろう、叶のことだから大抵の想像はつく。相変わらず、私のことになると突拍子もないんだから。
そう思うと、絡まった糸がほどけるような感覚がした。がんじがらめの見えない心が眼前に現れたように思えた。
「この際言わせてもらうけどさ。あいつやばいくらい私に頼み込んできたんだからね。鬼のようにメッセージ送ってくるし電話であーだこーだ言うし。あんたのことを愛しているのは分かるよ。ずっと見てきたから。でもさ、私にどうしろって言ったと思う?」
まるでマシンガンのよう。地面から立ち上がる暇もないくらいに言葉が降り注いでくる。あいつと呼ぶのはやめてほしい。今瀬叶という大切な人をあいつ呼ばわりするでない。
そう思いながら買い物袋を持ったままのやかましい元同僚をぼんやりと眺める。どこか他人事のように思えた。
「『一生彼女にはなれないでしょうけど愛してあげてください』だってよ、言われなくてもそうするっていうのに」
それを聞いた瞬間、叶の居た毎日を幻のように感じていたが幻などでも夢でもないことに気が付いた。
声も、姿も鮮明に思い出せる。何十年も共に生きてきたのに、なんで先に居なくなるんだろう。死ぬ順番を間違えすぎだ。
本当に私の目の前で死んでしまった。
冷えた身体を包み込むように抱きしめられた。この歳にもなって、酷く心がざわめいた。
雪里は私にとってただの友人。雪里にとっては私は想い人。それなら、こんな思いも受け止めてくれるだろう。
「抱いていいよ」
そう呟くと一瞬の間も置かずに頬を叩かれた。ヒリヒリと痛み、自然と涙が出る。
胸が苦しい。息もできないくらいの苦しみを味わうとは思っていなかった。ただ抱いてほしかっただけだ。ただ、代わりになってくれたら。
「なにそれ、上書きしろってこと?馬鹿言わないで。いくらあんたを好いていてもさ、それこそ早瀬に抹殺される。ていうかなに?抱いたら満足してくれるの?」
震えた声が静寂な部屋に突き刺さっていく。閉められた窓の外は青く澄み渡っていた。私には何も残っていないというのに、憎たらしいほどに青い。
数分の間を置き、思い切って声の方向を見上げると雪里が泣いていた。泣いている姿はこれまで見たことがない。
互いに、叶がこの世を去ってから随分と心が弱くなった。感情の揺れ動き方がこれまでと違う。誰かが居なくなるだけでこれほどに変わるものなのか。
ああ、叶。お前は本当に強い人間だったんだな。一番、痛みを背負って生きていた。それなのに一番明るく振る舞っていた。
「早瀬の代わりにはなりたくない。こうなるのも予習済みだったんだけど、うまくいかないね」
肩に手を置かれ、窓の外を見つめた。鳥が自由を求めるように飛んでいる。叶は苦しみから逃れられただろうか。自由を掴めただろうか。
彼女の願いは叶っただろうか。
雪里に半ば強引に手を引かれ、ソファに腰を掛ける。そして麻紐でまとめられた紙にスマホの画面を見せられた。
叶が生前に書き綴った私の取扱説明書のようなもの。私の行動パターンをよく分かっている。
きっとこうなるだろうからこの言葉をかけてあげたらいい。それでも無理な場合は寄り添ってあげてほしい。綾音様はそんなに強い人間でも賢いわけでもない。弱くて脆い、触れたら割れるガラス玉のようだから。
何千文字にも上る文は重かった。一番辛いのも苦しかったのも叶のはずなのに、最期まで心配されてしまったようだ。読みながら、その優しさに心を撫でられるような気がした。
「これを読み込め、って耳にタコができるくらい言われた。ほんとに勝てないよあんたたちには」
「悪かったな。でも、ありがとう。一緒に居てくれて」
叶わないことを分かっていながらずっと私と叶を見守り、時に支えてくれた。
そして今、廃人のようになにもできなくなったこんな私と一緒に居てくれる。ここまで変わり果てた人をまだ好きで居てくれるのなら、この人は手放すべきではない。
「雪里が好きになった私とは大分違うと思うけど。なんでここまでしてくれるの?」
「そんなこと気にしてるのか。弱気になりすぎじゃないの、流石に」
すっと息を吸い、笑みを消した。そして目配せをしてから彼女は答えた。
「好きになったからここまでするんだよ、綾音。私は叶わない恋をした。早瀬よりも叶いやすい立場に居たはずなのに。でも現実は違った。ずっと見てきた、あんたたちを。叶わなくても、綾音に伝わらなくても一緒に居ることはできる。私はその道を選んだ。できるだけ邪魔はしなかったつもりだけどどうだろう、今瀬綾音」
ぶっきらぼうに呟いた。「邪魔は邪魔だった」そう言うしかなかった。
いつから想いを抱いていたのかと訊いても意味がない。
望むものが手に入らないことを分かったとき、多くの葛藤や苦しみがあったはずだ。叶や私もそうだったが、これは世間一般の常識から遠く離れたもの。
それを分かち合うこともできず、できる道もあったかもしれないが少なくとも雪里は近くに居るという道を選び、今の今まで独り身で生きてきた。
彼女は笑って続けた。
「周りは結婚を勧めてくるよな。お前たちもそうだっただろうけど。私はまだその点よかったかもしれない。隠せるからな、女なのに女が好きだっていうこと。好きな気持ちはどうも変わらないからさ、独身を貫いた。他の女性ならいいってもんじゃあないんだよ。お互い年を取ったな、綾音。この機会は早瀬がくれたプレゼントだ。孤独のまま死ぬのは、避けたい」
手を握りしめられながら静かに話を聞いた。
孤独に死ぬのは避けたい。これに関しては同感だ。パートナーが居てもどちらかが欠ければ孤独に陥る。全く不条理な世の中だな、と思ったが心の中で打ち消した。
雪里はずっと孤独とともに生きてきた。
「あなたが羨ましい、って言ってた。もっと生きたいって、悔しいって。綾音が知ってたかどうかはさておき。生きたがってたよ。どうにもならない運命でも、諦めるとかありえないってさ」
羨ましいと思うなら、なぜ治療を拒んだのか。確かに治るもなにも、なかった。
これ以上苦しみを長引かせるのも嫌だった。叶が決めた道を受け入れるのが私にできること。そう思っていた。
そこに私は希望など持っていなかった。諦めていた。
それでも叶生きることを完全に諦めたわけではなかったのだ。死にたがっていた少女は、生きようともがいていた。
幼い頃に薬を乱用したせいもあってか、生きている間もずっと体調がいいとは言えない状態にあった。そこに重なった病は叶の全てを蝕んでいった。ただ希望だけは、蝕まれるのを阻んでいた。
「綾音はまだ生きている。こうして私と居るんだから。一人じゃないだろう」
ソファから立ち上がり、三人の映った写真をひらひらと空気にさらしながら振り向いてみせる雪里。
懐かしい、もう戻っては来ない記憶の一部。喫茶店で店主が密かに撮っていた、一葉の写真を。
あの店ももう随分前に潰れてしまった。跡継ぎも居ないから、と気丈に振る舞っていた店主を思い出す。元バイトだった叶が継ぐことも叶わなかった。私たちが継ぐこともまたできなかった。
死によって別れるしか、道はないのかもしれない。風が通り抜けていくような感覚に苛まれながら、そう思った。




