第十八話 永訣
何十年振りに独りになっただろう。
彼女であった早瀬叶は息を引き取った。
まだ若いというのに、私の手から消えた。なにもかも現実味がなくなって、もうなにも手につかなくなった。
共に暮らして三十年ほど。人生百年時代と言われているのに彼女は半分も生きられなかった。
死に際、いつもは冷たいはずの手がほんのりとあたたかさを感じる温度で私の頬を撫でた。
「ありがとう」
今にも糸の切れそうな声を掛けてくれた。
「そんな顔しないでください。大丈夫だから」
叶の手にこぼれ落ちる無数の涙。なにが大丈夫だというのか。
笑顔をみせて、どこか困った顔をして、上目遣いに私を見る虚ろな目。生気などどこにもなかった。
「大好きだよ、あやねさま。だから、生きて」
確かにそう力強い声でそう云った。最期の願いを託すように。
そして――短く息を吐いた後、再び目を覚ますことはなかった。
初めて心から愛した人。そんな彼女は私の腕のなかで死んだ。ただ眠っているだけに見えてしまえたのに。
初めて心から死んでしまいたいと思った。深い海の底から、青空を見上げるように。
「綾音、せめて水だけでも飲んで」
「要らない。あと名前で呼ぶな」
遺骨を抱きかかえたまま動かない私を心配そうに見つめるのは元同僚。
事あるごとに連絡をくれたこの人間は、叶の訃報を聞いて駆けつけてきた。なにからなにまで、世話になってしまった。座り込んだまま動かない私の代わりに、色々と動いてくれた。
監視する側の私であったはずだが、される側になってしまっている。目を離したら後追いしそうだと、何日も見張られっぱなしだ。
「前を向けとも忘れろとも言わない。綾音がどれだけ愛していたか、分かってる。後追いするのはきっとあの子も望んでいない。そうでしょう」
言い返す気にもなれない。言葉を発する気力もない。この人間、雪里凪は数少ない友人関係にある。何十年も関係を持っている人、それは雪里くらいしか居ない。そんな人をこうして苦しめることもできればしたくない。溢れ続ける涙は嗚咽に変わり、時間だけが過ぎていく。
雨音が響く薄暗い部屋。重たい空気が流れ続けていく。
雨音が激しくなるにつれ、叶の声を思い出す。あのぬくもりを、やわらかさを。心はないものばかりを求めた。
無数の傷に覆われていた彼女は、まるで傷など負ったこともないかのような姿になった。それを見たときが一番苦しかった。早瀬叶という人物など最初から居なかったように、世界は残酷とさえ言えるほど動き続ける。
「ねえ、これ。綾音宛だよ」
叶の部屋から出てきた一通の手紙。なぜ雪里が見つけてきたのか、考えることができるほど体力は残っていない。
叶の筆跡を見るだけで涙は珠となり幾つもこぼれ落ちていった。居ないという実感が、居なくなったという現実が大波のように押し寄せてくる。文字を撫でながら、息もできなくなるほど泣き続けた。
封筒に書かれた宛先は私の名。そして裏側に書かれているのは彼女の名。文字は震えてはいるものの、確かに叶が書いたものだ。
これほどまでに泣くのはこの歳になって初めてのことだった。雪里に背中をさすられ、叶とは違う温かさにまた涙が溢れる。手の感触も、大きさも。なにもかも違う。
乱れた呼吸を整えながら封を切った。封筒を開くことさえ危なっかしいくらいに手が震え続ける。
暗くなってきた部屋に電気が点けられた。また夜が来てしまった。叶の居ない、静かな夜。何故私は生きているのだろう。カーテンを閉める音が頭に直接響いた。
深呼吸をして便箋を開く。何日も眠ることもできていないせいなのか文字が滲んで見えてきた。
「綾音様へ
この手紙を読んでいるということは――と書くとなんだかベタ過ぎますね。まだ生きているのに読んでしまった可能性も拭いきれませんし。私が生きているなら見なかったことに。生きていないのであれば、どうかお読みください。また黒歴史になるのかな?どうでしょうか。
でも全部本音しか書いたことないですし。黒歴史と言い続けるのも今回でおしまいにしましょう。
さて、綾音様を一人残してしまって大変申し訳ありません。順番を間違えるな、とあれほど云っていただいたのにも関わらず。この有り様です、らしいっちゃらしいですが。ね、綾音様。
絶対泣いてますよね?私だって綾音様とずっと一緒に居たかったんですよ。もっと長く居たかった。もっと、一緒に。笑っていたかった。ごめんね。
書きながら涙が込み上げてきます。死にたくないな。あんなに死を願っていたのに、あなたのおかげでなにもかも変わった。どうやら私は思っていた以上に幸せだったみたいです。
書くたびに、内面化されていきます。死にたくない。何十年とあなたと生きてきたのに。綾音様みたいな人に、初めて出会った。ううん、あなたが唯一無二なんだよね。ほんとに、ほんとに。優しい人。
私にはもったいないくらい。独り占めできてよかったよ。
軌跡が繋いだ奇跡。
キセキに感謝します、あなたが書いていたように。もう起こってくれないかな、キセキ。もう十分起こったか、あとは終わるだけ。そう思うとやっぱり寂しいです。
あ、後追いするのはやめてくださいね。私は寿命です。自殺じゃないです。あなたは私を最大限生かしてくれた。私は最大限生きた、つもりです。それをなかったことにしないでください。生きてきた自分を裏切らないでください。
あなたを必要とする人は、私だけではありません。
一生分の涙を流し切ったら、今一緒に居てくれている人の言うことをちゃんと聞くように。そして、大切にしてください。
後追いは絶対に駄目です。飲まず食わずで泣いていることでしょうが、飛び出したり命を捨てるような真似をしたら許しませんよ。私も、そばに居てくれている人も。
綾音様。恋人になってくれて、家族になってくれて。愛して、愛させてくれてありがとう。幸せな人生でした。
先生、恋人になりませんかなんて言った私を受け止めてくれてありがとう。
まさか家に来てもらえるとは。まさか綾音様と呼べるようになるとは。一緒に住めるとは。大好きな人と生きていけるなんて今でも不思議なくらい。
たくさんの思い出とともに死ねること、幸せなんでしょうね、きっと。
不器用ながらも愛を伝えてくれる綾音様が大好きです。たくさんの素敵な景色を、知らない世界を見せてくれて本当にありがとう。ありがとうでは足りないくらいありがとうございました。
大丈夫だよ、綾音様。私はずっと綾音様のことを愛して、大好きなままです。
綾音様は幸せだったかな。だったね。少しは恩返しもできたと思っておきます。
では、またいつか。くだらない土産話でも待っていることにしましょう。
長い間、生かしてくれて本当にありがとうございました。今度は私があなたを生かせるようになるね。
大好きだよ、綾音様。今日も生きてくれてありがとう。幸せにね。 今瀬叶」
彼女の涙の跡に続くようにして重なる雫。
何故私の知らない場所に行ってしまったのだろう。後追いは駄目だと何度も記されているがそんなことはどうでもいい。叶の居ない人生なんて人生ではない。
「今瀬、ね。彼女らしい文だ」
私の隣に座り同じように手紙を読み進めた雪里。
最後の最後に書かれた姓は私のものであった。世間が許すことがなくても、叶はそれを許した。なにを思い、なにを考え綴ったのか。痛いほど分かるからこそ死んでしまいたくなる。
「早瀬も頑張ったな。年を越せるかも分からなかったのにお前の誕生日まで元気で居たとか」
頷いて、最近のことに思える記憶を呼び起こす。
年を越せないかもしれないと聞いたときは唖然とした。
痛みを堪え、苦しみに耐えていた叶の口角は上がっていた。それを見たとき、私は悟った。この子は生きることを望むどころか、心の底でずっと願っていたものが手に入るということに喜んでいた。
もう私の力で生かすことはできないのだと、手が震えた。この心すら底のない海に溺れて消えていくようで。
それからは毎日苦しみの中に溺れていた。過去の記憶が今目の前で起こっているように暴れ出す叶を見るのも辛かった。落ち着いた後に弱い力で手を握り返してくれるのも辛かった。
なんとか無事に年を越し、いつものように穏やかな正月を過ごすことができた。いつもと違ったのは、これが最後になってしまうということ。一分一秒を大切に、噛み締めるように過ごした。
そして私の誕生日には病を患ってから一番調子がいいのだと笑って祝ってくれた。
病なんてなかったと思わせるくらいに動き回り、涙が出るほどに美味しい手料理を振る舞ってくれた。
最後の贈り物となるオルゴールを手渡された。どこか寂しげな音色を纏う、優しい曲調。
同じ布団に入り、オルゴールを流しながら夢を見た。いくつになっても、ずっと一緒に生きていける夢を。過ぎていく季節を眺める夢を。
そして力尽きたように旅立った。雨の降る、冷たい夜。
抱きかかえたままどれほど泣き続けただろう。「明日もそばに居て」なんて言っても叶いはしなかった。
気が付くと朝になっていた。いつ振りに寝たかも分からないくらい、時間は過ぎていた。生きているということがこれほど苦しいとは。
叶は本当に強い子だったのだ。私よりも、ずっと。死にたいと何万回と思ってきた彼女は私のために生き続けてくれた。
「寝れたようでよかった。ご飯、食べられるなら食べて」
椅子に座り、叶の居ない食卓に目を向ける。並べられた朝食は叶が作るものと同じだった。
ああ、と心の中で思う。声は喉の奥で引っかかり、それだけで生きる意味を失う。手を合わせて、また心の中でいただきますと呟く。ただ一つの動作だけでも身体が重い。
口に無理矢理入れると、知っている味がした。今まで食べてきた叶の作る味だ。
張り詰めた糸が切れて、爆発したように涙が止まらなくなった。彼女が何年もかけて遺したレシピ。それを見て雪里は作ったのか。
視線を向けると、笑って窓の向こうを見つめられた。
「綾音が抜け殻みたいになって死ぬかもしれないから、せめて同じ味で作ってあげてほしいってさ。叩き込まれたよ、私と同じように愛しているんだったらそれくらいやれって。愛されてるね、あんたは」
叶は一度、仕事中に過労で倒れた。大丈夫だと言って、何事もなかったように振る舞おうとした。病気なんて気合いで治すと、馬鹿みたいなことを笑って云っていた。
そこからが早かった。病状が一向に良くならず、悪化を辿る一方。死期を悟ったように治療を拒み、教職から退いて短い時間を過ごした。
一体彼女がなにをしたと言うのか。神は何故、彼女に過酷な試練ばかりを与えるのか。何故命すら奪っていくのか。恨んでも恨みきれない。
誰も悪くない悲しみもある。愛した人は云っていた。誰かを恨むこともできなかった叶はなにを見て少ない時間を過ごしたのだろう。
誰だ五百歳以上生きろと云ったやつは。無理に決まっている、叶が居ないと生きていけないことくらい分かっていただろうに。叶だけではない、一人では生きられないのは私も同じだ。
もう少しだけ、生きたまま好きで居たいと願っていたのに神は許してくれなかった。
「それにしても、この歳になっても作れないのはどうよ」
「向いてないんだ、仕方がない。でも、全く作れないわけじゃないし」
口角が緩みかけた。それと同時に悪寒が走る。最愛の人が亡くなっても尚、私は生きている。感情を持ったままの人間で居る。
同じ味とはいえ、叶が作るものと同じとは言えなかった。言いたくないだけかもしれない。
半分ほど食べ終えたところでまた閉じこもった。生きているだけで苦しい。息をすることさえ嫌になる。
ほぼ寝室から動けなくなった叶に代わって、苦戦しながらも料理はできるようになった。今ではもう、そんな気力もない。食べなければ死ねるのだから。
出会えて、好きなれて私は幸せ者だとよく口にしていた叶。何十年も共に過ごしていればそういうことも言わなくなりそうなものだが、彼女は違った。
一緒に居られることは当たり前ではないからと口癖のように云っていた。本当に、そうなのだ。当たり前でも、普通のことでもない。幸せはそう長く続いてくれない。
誰を恨むこともできない。なにをしようと、大切な人は戻ってこない。




