第十七話 海と月
ただ一人、海に出向いた。それこそ何年振りかも分からない。
約十年ほど経ったくらいだろうか。長らく行っていなかったのは忙しかったというのもあるが、行く理由も特になかった。
一人で暮らしていたときは、ずっと家に居ると息が詰まってよくここに来てぼんやりしていた。なにも考えず、囚われず。無意味に海風を浴びるのが好きだった。
最後にここに来たのは叶の受験前だったか。今思うと家事をこなして勉強も自力で頑張り、現役合格を果たした彼女は誰よりもすごいと思う。私には到底できないことだ。そんなことない、と笑って答えてくれるのだろうが。
そういえば叶がオープンキャンパスに向かう途中で迷子になって大変だったんだったっけ。それも懐かしい記憶になっている。
綾音様を養えるくらいの人間になる、ともよく豪語していた。養える能力がある人間の前でよくもまあ、甘えようと思わないものだ。
今では折半して暮らしているが、相変わらずなにかあったら私が!とまた豪語してくれる。本当に変わった娘だ。誰よりも苦労して生き延びてきたというのに。
早めに仕事を終わらせこの海に来たわけだが、いつまで居よう。
どこかの誰かのようになにも持たずに、なんてことはしない。叶は来てくれるだろうか。私が見つけてきたように。
月の浮かぶ海を眺めていると砂浜を駆けてくる足音が聞こえた。
目だけを向けると思った通りの人がおぼつかない様子で姿を現した。
「どうしてここが分かった、叶」
「偶然。というのは嘘なんですけどね。最近の綾音様、お疲れのようでしたから」
思わず笑みがこぼれた。ああ、叶のほうが余程優れている。
私がGPSに頼ることを分かりきっていた少女は忽然と姿を消して無も知らない村に行ったり、電車を乗り継いでまでしてネオン街に行ったりした。
段々全てを置き去って飛び出すことも増えたおかげで位置情報が役に立つことも少なくなった。
叶は私になにか仕掛けているわけでもないのにこの場所を当ててみせた。天性のなにか、その才能で。
よく海に行っていたと話したことはあった。それを覚えていてここまで来たのか、それとも本当の偶然でここまで息を切らせて探してきたのか。
真相がどうであれ、大切な人がそばに来てくれたということがうれしかった。
混沌とする脳内が静まり返っていく。
「本当に私、綾音様の隣に居ていいんですかね。こんなに素敵な人の隣にずっと居させてもらって、こうやって同じ時間を過ごせて。ほんとのほんとにいいんですか」
なにを今更、と思った。それは私からも言いたいことであった。叶の貴重な時間をこんな私に何年も注ぎ込んでいいのか、と。
でも好きなことに何ら変わりがないのだから、そんなことを聞くのもおかしな話だ。
「いいに決まっているでしょ。お互いにお互いが居なかったら生きていけないのは分かっているはず。指輪だって何のために渡したと思ってるの」そう言った。
漠然と思うときってあるじゃないですか、と問い返された。
確かにそうだ。今まさに漠然と思ったのをなかったことにした。ここまで来た理由が、眼前に示されたように思えた。
分からない、言葉にできない感情が心を何度も飲み込んでいく。そんな感覚を沈めたいがために、ここに足を伸ばしていた。
人間誰しも悩みを抱える。それが既知のものであっても、そこに不安を持つ。そういうものだ。少なくとも私と叶はそうやって生きている。
その不安をあたたかい手で覆えたらいい。ただそう思っているのかは分からない。いつか魔法が解けてしまっても、私はそばに居たいと思っている。
「私はあなたの幸せを一番に望んでいる。邪魔はしたくないんです。たとえこの恋が叶わなかったとしても、私は綾音様が幸せならそれでいいと思っていたはずです」
「叶が居なかったら幸せになんてなれない。幸せを感じてください、って言うなら私のそばに居ろ」
一通目の手紙に書かれていた一文を口にした。幸せをたくさん感じてください、と終盤に書かれていたのだ。叶からしたら黒歴史そのものなのかもしれないが、私からすれば宝物でしかない。
拭いきれない疑問をもう一度問うてみる。
「なんでここに来た?私は君みたいに飛び出したりしたことない」
海風に揺れる髪を押さえ、何ともつかない顔で叶は答えた。
「なんか、なんでしょうね。行かないといけない気がしたんです。それが外れて綾音様に怒られるなら、本望だなって。知らないところであなたが潰れてしまうより全然いい。ああ、でも一人になりたくてここに来たならごめんなさい。邪魔をする気はないのでちゃんと言ってくれても」
「来てほしかった」
神の使いかなにかだろうか、と思いながら手を繋ぎ合わせた。
月明かりに照らし出される優しい笑みを見ながら、荒んだ心が引いていくような気分を覚えながら。夜はゆっくりと漕ぎ進んでいく。
「最初ここに来たとき、走り回りながらひたすら写真撮りましたっけ。最後は私の受験前、綾音様が連れ出してくれた。自分でも結構無謀なことしてたなって今だから思います」
思い出を手繰り寄せるように耳を澄ませる。叶も覚えていてくれるものなんだな、と妙に安心した。
若い頃の記憶というと私自身、ほぼと言っていいほど覚えていない。叶との思い出はマシンガンのように話せるほどなのに。過去は然程大したものじゃなかったのかもしれない。
いつか必ず終わりが来るのだと、ずっと身構えていた。ずっと一緒に居られることなどない。それならいつ関係が終わろうが、今終わらせようがどうでもいいとよく考えていた。
ただ、今は終わらないでほしいと願うようになった。この恋愛は人生を大きく変えていってくれた。
「色々行ったなー、水族園とか。また行きたいな。菜の花も見に行きましたっけ。お花見も、夏祭りも。綾音様の猫耳とか可愛かったし。雪だるま一人で作ったり」
「学校で月見もしたな」
砂浜のような星空を見上げながら彼女は話す。
いくつもの思い出を、叶の手によって掘り返されていく。そういえばそんなこともあったな、と懐かしさに潜む形容しがたい感情を覚えた。戻りたい気もするが、やはり今という時間が一番いいのだと再度思った。
「無からつくることはできないことって何だと思います?」
唐突の問いに思考を巡らせる。無からつくることはできないこと。逡巡するが、結局どれも違う気がした。そんな様子を見てか、ふっと笑ってから解答が来た。
「信用と信頼。無からつくることはできない――綾音様はどんな行動でも丁寧だったなって。どんなに小さなことでも、些細に見えることでも、意識して行動するってそう簡単にはできません。それを間近で私は見てきた。一生徒としても、どの立場に居ても」
つまり、なにが言いたいのか。再び問われた。
尊敬しているとでも言いたいのか。だから信用も信頼もできたのは私の行動からだと言いたいのか。
叶はたまに意地悪だ。答えのないものを考えに考えさせてくる。
「だから、綾音様。あなたは一人じゃない。一人で抱え込む必要もない。あなたの味方はたくさん居ます。培ってきた信用というのはなくなりません。……大丈夫、ね?」
まるでどこかへ行ってしまいそうな言い分だ。
味方がどれだけ居ようと愛せるのは叶だけ。君が居なければ生きていくこともできないのに、なぜそんな寂しいことを云う。
しばらく無言が続いた。風が吹いては雲が流れていく。隠れてはまた現れる月を目に焼き付けながら。
この黒い海の向こうに行けるなら、自由になれるのだろうか。まるで隣に居る人物が思うようなことを考えると、頭を撫でられた。小さくて幼いぬくもりが髪越しに伝う。
命という、重く、そして軽い言葉でいとも簡単に消えてしまうものに思いを馳せた。私には彼女を守り続ける義務がある。
「月が綺麗ですね」
こいつはこういうことも平然と言えてしまうんだった。ただきっと内面では反省会でも開いているはずで、それがまた愛しいところでもある。そういうところが好きだ。
裏表のない純粋な心。そしてその分、傷ついてきた心。
「綾音様は月っていうよりも、お星さまみたいです。太陽は私には眩しすぎるし。月は太陽の光を反射して光る。……それも違うなって。新月だったら真っ暗だし」
星。そう言われるのは初めてだ。誰にもそんなことは言われたこともなければ言われる筋合いもない。
いつだったか、早瀬に好きな形を訊いたことがあった。好きな食べ物すら答えてくれない少女にそんなよく分からない質問を投げかけたのも馬鹿な話だ。もちろん返答はなかった。
そのとき、私は星の形が好きだと言った覚えがある。それを覚えてのことなのか、ただそう感じているだけなのか。もし覚えているのなら、あのときのなに言ってんだこいつ、という表情は思い違いだったことになる。
いくら一緒に居ても早瀬叶という人はよく分からない。だからこそ、飽きることもない。
「星は、どんなときも照らしてくれた。閉め出されて泣いても、行く宛もなく途方に暮れても、包みこんでくれた。あなたはそんな人だと思います。暗い道を、優しい光で照らし出してくれる」
彼女の心情を推し量ることができるほど有能な人間にはなれない。見てきた景色があまりにも違う。
これから先、見えてくるだろうか。踏み込むことを許してくれる日は来ないかもしれない。それでも一緒に居たい。ひとりは嫌だ。
「よくよく考えたら悲しんでくれる、って思えたのは先生だけだった。中学生の間とか、先生はきっと、悲しんでくれるから。だからって悲しむ必要とかないって思ってたけど」
相槌を打っていると、両手を絡めて向き直された。
悲しむ必要がない。そんなに優しくて脆い、そして全く優しくもない感情があるだろうか。月明かりを背後に浴びながら、言葉が星座のように繋がれていく。
「他の人たちが悲しんでくれるとは思ってなくて。立場が下がるとか思われるんだろうなって、思ってた。綾音様は立場を感じさせない人だったから……。それが救いでした、私にとっては」
「いつもいつも、私を持ち上げるね。でも確かにそうだよ、叶が居なくなったら悲しいどころじゃない。生きていけないよ」
涙が込み上げてくるのを感じながら笑った。なにが救いになったのかは分からない。互いに理解し、見てきたからこそ共有できるなにか。今を生きているなら、それでいい。
すぐそばに居る叶に、少しでも笑ってほしくてかけた無数の言葉。あのときも今も大して変わらない。ただ寄り添いたかった。
「誰よりも優しくて、否定も肯定もしない人。きっと、その分傷を負ってきた。そんな人の前で死にたかったなんて、ほんと。そんな人を置いて、空を飛びたいなんて。海に行ったって、教えてくれたの覚えてますか」
遠い記憶の、薄れたものを呼び起こす。確かに、言った。この前の土曜日に海に行ったと、無反応を貫き通す少女にそう言った。
本当になんでも覚えていてくれることに思わず感心してしまう。叶が今言ってくれなければ、思い出すこともなかった。
「覚えてるよ。自転車で海に行った、って」
「そんな人の前で、死ねると思いますか。誰よりも大切な人を置いて、この海で、この空で消えることができると思いますか」
叶の想いのように思えて、実際は私の想いであることに気付いた。意識することもなかった考えを、叶の手によって言語化されていく。
震える手を片手で覆われた。伝う涙を、もう片方の手で拭われていく。そして笑って、星空を仰いだ。
「……三日月の夜になったら、思い出してください。誇るのは、あなた自身だと」
嫌なくらいに輝いて見える月は海面に滲み、無数の星は叶の希望となる。
そして光をたいてシャッターが切られた。
家に帰ったら久しぶりにアルバムを開こう。何冊にも上る、数々の記憶たちを。




